2. ある日の出来事(2)
「どうしたの、エルッ! 落ち着いて! いい子だから~」
一匹の馬が森のなかを駆け抜けていく。それはもうすごい速さで……。
その馬の背には、蜂蜜色の長い髪を風に煽られながら、しがみつく少女がいた。
その少女、フィオナは振り落とされまいと全身で愛馬のエルにしがみつく。手綱は持っているのだが、まったく役に立っていない。乗馬を始めて7年になるが、こんなことは初めてだ。
向かっている先は森のなかにある古い神殿。通いなれた道だから間違いない。エルも分かっているのだろう。迷いなく進んでいくから。
まさか何かが起きているとか……。愛馬にしがみつきながらフィオナは困惑していた。
フィオナはこの森を管理するアルディ伯爵家の令嬢である。
蜂蜜色の髪にアメジスト色の瞳を持つ可憐な容姿ながら、家族には「じっとしていれば深窓の令嬢」と表される、生き生きとした少女だ。
普通、国の支配階級である貴族の令嬢が一人で外出することはない。ましてや、森のなかを馬で全速力で駆けることもない。
しかし、この森にはその常識を覆すほどの理由があった。
ファブール王国辺境アルディ伯爵領にあるこのギードの森は、森全体が不思議な力で守られており、限られた人しか受け入れない神秘の森として知られている。神気に溢れた神聖な場所のせいか、獣もあまり寄りつかない。
フィオナの生家であるアルディ伯爵家は、ファブール王国の建国以来、領地内にあるこの森の管理を任されてきた。見守るだけではない。森に入り、中心にある王家の神殿を代々守り続けている。森に歓迎される一族だ。
型破りではあるが、伯爵令嬢であるフィオナが馬に乗り、一人で森や神殿を訪れても何の問題もなく安全な場所だった。むしろ森の外は危ないから護衛を連れているくらいだ。
そんな森であったから、この先に何が待ち受けているのか見当もつかない。
フィオナは愛馬に揺さぶられながら、森の話を聞いた時のことを思い出していた。
…☆…☆…☆…
「ギードの森には、王家の神殿があるんだよ」
「おうけのしんでん……?」
フィオナが父であるアルディ伯爵から、隣国との境にあるギードの森の王家の神殿について聞かされたのは10歳の時だった。
他国からの侵略を防ぐための守り神を祀ってあり、時に王族や高位な貴族が訪れる大切な場所であり、その管理をわが伯爵家が任されているのだと。
「王家の神殿が、ここにあることは秘密なんだ。このことは限られた人しか知らない。フィオナが10歳になったら教えてあげようと思って楽しみにしてたんだ」
フィオナと同じアメジスト色の瞳をキラキラさせながら、父は楽しそうに、また誇らし気に話してくれた。
「知っている人は?」
「お母様とウィル、そして、代々わが家の執事をしてくれているコール家だけだ」
「たったそれだけ……」
「そうさ。それ以外の人には話しちゃ駄目だ」
「もしも、話してしまったらどうなるの? うっかり……っていうこともあるでしょう」
「この国を建国したケルガー王が蘇り、この国を作りかえると言われている。悪に満ちた国にね……。夢物語みたいだと思うだろう。でも、このことはアルディ家が爵位を賜った建国の時から伝えられてきたことだ」
内緒話を交わすかのような楽しげな雰囲気が重苦しいそれに変化したのが、10歳のフィオナにも分かった。
アルディ伯爵家の当主として、伯爵夫人であるお母様や継嗣となるお兄様のウィルフレッド、そしてこの家に関わっていく人に機をみて話してきたのだろう。10歳のフィオナにも父親の話は荒唐無稽ではあったが理解できた。
「私もお祖父様から聞いた話だ。もっとも、爵位を継がなければならない分、フィオナよりは厳しく教えられたけどね」
そう言って、アルディ伯爵は表情をゆるめた。
「ギードの森は私とウィルで管理してきた。しかし、ウィルが王都の学校に行っている間はフィオナにも手伝ってもらわないと。私一人では無理だからね。頼むぞ」
フィオナは、自分にアルディ伯爵家に生まれた者としての役目が与えられて嬉しかった。それと同時にワクワクするような考えが浮かんだ。
「ギードの森には馬でしか行けないでしょう? 乗馬を習ってもいい?」
「もちろんだ。ここの土地は広い。馬車では行けない場所もある。田舎で暮らすには乗馬は必要だ。ただし、森の中は1人でも危険はないが、それ以外の場所にはちゃんと護衛を連れていくんだぞ。私を心配させないように」
こうして、ギードの森にある王家の神殿のことは、幼かったフィオナの心の奥底に、誰にも言ってはいけない……の言葉とともに深く刻み込まれた。
…☆…☆…☆…
風を切る音がようやく静になり緩やかに動きが止まった。ここは神殿の近く森の中心にほど近い場所である。
首を巡らせ、いつもと変わらない景色であることを確認すると、ほっとしながら、ようやく止まった愛馬にフィオナは声をかけた。
「エル、どうしたの? 何かあった?」
エルは先ほどの興奮が嘘のように落ち着いている。何かを感じているようにも見えるが、怖がっているそぶりはない。
愛馬の様子に安心したフィオナは、視線を神殿のある方向に向けた。
ギードの森の中心にある王家の神殿は、真ん中にふくらみを持たせた柱が円形に並んで建っているだけの簡単な造りだ。柱に囲まれた円内には石が敷き詰められており、その中心には碑文が刻まれた人の身長ほどの石碑がある。祭壇はないので、供物は石碑に供えるようにしていた。すべて白い石で造られた神殿は、風雨にさらされ古びてはいたが、いつも神聖で美しかった。
不安な気持ちを抑えながら訪れた神殿は、いつものように静寂に包まれ、変わらないように見える。
(国を守る神様が祀ってあるのよ、ここが危険であるはずがないわ。エルの様子がおかしかったのは、きっと虫に驚いたのよね……)
さっきまでのエルの興奮を虫のせいと結論付けながら、フィオナが神殿に足を踏み入れたその時、違和感を覚える。
「……? あれ? 石碑がない!」
柱の陰に隠れて見えないこともある石碑だが、柱に囲まれた円内に入ればさすがに見える。当たり前にあるはずのものがそこになかった。
「え、え~っ! どうして」
石碑があるべき場所に思わず近づいてみると、フィオナの足元がぐにゃりとゆがんだ。
「!」
フィオナは声を発する間もなく、王家の神殿から消え去った。