2話
王太子ベルンハルトが、王から晴れて恋人と認められたテレシア・サッセンを伴い、王宮の奥にある王妃の部屋へと向かったのは、波乱の卒業式から2週間が経った頃だった。
「今日は、母上に、テレシアの王妃教育をしていただけるよう、お願いするつもりだ」
「まあ、そうですの…!」
笑顔で答えるテレシア。うれしそうな彼女の表情に、ベルンハルトの口元がほころぶ。
「ああ。きっと引き受けてくださるだろう」
―――ビクトリアも、幼少の頃から王妃ユノアに、教育を受けていたのだから。
という言葉は、心の中に留め置いて、ベルンハルトはテレシアの手を取る。
2人は幸せそうな表情で見つめ合い、心なしかゆっくりとした足取りで、歩いて行った。
王妃の部屋の前に着くと、槍を持った護衛のひとりに声をかける。
「母上は、いらっしゃるか?」
「はい」
「話がある。取り次いでくれ」
「かしこまりました」
護衛の男は、恭しく礼をすると、部屋へと入って行く。
ベルンハルトには、王妃の返事が分かっていた。
これまで王妃は、毎週の今日のこの時間を、ビクトリアの教育に費やしていたのだ。だから、ビクトリアとの婚約がなくなった今、王妃は特に用もなく過ごしているはず…。
そう思ってほくそ笑んでいたベルンハルトだったが、護衛の男が持ってきた王妃の返答に驚いた。
「申し訳ございませんが、お会いにはなれないとの事です」
「え?」
ベルンハルトは眉をひそめた。が、すぐに仕方のない事と思い直す。
母も王妃だ。決して暇ではない。
空いた時間を、他の事に使うのも当然だ。
「そうか。突然訪ねて申し訳なかった。では、いつなら会っていただけるかを聞いてくれ」
「かしこまりました」
護衛が礼をする。と、もう1人の護衛の男が声をあげた。
「お待ちしておりました。――――ビクトリアさま」
「……!?」
ベルンハルトが振り返ると、ドアの傍に、2週間前までは自分の婚約者だったビクトリアが佇んでいた。
「どうぞお入りください。ビクトリアさま」
「ありがとうございます。まあ、殿下。それにサッセン嬢も」
ビクトリアは、ごきげんよう、とにっこりと微笑むと、軽く膝を折り、略式のあいさつをする。
そこから、流れるような動作で、護衛が開けたドアから王妃の部屋に入って行った。
「は…?!」
ベルンハルトは、すっきりと伸びた美しい背筋を、呆然と見送った。パタリと扉が閉まると、はっと我に返り、護衛に詰め寄る。
「おい、どういう事だ。何故、ビクトリアが母上と会っているのだ…!」
ベルンハルトとビクトリアの婚約が、解消になったのは間違いない。
ならば、ビクトリアが未来の王妃となる教育を続ける必要はなく、また、現王妃の部屋に招かれる理由もない筈。
「――――」
ベルンハルトに両手で襟ぐりを掴まれているものの、身長は護衛の方が高い。
それに、人を守る――しかも、国の重要人物――――という任についているだけあり、体格もがっしりとしている。
よって、護衛は、ベルンハルトの暴挙にも、よろけるどころか、眉ひとつ動かすこともなかった。
「答えろ…!」
怒鳴ろうが喚こうが、護衛は、感情を表に出す事なく、ただベルンハルトを見つめている。
「この、無礼者め…!!」
しびれを切らしたベルンハルトが、護衛から手を放し、腰に差した剣に手をかけ、荒々しく引き抜いた時。
その声は聞こえて来た。
「何をしていらっしゃるのですか、兄上…!」
「アレクシス…」
咎めるように問いかけたのは、ベルンハルトの弟、アレクシスだった。
アレクシスは、長い足を颯爽と動かして兄王子に近づくと、母ゆずりの美しい顔に毅然さを乗せて、再度訊ねる。
「王と王妃の住居である奥宮で、何をなさるおつもりですか?」
言い終えると、アレクシスは、自分が連れている2人の護衛のうち1人に目配せをする。
護衛は心得たとばかりに、ベルンハルトと王妃の護衛の間に割って入った。
王妃の護衛ならば、主の命令がない限り、ベルンハルトが何をしようと害を及ぼす事はできないが、アレクシスの護衛は違う。
アレクシスの指示さえあれば、奥宮で狼藉を働いた罪として、ベルンハルトを拘束できる。
「……っ」
ベルンハルトは、城内だし、何よりテレシアと過ごす時間を邪魔されたくないからと言って、護衛を連れて来なかった事を後悔した。
そして、自分と対峙するアレクシスの堂々とした態度に押されて、剣を鞘に戻す。
アレクシスは、力なくうつむいたベルンハルトの、つむじを見ながら言った。
「兄上、いったん部屋にお戻りください。母上にお会いになりたいのなら、兄上と面会していただけるようお伝えいたしますから」
「……」
ベルンハルトは、自分の足先に視線を置きながら考えていた。
アレクシスは、母に伝えると言った。と言う事は、弟はこれから王妃に会うのだ。
ビクトリアと一緒に。
王妃と、アレクシスと、そしてビクトリア。
「……?」
この3人が顔を合わせる理由が分からず、ベルンハルトが首をかしげていると、王妃の部屋の扉が内側から開いた。
扉の間から姿を見せたのは、紺のお仕着せに白いエプロンを身に着けた、王妃付きの女官長だった。
「まあ、アレクシスさま」
女官長は、アレクシスの姿を見て、ぱっと明るい笑顔を浮かべる。
「王妃さまがお待ちですわ、さあ、お入りくださいませ」
頭を下げながら、人ひとりが通れるスペースを作る女官長に、アレクシスは首を振った。
「いや…、申し訳ないのだが、少し待っていただけるよう、母上に伝えてくれ」
「? どうかなさいましたか?」
不思議そうに問う女官長に、アレクシスは笑って答える。
「いや。たいした事じゃないよ」
「………」
女官長は、注意深く様子を観察した。
廊下にいるのは、2人の王子と王妃の護衛たち。そして、アレクシス王子の護衛の1人が、ベルンハルトと王妃の護衛の間に割って入っているこの状況。
恐らく、何かがあったのだろう。もめごとは、比較的穏やかな方法で解決するアレクシスが、護衛を動かしたのだから。
「サッセン嬢も、ずっと立ったままで疲れたろう?」
アレクシス王子は、やさしい口調で可愛らしい顔をした女の子に問う。
なるほど、これが、ベルンハルト王子に近づき、見事にその寵愛を掴んだ、テレシア・サッセン嬢という訳か。
アレクシス王子は、兄王子をこの場から離れさせたいのだろう。
確かに、突然王妃のもとを訪ねたベルンハルト王子が騒ぎを起こしたとしたら、外聞が悪いのはベルンハルト王子だ。
ここは、ベルンハルト王子が、穏便にこの場を立ち去るのが得策と言うもの。
テレシア・サッセンが、王族にその名を連ねるにふさわしい聡い人物ならば、アレクシス王子の気遣いを察して退出する筈。
そう思いながら、女官長は、事の成り行きをじっと見守った。
結果。
アレクシス王子に名前を呼ばれたテレシア・サッセンは、桃色のほおをさらに赤く染めながら、きっぱりと言い切った。
「わたしなら大丈夫です。アレクシス様」
「……」
アレクシス王子の顔から、表情が消える。
これは…、ちょっとイラっとなさいましたわね、アレクシス王子。
女官長がそう予想する中、テレシアは、にこにことご機嫌な笑顔を浮かべながら、さらに言った。
「わたし、これでも体力には自信があるんです。遠乗りに行ける程度には、馬にも乗れますし。ご心配には及びませんが…、わたしにまで気を使って下さるなんて、アレクシス様は、お優しい方ですのね」
「……」
テレシアの言葉に、女官長は、ちょっとこめかみを押さえたくなった。
……ええ、確かにアレクシス王子はお優しい方です。ですが、テレシア・サッセン嬢、あなたは、その優しさを受け取る方向を、完全に間違えておいでです。
ならば、ベルンハルト王子に、今は退出するのが得策という雰囲気を察していただいければ……。
そう思って、少しばかりの期待を乗せて、目線をベルンハルトに向けた女官長だったが。
「――――」
ベルンハルトは、わなわなと唇を震わせながら、テレシアとアレクシスを見るばかり。
どこか焦っているかのような目をしているのは、恐らく、テレシアがアレクシスに向ける愛らしい笑顔のせいだろう。
どうやら、この場を穏便にまとめる事は、出来なさそうだ。
「……」
女官長は、皆の視界に入らないようにそっと後ろを向く。そして、小さく首を左右に振った。
「……ふぅ…」
すると、部屋の奥の方から、耳をそばだてていないと聞こえないほどの、小さなため息が聞こえて来た。
それから、さらさらと軽やかに絹の擦れる音がしたので、女官長は、それまで成り行きを見守っていたため息の主が、ようやく重い腰を上げたのだと悟った。
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(C)結羽2017
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