血の契り
日没が近づくと、私はアロイスに会いに行く支度を始めた。
マルクがリゼットによって、不死者になった事を私からも彼に話さなければ……。
アンヌにお湯を用意してもらい、身体を清めた。
特に昨夜、ユー・シュエンに咬まれた首筋は丁寧に洗った。
鏡で確認すると、傷跡はもう残っていない。
彼らの唾液には、傷を治す成分が含まれているから。
ユー・シュエンの牙が突き刺さった瞬間のことを思い出すと、ゾッとして背筋が震えた。
雨はまだ降り続いていた。
少し蒸し暑さを感じたので、麻の半袖のドレスを着た。
麻布は汗を吸ってもすぐに蒸発するので、こんな日には適している。
胸元の開いたハイウエストの衣装に、金の帯を付ける。
それから長い金髪を、リボンと共に三つ編みに編み込むと頭にぐるりと巻き付けた。
貴族は、首筋を咬むことを好んでいる。
血が必要なら、杯に注いで飲んでもよさそうなのに。
アロイスに一度聞いたら、牙を突き立てる感触や、鼓動、血流を感じることも重要なのだと言っていた。
だから私たち提供者の纏う衣装は、男女ともに首から鎖骨の辺りまで開いている。
他の人間たちは、貴族の吸血を怖れて首筋を晒したりしないから、提供者は一目見れば、そうと知られてしまう。
日没まで、まだ少し時間があったので、心を落ち着かせるためにレンダーのお香を焚いた。
鼻からすうっと通るような香りが、心を静めてくれる。
「ソフィ」
長椅子に座っていた私の前に、アロイスが跪いて手を握っていた。
窓の外を見れば、日没を過ぎている。
薄暗い部屋。いつの間にうたたねをしてしまったのだろうか。
「アロイス、どうしてここへ? 私から行くはずなのに……」
もともとここは、領主が訊ねてくるような場所ではない。……この前は窓から入って来たけど。
「ソフィ。僕と結婚して欲しい」
――ああ、私は夢を見ているんだわ。
こんな風に、アロイスに跪いて求婚されることが、私の願望だったのかしら。
「そう。式はいつ挙げるの?」
これが夢なら次の場面は、教会で挙式じゃないかと思ったのだ。
私は夢の中のアロイスに、いたずらっぽく微笑みかけた。
それにしてもこの彼は、随分と切羽詰まって余裕がなさそうに見える。
「花束に、ドレス。指輪の交換……」
心に描いていた花嫁姿を思い浮かべる。
この夢が醒めた後は、涙するかもしれないけれど――。
「今すぐ、君と結婚して教会に届け出をする必要がある。その他のことは、すべて後回しだ」
アロイスは私を立たせると、腰に手をまわして支えエスコートするように手を取ると、飛ぶように速足で歩き出した。
「どこに、行くの?」
「礼拝堂。フレミー司教には話してある」
アロイスの速度について行けず、足がもつれてしまう。それに構わず、彼は私を抱えて階段を駆け下りる。
外に出ると、雨の湿った匂いに包まれた。
そして、ようやくこれが夢なんかではなく、現実なのだと気が付く。
「待って、ちゃんと説明して! なにがあったの?」
「君を守るためだ。今のままだと、巡察官のユー・シュエンたちから庇い切れない」
私ははっと息を飲んだ。アロイスは昨夜のことを知っている。
「でも。だからと言って……」
そもそも私は、貴族と人間が結婚できるなんて知らなかった。聞いたこともなかったから。
貴族は貴族と、人間は人間としか結婚できないと思っていたのに。
貴族と人間が結婚したら、どうなるのだろう。
私とアロイスが結婚したら、私は昼間の生活を捨て、アロイスと同じように夜の住人となるのかしら。
そして、免責されていた夜ごとの祝宴に出席する日々が待っている?
嫌だ、と思った。私はどうしようもなく、陽の光を愛していた。
それに、こんな風に訳も分からないまま、アロイスと結婚することは出来ない。
「ソフィ! 今は僕を信じて言う通りにして。後でよく話し合おう。きっと君の悪いようにはしないから」
「でも……」
アロイスが貴族になってから、今まで一度も結婚の話なんてしたことがなかったのに――。
それでも、アロイスの有無を言わさせない表情に、口を噤む。
絹糸のような雨に、髪もドレスも湿っぽく濡れて行く。
柔らかな室内履きは、水たまりのある石畳の道でびしょ濡れになってしまった。
礼拝堂に着き、オーク材と鉄で補強された重厚な扉を開けると、ガランとした会堂内に真紅に金糸で刺繍された祭服を着たフレミー司教が私たちを待っていた。
「司教、時間がない。略式で頼む」
「分かりました。どうぞ、こちらへ」
祭壇の前に立つフレミー司教と相対するように、アロイスと私は並んだ。
アロイスは青の天鵞絨のジュストコートに同じ色のリボンのタイをし、袖口から白いレースが見えていた。そして細身のズボンにエナメルの靴。
貴族は蒸し暑さは平気なのか、カッチリとした服装で涼しい顔をしている。
それに比べ、私は濡れてまだらになった麻のドレスに、無造作に結った髪の後れ毛からは雨のしずくが落ちている。
こんな姿で、結婚の祭壇の前に立たなければならないなんて。
きっと私は、随分と情けない顔をしているに違いない。
祭壇の上には、杯とナイフが置かれ、その隣のテーブルには羊皮紙と羽ペンが用意されていた。
「今ここに、貴族と人間が種族を超えて婚姻を結ぼうとしている。
二人は冥界の女神ヘルの御名によって契約し、結婚する。
夫は妻を保護し養わなければならない。妻は夫に尽くし貞節を守らなければならない」
フレミー司教の重々しい声が三人しかいない礼拝堂に響いた。
魔道灯に照らされた祭壇だけが、薄暗い会堂の中に浮びあがっている。
「アロイス・ヴィ・ノワール、女神の御前にこれを誓いますか」
「はい、誓います」
アロイスは私の手を取りぎゅっと握った。
「ソフィ、女神の御前にこれを誓いますか」
「……はい、誓います」
フレミー司教がナイフを一閃し、私とアロイスの繋がれた手を傷つけた。
鋭利な刃物で素早く切りつけられ、最初は何が起こったのかもわからず、痛みは後から来た。
滴り落ちる二人の血を、司教が杯で受け止める。
アロイスの傷はすぐに塞がり、跡形もなく消えた。
司教から杯を渡されると、アロイスはそれを飲んでから私の手に押し付け「さあ、ソフィも」と囁いた。
震える手で杯を受け取る。まるで魅入られてしまったように、逆らうことなどできない。
初めて口にする、貴族……アロイスの血。抵抗がないと言えば嘘になる。
アロイスの炯々と光る真紅の瞳に促されるように、ごくりと飲み干す。
どろりとした血液が喉を通り過ぎると、ドクン、と心臓が鳴った。
キーンと耳鳴りがして、視界がぶれる。
祭壇の奥に設置されている大理石で出来た女神像の閉じられた瞼が開き、私と視線が合った。
悲鳴を堪え、口に手を当てる。
アロイスを見れば、私の傷付いた手を取り舐めていた。あり得ない速さで、今つけられたばかりの切傷が塞がっていく。
急に魔道灯の届かぬ暗がりがはっきりと見え始め、礼拝堂のステンドグラスの闇の向こうに降る雨、外の微かな物音が聞こえて来る。
――これが『貴族の血』の効果なの?
「これに署名してください」
司教は祭壇横のテーブルに移動するよう促した。
羊皮紙に書かれた婚姻誓約書に、まずアロイスが署名した。次に私が羽ペンを持つ。
何が書かれているのか目を通そうとするのに、字が躍るように動いて読み取ることが出来ない。
「ソフィ、急いで。奴らが来る前に」
示された場所、アロイスの署名の下に言われるまま自分の名前を記した。
「ここに冥界の女神ヘルによって、二人の結婚は成り立った。この神聖な誓いと血の契りにより、貴族、人間、何人たりとも、この二人を引き離してはならない」
フレミー司教が厳かに宣言した瞬間、礼拝堂の扉が開かれ、巡察官ユー・シュエンとギルメット、副官パトリスと配下の騎士たちが中に雪崩れ込んできた。
「――これは、これは。伯爵、ご結婚おめでとう、と言わなければなりませんね」
ユー・シュエンが、もったいぶった様子で手を叩いた。