8.悪役令嬢は婚約破棄という名の劇に参加する①
1話目の続き、婚約破棄の話へ戻ります。
待ちに待った婚約破棄宣言を受けたマリアンヌは、卒業生達に見送られ講堂の扉へ手をかけた。
これからの事を考えると口許が緩み、公爵令嬢にあるまじき顔になってしまう。
(これで婚約破棄の手続きをしてもらって、私は自由になれる!)
『婚約破棄されたら、必ず俺がアンヌを貰うからな』
(バルトッ!)
甘く囁かれた言葉を思い出すと、胸の奥に甘い痺れが広がる。
マリアンヌはこの甘く痺れる想いは恋だと分かっていた。
両親へ報告し、婚約破棄の手続きを終わらせたら、さっさと家を出てギルドへ向かおう。
ぐりんっ、掴んでいたドアノブが力を入れていないのに動く。
「きゃっ」
勢いよく開いた扉に押され、後ろへ倒れかけたマリアンヌの背へ誰かの腕が回された。
「失礼」
倒れかけたマリアンヌを受け止めた人物が顔を近付ける。耳元近くで聞こえた声に、ギクリと肩を揺らしてしまった。
まさかと思いながら顔を上げたマリアンヌは、大きく目を見開いた。
「大丈夫か?」
「陛下……?」
背中へ回されたままの腕は、かっちりとしたジャケットを着て正装したギルバートのものだった。
彼の後ろに付き従うのは、銀髪のマリアンヌに似た端正な顔立ちをした青年。次期宰相候補でもあり、稀代の魔術師と名高いソレイユ公爵家長男マリオン。
「お兄様まで? どうなされたのですか?」
「ウィリアムが夜会を開くと聞いてね。卒業の祝辞を伝えに来たのだよ」
出入口近くに居た卒業生達が、マリアンヌと会話をしている相手は国王だと気付き、講堂内へざわめきが広がっていく。
「ところで、何故マリアンヌは一人で退出しようとしていたのだ? エスコートもマリオンがしたと聞いたが」
「それは、」
「叔父上! 丁度良いところにいらしてくれた!」
背後から響いた嬉々した大声に、マリアンヌは言葉を止める。
婚約破棄の話を進めるため登城しなくて良いのだから、確かに丁度良いタイミングでギルバートは来てくれた。
二度、作られた卒業生による花道を通り、意気揚々と歩いてくるウィリアムと、彼の隣に寄り添うアンジェ。彼等の後ろにはモルダーと魔術師団長子息も付き従っていた。
「たった今、マリアンヌへ婚約破棄宣言をしたところなんです。俺の妃には、このアンジェこそが相応しい」
恥ずかしそうに頭を下げたアンジェは、しっとりと潤んだ瞳でギルバートを見上げる。
男性だったら庇護欲を擽るだろう、上目遣いで此方を見ているアンジェの不敬な態度に、まさかと思いマリアンヌは顔を上げた。
二人と向き合うギルバートの表情は固く、彼はアンジェと視線を合わせるつもりは無いようだ。
背中へ腕を回されたままのマリアンヌは、ギルバートの機嫌が下降していくのが分かり身震いして視線を臥せた。
「婚約破棄宣言だと? ウィリアム、またお前は勝手な事を......相談無く夜会を開催したのは卒業祝いとして許そうかと思っていたが、マリアンヌとの婚約については私や宰相に話を通すのが筋というものだろう」
極力、感情を抑えて話しているだろうギルバートから放たれる威圧感によって、ウィリアムの表情に怯えの色が混じっていく。
「で、ですが、叔父上に相談していては時間がかかります。マリアンヌからの嫌がらせが増していき、アンジェの身が危険になると判断したため、先に婚約破棄宣言をしたのです」
「あの娘へ嫌がらせを行っていたのか?」
至近距離で問われたマリアンヌは首を横に振る。
「いいえ。わたくしはその様な卑劣な真似はいたしませんわ。やるならば嫌がらせはせず、正々堂々勝負します」
そんなことより、腰を放して欲しいと視線で訴える。
困惑したマリアンヌの表情を見たギルバートは微かに笑い、背中へ回していた腕を外した。
「そんなはずはない! アンジェへの嫉妬から、お前が嫌がらせをしていたんだ!」
今にも掴みかかってくる勢いのウィリアムから隠すため、マリオンはマリアンヌの前へ立つ。
「え、何で庇うの?」
やり取りを傍観していたアンジェは、心底驚いた様子で呟きマリオンを見た。
「ウィリアム、この話は祝いの会には相応しくはない。場所を変えるぞ。マリオン」
「はっ」
背に庇ったままのマリアンヌへ小さく「転移する」と告げ、マリオンは転移魔法の詠唱を始めた。魔力の線が床へ文字を描いていく。
「卒業生達よ、せっかくの卒業記念となる夜会に邪魔してしまいすまなかった。我等が退出した後、学生生活最後の夜を楽しむといい」
ギルバートの言葉が終わると同時に、マリオンの転移魔法が完成し床に描かれた幾何学模様から目映い白銀の輝きを放ち出す。
遠くの方でアンジェが何かを叫んでいる声が聞こえたが、魔法陣から発せられた強烈な光の渦が掻き消していく。
光の渦にのまれマリアンヌの視界は全て白で塗り潰された。
***
高位魔術師のみが使用できる転移魔法。数回しか経験したことがないマリアンヌは、足元が地に着いていないような不思議な浮遊感に、よろめいてしまい近くに居た誰かの腕へしがみついた。
「大丈夫か?」
「お兄様? 此処は……」
「王宮の中、謁見の間だ」
短く答えたマリオンは、腕にしがみつくマリアンヌの背中を支えて立ち上がらせた。
靴から伝わる床に敷かれた赤い絨毯の感触に、マリアンヌはホッと息を吐く。
「ウィリアム、此処は何処っ?」
両膝を絨毯に突いたウィリアムは、アンジェの問いには答えられない。自分を見下ろすギルバートから発せられる威圧感に震え上がっていた。
「お、叔父上、何故このような真似を?」
震える声で問うウィリアムへ、ギルバートは冷笑を向ける。
「お前は、あの場で情けない姿を晒し、恥の上塗りをしたかったのか? 愚か者が」
「ひぃっ?!」
吐き捨てるようにギルバートから言われ、ウィリアムの顔色が一気に悪くなる。
「ウィリアムッ、大丈夫?」
ガタガタ震えるウィリアムの背中をアンジェが擦る。恋人を落ち着かせようとする献身的な姿に見えるが、時折、媚びるような上目遣いでギルバートを見ていた。
その仕草から可憐な見た目を裏切るあざとさを感じ、ギルバートはフンッと鼻で笑う。
「残念だが、私に魅了の力は効かない」
「っ!!」
目を見開いたアンジェの頬が真っ赤に染まる。
(え、魅了って何の事? うっ、)
不穏な言葉が聞こえ、首を傾げたマリアンヌのこめかみに鈍痛が走る。
記憶の断片が甦りかけて靄の中へ消えていく。あと少しで分かると、瞼を閉じた時、バタバタと走る足音が聞こえた。
「陛下、失礼いたします!」
衛兵に先導され、謁見の間へやって来た三人の男性を見た騎士団長子息モルダーと、魔術師団長子息の顔から血の気が引いていく。
「ち、父上……」
「何故」
髭を生やした厳めしい顔付きの騎士団長は、ギロリと息子を睨む。口を開きかけて、ぐっと堪える。怒鳴り付けたいのを堪えるため、握り締めた拳は小刻みに震えていた。
魔術師団のローブを羽織った魔術師団長は、苦虫を噛み潰したかのような苦渋に満ちた顔で息子を睨む。
二人に続いてやって来たのは、頭の先から首までを覆う黒い覆面を被った黒装束の男性だった。
「騎士団長、魔術師団長、そしてウィリアムの警護をしていた暗部の者だ。彼等にも加わってもらう。衛兵」
衛兵二人はアンジェを押し退け、座り込んでいるウィリアムの両脇を抱えて立ち上がらせる。
「さて、マリアンヌとの婚約を破棄したいとは、どういうことだ?」
「マ、マリアンヌは、小言ばかりで俺を支えようともしない。傍にいて息苦しい女は、婚約者に相応しくありません」
パチッ、静電気が弾けたのを感じ、マリアンヌは隣に立つマリオンを見て、ぎょっとした。
無表情になった彼の眉間には、苛立ちを表す深い皺が寄っていたのだ。
小さく「殺す」とか物騒な言葉も聞こえ、兄が本気で苛立っていると感じたマリアンヌは背筋が寒くなった。
「ほぅ、お前の後ろにいる娘こそ婚約者に相応しいと?」
「そうです! アンジェはマリアンヌとは違い俺を支え、常に癒してくれた。彼女を婚約者とし、いずれは妃に迎えるつもりです」
(癒しを求めるとか、馬鹿じゃないの。ここまで恋愛脳になるとは、彼はどうしたのかしら)
恋人ではなく盲信者だ。うんざりしながらウィリアムの話を聞いていると、突然、ギルバートがマリアンヌを振り返った。
「マリアンヌ、先程も聞いたがこの娘へ嫌がらせを行っていたのか?」
「いいえ。わたくしはアンジェ嬢と会話を交わしたことすらありませんし、殿下の行動を諌めたことはあっても仲睦まじいお二人を邪魔した事はありません。勉学に励むように、課題を提出するように、横柄な態度はいけない、と常々言っていたのは事実ですが。母親のように煩くしていたら、確かに癒しは与えられませんね」
茶目っ気たっぷりに言うと、ギルバートは口を押さえて顔を背けた。咳払いをして誤魔化しているが、どうやら彼は笑いを堪えているようだ。
「ふっ、ナイジェル、どうだ?」
ナイジェルと呼ばれた黒装束の男性は頭巾へ手をかける。
男性の素顔を目にしたアンジェは「あっ」と声を上げ、慌てて手のひらで口元を押さえた。
短い黒髪に切れ長の黒い瞳が印象的な青年は、ギルバートの足元へ跪く。
「マリアンヌ様のおっしゃる通りでございます。マリアンヌ様は嫌がらせなど行わず、勉学に励みクラスでは学級委員を務めておられました」
「嘘ですっ! 私はマリアンヌさんから嫌味を言われたし、嫌がらせもされました」
発言を遮られたナイジェルは腰へ手を伸ばす。動こうとしたナイジェルと衛兵をギルバートが手で制した。
「そうです叔父上! アンジェ、どんな事をされたのか話せ」
「ノートを破られたり、教科書を捨てられたり、酷いことが書いてある手紙が下駄箱へ入れられたり、私、怖くて。この前なんか階段から落とされました!」
恐怖を表すように両手を胸元で握り、アンジェは涙で瞳を潤ませて周囲を見渡した。
騎士団長子息モルダーと、魔術師団長子息が心配そうな視線を彼女へ送る。今すぐ側に行きたいのに、父親達に阻まれて動けないのだ。
今にも泣き出しそうなアンジェの隣へ、駆け寄ったウィリアムは射殺さんばかりにナイジェルを睨む。
「ナイジェル、続きを話せ」
「はっ。その娘が嫌がらせを受けていたのは事実です。不特定多数の生徒、主に婚約者に手を出された女子生徒によるものです。階段から転倒した日は、マリアンヌ様は学園を欠席され登城されています。また、転倒した理由ですが自作自演かと」
「嘘ですっ! 嫌がらせは全てマリアンヌの」
「黙れ」
ギルバートの声に混じる苛立ちと殺気を感じて、怯えた表情になったアンジェはさすがに口を閉ざす。
「貴様の発言は赦しておらぬ。ウィリアム、これ以上発言の邪魔をすれば不敬罪で娘を捕らえるぞ」
一気にウィリアムの顔色は青くなる。
幼い頃からの経験で、叔父は害悪だと判断した者に対し、情けを一切かけず切り捨てる冷徹な一面がある事は知ってた。
何故、今まで忘れていたのかと、ウィリアムは片手で顔を覆った。
「ナイジェル、発言を続けよ」
静まり返った謁見の間に、ギルバートの声だけが響き渡った。
国王無双はまだ続きます。