毀れたイメージの群れ 2
以前書いたものをコンパクトに書き直しました。
「箱の素描」の前身となる作品です。
あの日、不可解にも世界が毀れてしまった。
僕は町を歩いていた。町は崩れ、黒ずみ、灰が音もなくふりつもっていた。誰もいない町は死者だらけだった。みんな無傷で、沈黙したまま歩きまわり、死んでいる。空は暗い……黒い染料が空から滴っているように、どこを見ても暗かった。建物はほとんど破壊され、煙を上げており、人影はなかった。僕の頭はしびれているように感覚が鈍く、漠然としか状況が分からなかった。通りすがりの家を覗いてみると、悪臭とともに腐敗しかけた死体がいくつか転がっていた。
さらに歩き続けると、瓦礫の中で死にかけている男を見つけた。彼はとても苦しそうだった――そんなに苦しいのにまだ生きているなんてどういうことだろう、と僕は考える。
「こんにちは」僕は言った。
「どこから来た?」男はかすかな声で答えた。
「うんと遠くから」
「おれと同じくらいか?」
「うーん――たぶんそのくらい」
「じゃあ、すっごく遠くから来たんだな……」
男はぼんやりと空中を眺めていたが、すぐに我に返って言った。
「あんた、どうしてこんなところに来たんだ?」彼は言った。
「あなたはどうしてこんなところにいるんです」僕は尋ねた。
「自分で選んで、ここに来たのさ」彼は答えた。「全部おれが選んだことで、身から出た錆だ。誰のせいにもできない」
「たぶん、全部があなたのせいってわけじゃないはずです」僕は言った。
僕はあてもなくあたりをうろついた。崩れかけた橋を渡り、枯れ木の間をくぐり、倒れたフェンスを踏み、線路の上をえんえんと歩き、陰気なトンネルを抜けて、崩れ落ちそうな空き家を見つけた。風が窓枠や屋根をわずかに軋ませているだけで、完全に無人のように見えた。
「中に入ろうか、それとも……」僕は独り言つ。
入ったら後悔するかもしれない。しかし――
「ここまで来たんだ、入ってしまおう」
僕は空き家の中に入った。天井はほとんどなく、雷の前のような、黄色がかった空が見えた。ところどころ柱も折れ、壊れた梁が地面の上で苔を生やしていた。
中には何もなかった。雑草と、崩れた壁と、風が運んできたがらくた。それだけだった。
「ここには誰が住んでいたんだろう?」僕は言った。
「たぶん最初から、誰もいなかったんだ」
きっとその通りだ、と僕は思った。はじめから、なんにもいなかったのだ。それが僕には恐ろしかった。
僕は自分の部屋の中にいた。火事にでも遭ったように焼け焦げて、壁はほとんど崩れ落ち、煤が舞い、ひどい煙の臭いがした。かろうじて梁にへばりついている壁のすき間から外が見えた。もう日暮らしく、世界は寂れたオレンジ色をしていた。一滴の水も存在しないほど枯渇しているようだった……
ベッドの上に、骨だけになった身体が横たわっていた。
「やあ、こんにちは」何かが言った。
見回すと、焼け残った壁の上にてんとう虫がいて、僕を見下ろしていた。
僕は黙ったまま、視線をベッドの上の骨に戻した。てんとう虫はかまわずに続けた。
「かわいそうに……すっかりなんにもなくなってしまって。残っているのは体と、私たちだけ。私たちも消えてしまえたらよかったのに、ねえ――」
てんとう虫は壁から飛び立って、骨の上に――肋骨の上にとまった。そして骨の隙間から、身体の中に吸いこまれていった。
僕は特に感動することもなく、壁の隙間からオレンジの光が差し込んでいるのをぼんやりと眺めていた。
とつぜん、瓦礫の中の身体が起きあがった。僕はやはり驚かなかった。
身体はベッドから立ち上がると、家の残骸から去っていった――僕に向かって、最後にこう言い残してから。
「あなたの幸運を祈ります」
それがいなくなってだいぶ経ってから、僕は窓枠に近寄り、外を眺めた。あるのは建物の燃えさしと、ひび割れた土地。眺めているだけで苦しくなるような、美しい夕焼けが見えたが、もう太陽は空から消えていた。
あたりは枯渇し、黒ずみ、ひび割れていた。
僕は漠然と考える。あの死体は僕だった――
その瞬間、世界は元通りになった。空は青く、瓦礫も灰も消え、人々は死体ではなくなった。
だが、僕の世界はすっかり変わってしまった。
僕の影は消えてしまった。
何もかもつかみどころがなくなった。
*********
終わりというものについて考える時、僕はいつもこの頃――十三歳の頃を思い出す。この頃に、僕の中で何かが終わった。何かが失われた。何かは分からないが、取り返しのつかないことが起きた。僕は死んでしまって、それなのに動き続けている。
後になって何度も、数え切れないくらい、僕は後悔することになる。つまり――どうしてこの時に死んでおかなかったのか?
死者は生き返らない――何であれ、起こるのはただ一時のこと、そして終わってしまうのだ。戻ってきても、そこには何もない。
その日から、僕は痛みとともに目覚めるようになった。どんな痛みなのか、説明することは難しい。鈍いと思うこともあるし、執拗で耐えがたいと思こともある。痛みと言うより、ぼんやりと滲むような疼きといった方がいいだろうか。僕は常に痛みを感じている。でもすぐに慣れてしまって、なにも感じなくなった。痛みが消えたのではない。ただその存在を忘れるだけだ。
物心ついてから一度も、僕は死者が怖いと思ったことがなかった。死者は良いものでも悪いものでもなかった。生きている人々より死者の方が、僕にとって身近な存在だった。生きている人々は外側にいるが、死者たちは――もっと近い場所にいる。生きている人々のことは、僕は何ひとつ知らない。
僕は再び暗闇の中を、影の中を好んで歩くようになった。そして黒々とした影の中から、明るい外を眺める。太陽が白く輝き、影はそのぶん濃くなる。風が木々を揺らし、囁き声のような音をたてる。僕は目を細めて外を眺める。空は頭を突き刺すように青い。だんだん影が長くなってゆく。僕は身じろぎもせずそれを眺める。木々の影の縁をそっと指でなぞる。影はひんやりと冷たい。
死者たちには影がない。そして終わりの日を堺に、僕の影は消えてしまった。でも僕は死者ではない。僕は孤独だ、と考える。そんなことを思ったのは初めてだった。こんな状態がいつまでも続くなら、僕はそう長く生きられないだろう。
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成長して世界がどんどん狭くなり、余白がどんどん大きくなっていることに気づいた時、僕はこれまでの自分の記録を抹消してしまった。それから拳銃を買った。もうたくさんだと思った。消えてしまえばいい、何もかも。
これでこめかみを撃てば何もかも終わる。いや、果たしてそうなのだろうか?ある意味で終わることは間違いないが、本当に何もかも終わらせることなどできないのではないか?
僕は拳銃を捨てた。僕は臆病者だ。
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ことばさえ通じればよかったのに。僕は強くそう思う。
ことばさえ通じればよかったのに!
僕は外側に通じる言葉を持たない――言葉にならないものは存在しないのか?そうだとしたら、僕の頭の中にあるのはなんなのだろう?僕の中にはなにもないのか?
それにしても、ことばさえ通じればよかったのに!
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月のない夜、僕は星を眺める。空気はガラスのように冷たく研ぎ澄まされ、すべてが沈黙し、物音は一切ない。その沈黙と闇に吸いこまれてしまいそうになる――吸いこまれてしまえばよかったのに!時おり、コウモリの群れがどこかへ飛んでいくのを見かけた。星はじっと動かないが、刻一刻と変化する。
夜は昼間よりもたくさんの死者たちが彷徨っているのを見かける。彼らは徘徊するほかに何もしなかった。目は開いているが何も見ていない。身体に傷はない。だが間違いなく死んでいる。大人になると、僕は死者を見ると気がめいるようになった。見るたびに、彼らは僕の血管を暗くする――そんなものは見なければいいのに、僕はよく彼らを眺めていた。彼らはどこへ向かっているのだろう?
僕は考える。人が死に、それを受け入れた後はどうなるのだろう?しばらくこの世にとどまっているのだろうか?そしてだんだん薄れていくのかもしれない。残された者の記憶とともに。
夜明けなど来なければいい、と僕はいつも思う。
だがそのうち東の空が白みはじめ、鳥たちが鳴き、太陽がやってくる。そうすると、星々はすっかり覆い隠されてしまう。僕はなすすべがない。
夜明けは美しい、でも――僕はいつも夕暮れを待ちこがれている。
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僕の頭はときどき、自分の意思と関係なく目まぐるしく動く。まるですべての水門が開いてしまったかのように、あらゆるものが洪水のように流れ続ける。どんな手を使ってもそれを止めることができない。流れの中では呼吸ができない、それはとても苦しい。
この“発作”は長いこと僕とともにあったが、ある時を境にとつぜん消えた。どういうわけか、水門がすべて閉じてしまったのだった。




