1. ある日の出来事
「……静かだ」
思わずといった風につぶやく1人の青年。
王宮から転移魔法を使って一瞬でこの地にやってきた青年には、先ほどまでの騒々しさがまるで嘘のように感じられる。ゆっくりとした動作で周囲を見渡すと、どこかほっとしたように、青年は肩の力を抜いて歩き出した。
神聖な雰囲気に包まれた静けさのなか、青年が砂利を踏みしめる音だけが響く。見にまとう黒いローブをはためかせながら進んだ先、人の身長ほどもある石碑の前で青年は立ち止まった。
『神殿には神が住む。神殿を穢すものはケルガー王の怒りに触れ、地獄の焔を見るだろう。』
石碑に刻まれた文字を目で追う。
(また来ることになるとは……)
青年は期待とも嫌悪とも、諦めともとれるような表情を一瞬浮かべたが、首を振り表情を引き締めた。右手を碑文に密着させ、赤と金がグラデーションのように混じる美しい瞳に光を宿す。
「……受け入れろ」
青年の口から短い言葉が発せられた瞬間、青年の姿はかき消すように消えた。
神聖な場所には不似合いな異質な文が刻まれた石碑も、青年に同調するように消え去った。
…☆…☆…☆…
「ウォルスがいれば、もう少し早く進めそうなものを……」
行く手を阻む令嬢たちを無視して、フリオニール・アルスカイザーは父のもとに急いでいた。
この青年が王宮内を歩けば、どこからか令嬢たちが押し寄せ話しかけてくる。これはいつものことだ。普段であれば視線を向ける程度には応じている。
しかし、今はそんな余裕はない。緊急事態なのだ。
(目の前で突然消えるなんて……。一体どうなっているんだ)
各宮を区切る両開きの扉にようやく辿り着いた青年は、警備をしている衛兵たちが扉を開けると素早く滑り込む。
「お待ちになって~! フリオニールさま~っ」
名残惜しさがにじむ令嬢たちの声を他人事のように聞き流し、目指す部屋の扉をノックもせずに飛び込むと、いきなり切り出した。
「魂の欠片がなくなったと言い残して、突然ウォルスが消えた。どういうことだ!」
部屋の主である魔導士長の父オーウェンは書類を読んでいる途中だったようだ。羊皮紙が使われた貴重な書類を床にばらまきながら長椅子から立ち上がった。
「なにっ! 消えた!」
アルスカイザー家の当主であれば何か知っていると考えたのだが、あてが外れた。
部屋の隅にある止まり木でくつろいでいるカラスに確認するように顔を向けると、甲高い声でカラスが応じる。
「身のうちにある魂がなくなることで契約が切れ、魔界に戻されたのだろう。王家の神殿で呼び出すこともできるだろうが……再契約に応じるかは分からん」
「契約は一生に一度だけのはずだ。魂がなくなるのは死を迎えたとき。それこそフリオが死んだ時のはず。……何ともないのか?」
父が心配そうに聞いてくる。
「俺は何ともない。一生に一度しかできない契約だと理解していたが……。召喚の儀式をしても問題ないようなら、今から王家の神殿に行ってくる」
「命をまた削られるぞ」
威厳のある魔導士長の職務から離れ、諭すように父親が言う。
「大丈夫ですよ、俺の魔力は強い。父上も分かっているでしょう。契約を重ねても、父上よりも先に死ぬことはない」
フリオニールも部下ではなく、オーウェンの子どもとして答えた。
「そうだな。わが一族の尊い役目だ。……そうと決まったら早く行くといい。すぐに神殿へ行って契約を交わしてこい。伯爵家には私が連絡しておく」
二人は短い会話を交わすと、フリオニールは転移の魔法をつかって王家の神殿へとやって来たのだ。
しかし青年は、半時前までの自分の状況を思い出すと、自身を悩ませる原因になるかもしれない、あいつが再び現れたらどうしよう、と複雑な心境を抱えている。
(あいつが現れるのか、それとも別の……)
青年は召喚のための円陣を前にすると、悪魔との二度目となる契約を前に、迷いを振り切るように儀式にとりかかった。