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脳の中の砂  作者: f
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毀れたイメージの群れ 4


 そのあと、僕は自分の影が戻ってきていることに気づいた。

 しかし、僕が何かを失ったのは間違いない――もう一方の()は死んでいたのだから。その何かは、僕がいまの僕であるためにふさわしい犠牲だったのだろうか?僕には分からない。それが失われなかったなら、僕は何を得ることができなかったのだろう?

 僕はなにかを忘れてしまった。忘れるということ――それは空っぽになることとは違う。痕跡も何も残さない、ただの消失。忘却に気づくということは、そもそも何もないところに手を伸ばしてしまったようなものだ。あると思っていた段がなかったような、肩すかしを食らったような、軽い感覚。

 忘却によって何が変わったのか……本人がいちばん、自分の変化に疎いのかもしれない。


 僕は以前より、自分は確かに存在していると感じるようになった。しかし人と一緒にいる時、僕はまだ影の中にいるような――というよりも、彼らに見えているのは僕の影で、本物の僕はそばでそれを眺めているような感覚に襲われる。



*********



 僕は彼女と一緒に汽車に乗っていた。

 彼は顔を上げ、車窓から外を眺めた。外は真っ暗で、窓は鏡のように僕たちの姿を映している。

 僕たちは二人とも、どこで下車すればいいのか分からずにいた。


「いつでも、汽車に揺られているのが好きだった」僕は言った。

「ずっと汽車に乗ったまま――どこにもたどり着かなければいいと思っていた」

「あなたはどこにも行きたくないのね」


 彼女は以前の僕との会話を思い出したようだった。

 僕はふっと笑みをこぼした。


「前はそうだった」

「今は?」

ここにいる(・・・・・)と分かりさえすれば、それで十分だよ……」


 僕は再び窓の外に目を向ける。


「それが分かりさえすれば……」


 次の停車駅で、僕たちは一緒に下車する。プラットフォームに降り立ち、汽車がいなくなるまで見送った。

 僕は口を開き――ふと思って、呟いた。


「これは夢だろうか……?」


 彼女が言った。


「わたしにとっては、これが現実よ。あなたにとって、これは現実なのかしら?」



 最後に、僕は彼女の頬に軽くキスをして、彼女の目を覗きこむようにして言った。


「さよなら……」


 僕は彼女に背を向け、いなくなる。



*********



 夜、僕は蝋燭の明かりの中でぼんやり時計を眺めていた。時計の針はきちんと動いていたが、正しい時間かは分からない。時刻は真夜中を過ぎていた。

 物思いに沈んでいると、光の届かない闇の中でさらに暗い何かが動き出した気がした。


「誰だ?」僕は尋ねた。

「君の影だよ」


 僕は後ろの壁を見た。何年もの別離を経て、僕と影はまた一つになった。僕はしっかり影の姿をとらえようと目を凝らした。彼は当然のようにそこにいた。僕自身と同じ形をしているはずなのに、蝋燭の光で大きくなっており、とても奇妙なものに見えた。


「君は覚えているのかい……もう一方の僕だった時のことを」

「なんにも覚えていないよ」


 本当だろうか?別れていた間、彼は彼自身として生きたはずだ。僕に教えたくないことも、教える必要のないことも、たくさんあるのではないだろうか。


「覚えていたら、君にも分かるはずじゃないか――今では元通り、一つになったんだから」

「そうかもしれないね」彼は続けた。「だいぶ、弱っているみたいだね」

「そんなふうに見えるかい?」


 影は肩をすくめ、言った。


「いま、僕はどんなふうに見える?」


 僕はじっくりと影を眺めた。


「なんだか、変わらないまま古びてしまったみたいだ」

「そうだね。変わったのは輪郭だけだ……昔の自分じゃなくなったのが悲しいかい?」


 僕は頷いた。僕は悲しかった――確かに悲しかったのだが、それと同時に、相変わらず何も感じていない気もした。


「色んなことは分かるようになったよ。でも、そのせいで昔の世界の美しさが消えた気がして、悲しい」


 僕は壁に近づいた。そうすると、影は僕ただいたい同じ大きさになる。僕は影の輪郭をなぞった――彼も同じことをする。


「知らなければよかったことなんて山ほどあるけど……でも、分からないっていう宙ぶらりんな時が、一番つらい。悪いことでも知ってしまえば、その時はもっとつらくなるかもしれないけど、その場を後にすることができるんだ……」


 彼は言った。


「終わってしまったら何にも残らない。何か残っているのなら、まだ終わったわけではないかもしれない。何かに気づいた時点で、まだ遅くはないだろう」


 僕は彼に背を向け、椅子に腰かけた。

 僕たちは揺れる蝋燭の炎を眺めていた。蝋燭がかなり短くなるまで。


「いま、君がどこにいるか分かるかい?――いや、答えなくていい。君、どうせ自分がどこにいるか分からないんだろう」


 僕は自分の影をふり返り、頷いた。


「おしゃべりはこのくらいにしておくよ」


 僕の影はそう言い、蝋燭を吹き消した。

 僕は闇の中でじっと黙りこんでいた。



*********



 僕は死者を見ることができなくなってしまった。しばらくはそのことにも気づかなかった。

 まれに目の端で彼らをとらえたと思うことがあってもそちらを向くと、決まって藪や看板や打ち捨てられたガラクタがあるだけだった。

 彼らはどこに行くのか――どこにも行かないのか。



 僕は書き記す。僕の記憶は完璧ではない。出来事は間違って記憶され、文字や音として形をとった瞬間に、まったく別のものになってしまう。そして何かが消えてゆく。この物語はただの物語であって、本当に起きたことはほとんどない。「ほとんど」とつけた理由は、少なくとも僕の頭の中では確かに起こったと思われる出来事もあるためだ。しかし、いずれにせよ、どちらでも同じなのだ。

 何が事実で、何が作り話か、本当のことは誰にも分からない。



 僕が覚えておきたいのは瞬間、すぐに飛び去ってしまうもの。記憶していても、とどめておくことはできない。記憶に残るのはその印象だけ――それがいちばん良い。余計なものがあると、ねじれてしまう。閉じこめられた記憶は、重いものほど深く沈みこむように、埋もれてしまう。それならば、逃げるに任せた方がいいのかもしれない……。

 それでも僕は、書き記すことによって、その印象が頭の片隅によぎればいいと思う。


 この話は意味も一貫性も結末も持たない。不確かで不完全だ。

 僕にはどうしても解けない謎があった。僕は自分が今どこにいるのかも、どこへ行きたいのかも分からなかった。気がつくと僕は、この物語に舞い戻って、まずどこから始まったのかを見極めようとした――それは上手くいかなかった。そしてこの物語の中で、僕は彷徨ってさえいなくて、ひたすら堂々めぐりをしているだけだった。最近になってやっと、僕はそれが分かった。僕がここにいる限り決して答えが得られない問いを、僕は投げかけているのだ。


 これは僕の物語であって、僕の頭の中で起こったことであって――いや、ただ単にこういうことがあったのだろうと僕が想像したことであって、後にも先にも、誰の身の上にも起こりえないことなのだ。この物語が完成する時、僕はまったく別の人間になるだろう。いまの僕という存在が終わらない限り、この物語は完結しない。いま、僕は自分が終焉に向かおうとしているのを感じる。だからいまの僕であるうちに、この文章を書くことにした。いまの僕にしか分からないこと、いずれ失ってしまう感覚。

 この物語が終わる時には、僕は僕を理解できなくなっているのではないだろうか。


 僕は自分に向けて、この文章を書く。君はすっかり変わってしまった。僕は君になることを恐れていた。きっと想像より遥かにあっけなく、いまの僕は終わってしまうだろう。もはや、いまの君は過去の君のことを理解できないということを、どうか覚えていてほしい。おそらく君が想像できるようなことは何1つ起こらなかった。この物語は君の物語ではなく、僕の物語だ。

 どうか分かったつもりにならないでくれ。

 僕は不条理なことを書いているだろうか?そうだとしたら、僕が自分を見失いつつあることの明らかな証拠ではないか?



 十年ほど前に“影”を失ってから、僕のことばはちぐはぐになった。“影”は戻ってきたが、あの時になくなったものは戻ってこない。僕は新しくやり直す――いや、まったく別のことをはじめることしかできない。いくら書き記しても語っても、僕のことばは形にならず、散り散りのまま。

 頭の中にあるのは、(こわ)れたイメージの群れ。ないまぜになった想念。


 僕は相変わらず痛みとともに目覚める。すっかり慣れてしまったので、意識しないかぎり今さら苦しいと思うこともないけれど。呼吸をするごとに、僕は過去を失っていく。痛みは過去を失うことによってもたらされるのか、変化することによってもたらされるのか……その二つは同じことだろうか。


 僕は無機質だ、と言い切ってしまうこともできる――が、そうではないことは僕がいちばんよく分かっている。僕は脆く、不完全で、いびつだ。長い間ほったらかしにされ、崩れかけた城のよう。それがいいとも悪いとも思わない……ただ単に、いまの僕はそういうものだ、というだけだ。

 それが分かりさえすれば、僕の中のひび割れも減っていくだろうか。



 生きるということが、こんなにも苦痛(・・)()満ちて(・・・)いる(・・)なら、僕は百万人に(・・・)一人の(・・・)幸運(・・)を手に入れるべきだったかもしれないし、“死”を経験した時にすべてを終わらせるべきだったかもしれない。しかし――終わったものが戻ってこないのと同じように、すでに起きたことをなかったことにすることもできない。

 たとえ僕の中から消えていくとしても。



*********



 僕は自分が何をするつもりなのか分からない。遅かれ早かれ、いまのままでは限界が来るだろう――またピストルを買わなければならなくなる。

 きっとピストルを使うことがいちばん手っ取り早い方法なのだと思う。でも僕がそうしないのはなぜか……僕はいまだに、何かに期待しているのだろうか……?それともただ怯えているだけだろうか……。



 僕は仕事を終え、よく通っているカフェの前まで歩いた。しかしそこはもう閉まっており、降りたシャッターが向かいのバーの明かりを反射していた。バーからは人々の話し声や陽気な笑い声が聞こえた。それからバイオリンやアコーディオンを演奏するメランコリックな音も。

 僕は最初、彼らが演奏している曲を初めて聴いたと思った。しかしぼんやりと耳を傾けているうちに、知っている曲に思えてならなくなった。題名も、誰の曲なのかも思い出せなかった(あるいは、そもそも分からなかった)が、その曲は僕の神経を逆なでし、耳を塞ぎたい気分にした。

 それと同時にずっと演奏をやめないで欲しいと思ってしまうような曲だった。


 僕は街の中心部を離れ、海岸に行った。僕は断崖に座り、陽が落ちて闇がどんどん深くなっていくのを眺めていた。周りには街灯もなく、どこが淵なのかはっきりしない。ただ肌で確かめることしかできない。潮風が強く吹き、海は激しく岩肌に打ちつけている。月のない空は暗く、星々は静かに動いている。

海の音以外は何の音もしない。

 僕は目を閉じる――ひとりぼっちで轟きと闇の中に溶けていく。自分が何も残さずに消えてしまったように感じる。それと同時に、いつにも増して、自分は間違いなくここに存在しているとも思う。



*********



 僕はバーで本を読んでいた。

 バーの亭主は注文を取りがてら、僕に微笑みかけた。


「あなたにとって文学というのは、私にとっての絵画のようなものなんでしょう」


 僕が答える前に、彼は他の客に声をかけられ、それに応じるためにどこかに行ったが、すぐに戻ってきた。


「もうせん、お聞きしようと思っていたのですが、」彼は言った。

「なかなか機会がなかったので――だいぶ前に私が差し上げた細密画(ミニアチュール)、あなたは気に入られましたか?」


 僕は答えようと口を開き――とつぜん、あの絵に何が描かれていたのかを思い出した(・・・・・)


「ええ、もちろん……あれは本当に美しい作品ですね」僕は亭主に、最初に言おうと思っていた台詞とはまったく違うことを言った。

「あなたの言った通り、あの絵には僕がここに(・・・)とどまる(・・・・)価値があります」




(完)



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