氷河期が来た 自販機も埋もれちまった
この屋敷には、地下がある。JBはそういっていた。
マウント・フジの噴火から百年が経ち、火山灰は年に1メートルの速度で積もっていった。
だからヤーパンに住むひとびとは少しずつ住居を上に向けて増築し、砂や灰に埋もれてしまうのを防いでいた。地下には、昔の生活の跡が残っているのか?
でも、金の縁取りのついた、セイコーの時計は午前10時半を指している。そろそろ授業の時間だ。
教室には三人がけの机がいくつかと、ホワイトボードが置いてある。
ミツクニは折りたたみ式のいすにすわって、大きく伸びをする。
JBは、シューレの講師だ。豊かな白髪に、金縁のめがねをかけ、いつも灰色のスーツを着ている。元銀行員だという噂だった。
ミツクニは、ひげを毎日、必ず剃ることにしている。きのう、シューレに向かう道の途中で、「国の将来に希望を持とう」といってる大人がいたけど、あごのひげが剃れていなかった。信用してはならないような気がした。マウント・フジが噴火しても、結局氷河期なんて来なかったじゃないか。
でも、それよりも、ミミだ。
クラスメイトのミミの名前が浮かんだ。たぶん、こういうときは、そろそろミミがやってくる。ミミが現れた。ミミは黙って教室に入り、三人がけのイスのどれかにつこうとした。それで、ミツクニがそちらを見ているのに気づき、少し考えた。
そうしたら、少し笑いそうになった。笑うのを我慢して、表情をつくろった。
「寒くて参っちゃう」ミミは先に、静かな声で言った。
「冬だからかな」ミツクニは表情をゆるめて答えた。あまり話題というものもない。
「今日は、地下実習の日らしいね」ミツクニが目を泳がせているので、ミミはこういった。
「うん、ああ、JBが言っていた気がする。あの人、ちょっと変だよね」
「そうかも。うん、変」
「だから、その、あの先生は唐突にむつかしいことをいう。そこがなんか変だ。きっとなんか、妄想みたいなことになっちゃってるんだと思う。勉強しすぎて」
「うん、勉強しすぎると良くないのかな」
「でも、今日は宿題をやった」
「ふうん、そう」
いつからか、シューレでは「地層」についての授業がはじまった。つまり、すべからく19歳になったものは地下の発掘を行うこと。シューレと呼ばれる学校の地下にいって、探索をすることを必須とする。
前世紀の遺跡をみることで、社会・歴史への関心を高める。
でも、ミツクニはあまり地学が好きではない。JBは学校で、その授業を受け持っている。ミツハルは、ミミがいすに座るのを見る。黒い髪が、流れるように広がる。あまり目を向けないように、教室の前を向く。すると、ミミが話しかけてきた。
「あのさ、あたし、ラジオでカレッジの授業聞いてるんだよね。地学とか、面白くない?JBの部屋からアンテナ伸びてるでしょ?あれで受信するの。ペキンの大学の授業とか聞けるよ」ミツクニは少しとまどって答える。
「地学って、マウント・フジのこと?」
「そう。氷河期が来るって騒がれたでしょ。ナショナル・ジオグラフィックに噴煙をあげてる写真がのってた。その前に、よくわからない黒い砂が日本国を覆ったんだって」
「そうだ、見たことある。すごい大きな花火みたいだった」
「それより、JBがもうすぐ来るよ」セイコーの時計は、地下から発掘されたものだが、めったに狂わない。針は10時45分をさしていた。ブリキとベニヤ板でできた、教室の扉の向こうから声がした。JBの声だ。「おおい、開けてくれんと、機械がぶっこわれちまうぞ」ミツクニは、JBは何かの機械を両手で持っているんだ、と思った。
ドアを開けなければならない。黒いポリエチレンのジャンパーコートを着た、JBがそこにいた。JBは口ひげを生やし、ふだんよりも丈夫なめがねをかけていた。
「ふむ、ありがとう」JBは何でもなかったかのように、落ち着いて礼を言った。
「おはようございます」ミミとミツクニは、いつものように挨拶をした。
「そうだね、おはよう。今日は地下実習の日だ。……ときに、君たちにはこれがなんだか分かるかね」JBは、片方にジャッキのついた天秤ばかりのような機械を持っていた。とても重そうだ。片方のジャッキで、もう片方のボルトを上に持ち上げる仕掛けらしい。
「ま、重そうですね」
「重そうですね」二人は似たような返事をした。
「こいつは、マンホール蓋開閉機だ。マンホール蓋開閉機。なんか面白い響きだろう。どんなに堅いマンホールでも開くのが自慢だね」
JBは、白い口ひげをゆがませて笑い、心持ち薄い白髪をなでた。
「面白いというか、どこでこんなもん買ったんですか」ミツハルが聞いた。
「どこか倉庫に眠ってたんだろうな。みんな在庫帳につけてあるんだよ、それで見つかる」ミミはしばらく考え込んでいた。
「それで、なにするんですか?」
「マンホールのふたをこじ開けて、地下に行くのさ」JBは、にやりと笑って言った。
JBはホワイトボードの前に立ち、話を始めた。
「では、授業を始めよう。今日は地学の時間だ。ミツクニ君はさっさと教科書を開き、44ページにのっている地層のところを読み上げるのだ。教科書は持ってこなきゃ駄目だよ」
ミツクニは、「新しい地学について」と太い活字で印字された本をとり、44ページを開いた。ミミもそうした。
「はい。ええ、地層とは、噴火のあとで火山灰が地表を生めていき、埋まってしまったところを地層と呼ぶようになった、とあります」そのとおり。当時の人は。日々積もっていく火山灰も、俗に地層と言っていたし、崖の岩石も地層だったってことだ」
「えっと、はい。火山湖の下に沈んだトーキョーの探査も、地学は兼ねている。20歳を迎えたものは、火山灰の下に沈んだ地下におもむき、噴火前の社会について考察すべきである」
「大変よろしい。それで、地下だ。こいつは20歳になるまで入るのは禁じられていたね。まあ、最近の人は入るのかもしれない。でも、入っていたところで大したことはない。わたしにいわせれば、20歳のバースデー・プレゼントのようなものだ。昔は逆の意味だったんだがね。」
「ぼくら19ですけど」ミツクニが言った。
「噴火前ちょうどに、選挙権を持つのが19歳になったのさ。いささかややこしい」ミミは考えていた。「成人の儀式みたいなもんですかね」
そうこうするうちに、地下へ向かう仕度ができてきた。JBが、サバイバル・キットの入った箱や、はしごや、アルコール灯などを用意していたのだ。地下へ通じるマンホールは、シューレの1階にあった。マンホールは、どこか鈍く光って、何かを主張しているようだった。
「これが地下実習ですか」ミツクニは少し遠慮がちにたずねた。
「この機械でマンホールをずらして、開けるのだ。やってみたまえ」
JBは、重いマンホール・ジャッキを目的の場所に置いた。ミツクニに操作を教えながら、ジャッキをこぐと、徐々にマンホールは持ち上がっていく。重い金属のふたがごとりと音をたて、床に落ちる。あたりには昔のほこりの匂いが漂っている。
JBは、ガラスのフードがついたアルコール灯に火をつけた。青い炎が、圧縮空気におされてぼんやりと点った。
「そっと持って、落とさないように」
「入ってみます」ミツクニはこういって、はしごの段に足をかけた。一度ランプを一階の床の上に置き、両手を開けておいてから、慎重にはしごの段を下りた。
床に足が着いた。ミツクニは両足で地下の床を踏みしめ、ほっとしたように息を一つついた。
「本棚がいくつかある部屋に下りたみたいですね。白い木でできたドアがあります」ミツクニは大きな声で答えた。
JBは、ひとつうなずくと、ミミに声をかけて、はしごを降りた。地下の一室は、アルコール灯の薄い光を受けて、ぼんやりと光を反射している。壁は白く塗られているが、黄色く見えた。屋敷の壁は石造りでできている。そのため色があせても、強度はそれほど落ちなかったようだ。地下に降りたミミが、机に詰まれた本を見て言った。
「ドイツ語の本があるわね。リーベス・ゲディヒテ……苦手だ」
「愛する頬に。ゲーテ詩集のことだ。そこに化粧鏡がある。女性の部屋だったのだろう」JBが説明をした。
「21世紀の中ごろ、トーキョーが水没したのに合わせて、「古典復興」が起こったんだ。ドイツ語やロシア語などが見直された。「オリガ・サトウ」の名前も、ロシア語から取られたのだろう。彼女は外国語も学び、原書を集めた」JBは、ミミから手渡された古本のサインから、部屋の主を推理した。
「ふうん」ミミは本を手にして、注意深く表紙をめくった。しかし、書かれているのはアルファベットで、英語でもない。
「見て、真空管アンプがある」ミミが言った。
「ほんとだ。でも変なものに興味もつね」ミツクニが答えた。
「いいじゃない。こういうの好きなの」そこには、真空管の部分を金属製のカゴで覆った、ステレオアンプがあった。
「うごかないのかな」ミミはこういって、コンセントを抜きなおしたり、スイッチを動かしたりした。「真空管は温まるのに時間がかかったはず。だからすぐに音は出ないんだろうけど」ミミが続ける。
「でも、ランプがつかないってことは、壊れてるんじゃないか」
「昔の音楽をきいてみたい」ミツクニは機械を触ってみたが、反応がなかった。
「オーディオディスクを探して、上に持っていって聞けばいいんじゃないかな」
「なるほど、確かにそうだ。喫茶室にアンプがあるものね。何かつまんないけど」部屋の両側にある、背丈ほどのケースには何枚かのコンパクト・ディスクが残されていた。そのうち一枚は、黒いジャケットに白地で、「ナット・キング・コール」と書かれていた。写真には笑顔を浮かべた黒人が写っていた。ピアノの前に座っている。
「二枚組みみたいだから、これを持っていこう。JB、いいですよね」
「いい選択だよ。とてもいい歌だ。ピアノも歌も、とてもいい」JBはうなずいた。JBが口を開いた。「……この屋敷の人間は、ものを捨てることを極端に嫌ったんだ。屋敷の中にあるものの中には、その下、つまり昔の屋敷から持ってきたものも多く含まれていたから」JBが続ける。
「古いものは何でも貴重だったわけですか」ミミが言った。
「そうかもしれない」JBはなんでもないようにミミの質問に答えた。
ミミは「ふうん」と言って、何かを考えているようだった。
「原因は、マウント・フジの噴火だけではなかったようだ。あちこちで専門家がいろいろなことをいうけれど、全体像がつかめていない。しかし、世界はゆっくり衰弱に向かっていたようだ」
「まあ、うすうす分かっていたけれど、頑張らなくちゃ駄目ですね」ナツは言った。
「まったくです」ミツクニが調子を合わせた。JBは、歩きながら説明を続ける。ミツクニとミミはそれについていく。100年の間に変化した法律や、国家体制について、また、人々の性格などについて。特に、嗜好品や、高級品にかかる税金が上がり続けた。
健康や治安に関する法律がたくさん作られ、監視社会とも言われた。
「それもこれも、マウント・フジから黒い砂が吹いてきたあたりからだったなあ……」なぜ20歳になるまで、地下に来てはいけないのだ?これは少年時代のミツクニを、しばしば当惑させたルールだった。
「先生、なんか地下って、妙な空間ですね。なんで19歳は来ちゃいけないんですか。地元の年上の友達は行ってた、っていうけど、たいしたことなかったって。たしかに古いものは面白いけれど、地下になにがあるんですか」ミツクニがいった。
「ふうむ、さて」とJBが言った。
「きみたちは、満20歳だったな。間違いないな?」ミツクニとミミは、顔を見合わせて、何かあったのか、と目でサインを送りあった。
「はあ」
「ミツクニは20かもしれないです」二人はしばしの間、逡巡した。
「まあ、そのへんは適当なんだ。んじゃ、そこのコンセントを入れてくれ」JBの目の前に、箱状の、人の背ほどもある機械があった。自動販売機もまた、100年の間に失われたもので、貴重なものだ。機械には蛍光灯のバックライトがついていた。目を点にしつつ、ミツクニはスイッチを入れる。
「健康増進はけっこうなんだが、こいつがないと、わたしは生きていけない。だが、もう世界は衰弱の果てに至って、これすら抹殺しちゃったんだな。葉を作る人がいなくなった。仕事の場でも、分煙が徹底された。禁煙外来といって、たばこはニコチン中毒症という病気にされちまった。そして、そこに、マウント・フジの噴火が来た」「それで」ミツクニはまだよくわからない。
「JTがつぶれちゃったんだよ。そっから先は、みんな電子タバコだよ」巨大な機械は、唸るような音を立てて、スイッチが入ったことを知らせるランプをつけた。赤ラーク、白ラーク、マールボロ、マールボロメンソール、セブンスター、ジョンプレイヤースペシャル、わかばなど、またその他を電気式で売る、タバコの自販機だった。「あ、本物のマールボロだ」ミツクニは素直に感動していた。JBはそれをながめて少し顔をゆがめたが、満足そうにうなずいた。
「まあ、健康にいいことはひとつもないよ」JBは、ジャンパーのポケットからライターを取り出し、自販機のボタンを押すと、鮮やかな手つきで包装をむいた。やがて、少し甘い香りのする、なつかしい紫の煙があたりに漂った。
夜には、ミツクニたちは学校に泊まることもある。ミツクニは、パーテーションでしきられた部屋の向こうに、ミミがいないことを確認する。そして、電気を消す。
10時は寝る時刻だ。学校を設計した医師と教育学者は、規則正しい生活と栄養が青年を健康に育てると信じていた。ミツクニは、栄養士が作った食事を一人で食べ、夜になるまで黙ってじっとしていた。
夜が長くなって以来、娯楽がなくなったと言われる。ヤーパンの上空を夜に衛星から取った写真を見たことがある。ナショナル・ジオグラフィック誌には一年ごとに写真が掲載されていた。日本の都市の光が少しずつなくなっていき、シーセンとペキンに移動する動画も見た。
そういえば、社会科学の教科書にも書いてあった。原因はマウント・フジの噴火であることも示唆される。ただ、日本国がなくなった発端がよくわかっていない。色々な要素が組み合わさっているので、一人の人間の力では整理できないのだ。それに、インターネットや郵便制度もなくなってしまった。
ミミが現れる。でも、ミツクニは、ミミが現れたことに気づかない。ミミは音を立てずにベッドにもぐりこむと、金属のこすれる音をたててカーテンを閉めた。ミツクニは、その音を聞くと、眠気におそわれて、毛布をかぶった。一方、JBは、夜半を過ぎてから、シューレの隅にある観測所に向かっていた。三日月がぼんやりと、低く垂れる雲の間に見えた。JBは百葉箱のそばの、観測筒をあらためた。時刻が12時をさしていることを確認して、プラスティックの筒を取りかえる。筒に今日の日付を書き、採取者名を記し、観測記録をつける。
JBは、雪の量を測っているのだ。プラスティックの筒の内部には、アラビア糊がぬられていて、空気中を飛んできたPM2.5がつく。JBは、今日は少し多そうだな、と思った。ロウバイの花が咲いている。かすかに香りが漂ってくる。くちなしに似た匂いだ。あたりは暗い。闇に黄色の花がうっすらと光って見える。
JBは、ミツクニとミミの寝ている部屋に、もう二人くらい誰か、入らないものかなと思った。
そうしているうちに、幽霊が現れ、そっとかききえた。白くぼんやりとした幽霊だった。しかし、JBはそれをよくあることだ、と見過ごして、シューレの塔に戻った。そして、役所に提出する書類を書き始めた。薄く広がる雲の間から、太陽が顔を出した。ミツクニの朝は早い。どういうわけか、少年のころから、朝起きる人間だった。それで、なぜか年寄りの講師にからかわれる。学部長が現れた。
黒い背広を着ていた。「おや、若者は夜遅く、年寄りは朝早く、小便は近く」
「古典の教科書ですか」
「原文で読め」
「そのうちにやりますよ、でも、その、小便は、こう、つまり、適当なんじゃないですか」
「私は忙しい、問題が発生したのだ」学部長は去ってしまい、ミツクニは取り残される。
ミツクニが緑の生垣のあたりをうろうろしていると、やがて太陽が昇ってくる。学校のあたりは、広く水田が広がっているので、早い時刻に太陽が見える。庭に設置されている、金属製の日時計がゆっくり傾いていくのを見る。というか、当面それしかすることがない。ミミを待っているのだ。ミミが建物から出てきた。髪が黒く光った。白い普段着を着ていて、布がふわりとしている。なにやら茫洋とした表情だ。「おはようさん」ミミがいう。
「たしかにそうだ。早い」ミツクニは切り捨てる。
「会話が終わっちゃうじゃない」
「あんまり、話したくない。静かなほうがいい」ミツクニは、何かにいらいらしていたので、黙った。黙っている間に、黒い砂のことを考えた。雪には毒が含まれていないと言われる。でも、何か不気味だ。今日は特にそうだ。砂は、諸悪の根源のように思われた時期もあったが、もう誰しも、雪に慣れてしまった。なんだかんだで、実際にマウント・フジが噴煙を上げたからだ。
「さっき、学部長がこのへんをうろうろしていた」ミツクニは先に声をかけた。
「そう」
「なにかを探していた。たぶん。黒い砂の粒かな」
「その観測をしているのは、JBじゃない?」
「JBなら、まだ寝ている。あの人、百葉箱の仕事やらなきゃならないから」
「JBは、いい先生よね」
「そうだね」
「学部長、あんまり好きじゃないでしょ」
「いや、かっこいいと思う。三つ揃えの背広が似合う人はあんまりいない」
「学部長の服の趣味はよくわからない」
「あの人、授業がうまい」
「古典英語?」
「うん、面白い」
「ふうん」ミミがうなずいて、それで話が終わった。
ミミは少し空を見て、何かを考えているようだった。その顔は、どこか存在しないものを見つめているような表情だった。ミツクニも空を見たが、灰色の雲が地表を覆っているばかりだ。雨が降ると良くないな、と思っていた。
「ところでさ、昨日は幽霊見た?」ミミが唐突に言った。
「見ないなあ。最近良く出るっていう噂だけど」
「JBも見たって言ってた。あたしは、あんまり気にならない」
「根本的に、見える派?見えない派?」
「どちらも認める派。宇宙人説もあり」ミミはきっぱりと言った。
「俺、嫌いなんだよね」
「ふうん」ミミは納得できない表情をしている。眉をひそめ、頬をこわばらせている。ミツクニには、それは彼女が怒っている時の顔に見える。雲がゆっくりと地表の上を流れていく。雲の高度が下がっているのだ。雨が降るかもしれない。
「幽霊とか、なんか良くわかんないものが最近多すぎる。黒い砂だって、最初はそうだったらしいじゃないか。シンプルな方がいいよ。本とか、漫画とか。お茶もいいし、縦に長い、フランスパンも食べてみたい」ミツクニは言った。
「UFOが毒をまいてるとか、それで、砂も幽霊も、異星人の仕業だとか。なんかほんとにそう思えるんだよね」ミミは眉をしかめながらいう。
「その発想、やばいよ」
「探しにいかない?」ミミはにやりとわらって言った。
「何を」
「幽霊をさ、それで、幽霊って何かって、考える」
「幽霊って何かって、考える」ミツクニは繰り返した。
「JBも見たって言ったし。わたしはなんか、地下から来ている気がするんだよね、あの人たち。地下って、何があるかわからなくて。戦時中に作られた兵器の残骸だとか……ありそうじゃない」
「地下ね。まあ、面白いかも。やってみようか」ミツクニは了承した。地下は全部で60層ある。国の研究者たちは、どれくらいの地下があるかを調べている。マウント・フジの噴火以降、人々が家を上に向かって建て増しするようになった。国はそれを把握しておく必要があった。結局のところ、固定資産税が徴収されただけだった。
青年は、20歳になると、地下に入れる。JBは煙草のありかを教えてくれた。そうすると、合成アルコールじゃない酒もあるかもしれない。ミツクニはそんなことを考えた。シューレの廊下は、鈍く光っている。木製の板は磨かれ、ワックスが塗りこめられている。ミツクニとミミは、廊下を無言で歩いた。
「もっと、ずっと下のほうがあやしいと思うんだよね。地下って、こう、何層にも分かれているはずじゃない?フジの火山灰にあわせて増築したとしたらさ」
「そのとおりだと思う。地下の地下もあると思う」
「というか、それは遺跡かもしれない。地学でやったんだけど、昔トロイの神殿が発掘された話みたいなやつがあるかも」「地下はあぶないし、暗いかもしれない。JBに怒られるよ」
「アルコール灯をもって行けばいいじゃない」屋敷の端に、地下への入り口がある。マンホールが閉められている。「ほら、開かないじゃないか」ミツハルが言った。
「まあまあ、そこは現場主義で。物置からバール持ってきて」
「釘抜くあれか。分かったよ」ミツクニは、建物倉庫からバールをこっそり持ってきた。
「バール」とだけ言って、ミツクニはバールを横に持って渡した。
「ありがと」ミミは、バールの直角に曲がった部分を、マンホールに開いた穴にひっかけた。器用にバールを使って、マンホールをずらした。
「開いたよ。行ってきて」
「はしごがない」ミツクニはささやかな抵抗を試みた。
「それも物置にあるよ」
「アルコール灯も取りに行ってきます」ミツクニはあきらめた。
二人は、マンホールを、音を立てないように横にずらして、中にはしごを立てた。ほこりとかびの混じったような匂いが、ミツクニの鼻孔をついた。その香りは、何かの記憶と混じったような、不思議なにおいだった。
それでも、ミツクニは、昔の記憶を振り払うように、首を横に振って気を取り直そうとした。二人はオリガ・サトウの部屋に降りた。部屋には背の高さよりも高い本棚が、壁に沿って置かれている。古い本の匂いがする。
「このあいだの音楽、きいた?」
「まだ聞いてない。そのうち聞こうと思う」ミミは、黙って辺りを見回していた。話が途絶えたので、ミツクニは、オリガ・サトウの部屋のドアを開け、廊下に出てみた。アルコールランプを持っているので、明かりがほのかに揺れた。
「こっちが暗くなっちゃうよ」
「幽霊探すんでしょ。僕は見えない派で、いる派。ただ、最近出る幽霊は、はっきりいってデマだと思う。」
「最近じゃ常識だよ、幽霊いるっていうのは。あと、昨日は間違いなく出た。ふつう、昨日の幽霊にけちつける人、いないと思うけど」
「僕は、幽霊出たって、短波ニュースが報じても、信じないよ」ぼんやりとした、何か薄い膜のようなものが、二人の間を通り過ぎた。
「そらいた」
「ただの埃の塊だと思うけれど」
「そうかな」
「ほら」ミツクニは答えて、手にからみついた、小さなくもの巣を見せた。古い壁にはっていた、くもの巣がひっかかったのだ。廊下は堅い樫の木のような木材でできていた。アルコール灯の青い光が、黒い板面を照らしていた。
ミツハルとミミは、こつこつと音を立てながら、廊下を歩いて下の階への入り口を探す。屋敷の地下は、平屋建てではなく、もともと防音室などのように、利用するための空間だったらしい。だから、下に行くのはそうむつかしいことではない。急角度の、粗末な階段が廊下の端にあった。
「あれだよ、行ってみよう」ミミがいう。
「そうだね」階段を踏みしめ、腐っていないかを確認しながら、下の階に降りる。壁がすぐ横にあって、ミミは髪が引っかからないかを気にしている。もう一つ、下の階の床に足が着いた。ミツクニは、思わず、壁と天井の間を見上げてしまった。肖像画や、風景画を飾るスペースだ。白と黒で描かれた、写真のように精密な絵だ。厳しい目つきをしている。黒い背広を着て、カフスをつけた人物がこちらをにらんでいた。ミツクニは、モノクロの写真だろうかと思った。この学校の学長の肖像画が、代々飾られるのは有名なことだ。でも、よく観察してみると、ミツクニが生まれるよりも50年以上も前の人物であることが分かる。画家の署名の横に、年月日が走り書きされていた。
「これはさ、昔の人だよね」ミツクニはぼそりといった。
「昔の人というか」
「何だよ」
「これは、この人物の死後に描かれた、つまり遺影なんじゃないかな」ミツクニは、つとめて平静を装いつつ、幽霊の話を思い出していた。ミツクニも、ぼんやりと死んだらどうなるか、などと考えることがある。
「そら、アルコール灯の明かりを揺らしてみようか」ミミは楽しそうだ。遺影の表情が、明かりにあわせて微細に変化する。
地下2階は、奇妙な匂いがした。空気を薄めたような匂いだ。
しかし、それより、人の気配がする。かさりこそりと、服の衣擦れの音がする。影がちらりと見える。
ミツクニは、これは幽霊だ、どうも幽霊かもしれない、と思うようになった。なにやら面妖な気持ちだ。
とはいえ、地下2階には、先回りして「学部長」が来ていた。学部長は背広を着たままで、マスクをつけた格好だった。ミツクニとミミが地下に来ているのを知って、やれやれ、と思った。ミツクニもミミも、それを知らない。彼らは体を堅く身構えながら、2階を探索した。だが、特に幽霊は見つからなかった。
そこに、学部長が現れた。
「ええ、君たち、なんだ、なぜここにいる」ミツクニはおどろいて、え、といった。
「いや、20歳過ぎたんで、このあいだJBに煙草の自販機を教えてもらったんです。僕は吸わないですけど」「ふむ、タバコを買いに来たのか。今日び流行らないよ。健康に悪いだけだ。やめとけ」
「ええと、あたしは」ミミが言った。
「何だね」学部長が答える。
「精神界と現実界の橋渡しというか……二つの固有観念が帰着して……何と言うか、なんですかね」ミミは首をかしげながらいう。
「幽霊探しにきたのかな」
「まあ、そうです」
「最近は、本物は珍しい。ところで、JBが昨日見たのは、これだよ」学部長は、背広を着たまま、屋敷にくくりつけられた、銅でできた配管をゆびさした。
「ちょっと物質名は勘弁してくれ。君たちがはまっちゃうと良くないからな。これ吸うと、いらいらしたり、幻覚が見えるんだよ。幽霊じゃない。ガス中毒とかシンナー中毒だ。学校の事故が世間に広まるとまずい。大人の対応を頼む。20歳だな、二人とも」
「はあ」ミツクニは生返事をした。学部長はだんだん怒りたくなってきた。なぜかは良く分からない。「だから、幻覚見るから、このガス、吸っちゃいかん。ガスが地上に漏れていて、わたしはこの配管の穴をふさぎに来たんだっての!」ミツクニは、はっと夢から覚めたような心持ちになり、「ガス中毒」の意味を知った。ミミはまだ、呆然とした顔つきをしている。
ミツクニは、ミット・シューレを卒業した後、なんとなくやる気をなくし、特に何もせずに暮らしていた。周りの大人たちは、カレッジに行け、とか、仕事をしろ、とか説教をした。両親や兄との紆余曲折があって、シューレと呼ばれる、いわば私塾に通っている。
それは便宜上、学校と呼ばれている。良くある話だ。
ミツクニは、さほど愉快でもない記憶を、茶色のタイルがしきつめられた公園で思い出していた。自分の部屋で短波ラジオを作っていて、何がいけないのかが、どうも納得できない。
ただ、ミミはきれいだ。それはたぶん、まちがいない。
ミツクニはそう思った。やわらかな雰囲気や、ゆったりとした服の中にのぞく、体の稜線や、澄んだ表情が、彼の脳裏をよぎった。でも、それをうまく説明できない。きっと、それができたら、見事なプロポーズになるんじゃないか?
とはいえ、ミツハルはミミのことをほとんど知らない。名前をミミということと、自分より前からシューレにいたことだけだ。どんなに記憶をたぐりよせても、それくらいしか浮かんでこない。
何を話したのかもあやふやだ。ミツハルは、つたがアーチを覆っている公園のベンチに座って、そんなことを考えた。今日も曇りが続き、地平線の向こうにはたまに稲光が光る。そろそろ授業の時間だ。時計の針は、午前10時をさしている。教壇に立つJBは、タクトの先にチョークを取り付けたものを使って、器用に絵図面と説明を書いていく。
その中には、数式も含まれている。
「では、メイジ・ピリオドに中国との間に、電気通信ケーブルが敷設された。これは、日本国としては初の海外有線通信だったのだ……ミツクニ君、教科書の「電気通信」を読んでくれ」
「あ、ええ、はい。その後、ワールド・ワイド・ウェブの時代に至るまで、電気信号によって通信がなされた。しかし、マウント・フジの噴火や、世界的な気候変動によって通信は衰退し、短波通信のみが残された。われわれの今後の課題は、アメリカ大陸やユーラシア大陸との通信を回復することである。以上です」
ミツハルは教科書を棒読みし、ため息をついた。退屈なのだ。3つ空けて隣の席に、ミミだけが教室にいる。ミミは、静かにノートにメモを取りながら、教科書をめくっている。
黒い髪に、つい目がいってしまう。授業が終わった。時計はもう、6時を指している。夜だ。宿舎に帰って、課題をやらなければならない。でも、JBはわきまえた人だ。課題は出さなくても良いことになっているんだ、とミツクニは解釈している。
ふと、思いついた。どうもぼくは、ペキンで華々しく働くとか、資格を取るとか……つまり学校が肌に合わないんじゃないか。
「そんならアルバイトをすれば良い」何か、それはミツクニ自身のアイデアではなく、兄から言われたことがふと思い出されただけだ。
アイデアだ。ともかく、地下に行く。ミミが見直してくれるかもしれない。マンホールを開けて、はしごを立てかけ、アルコール灯を持ち、地下に降りた。古びたほこりのにおいがした。ミミは、地下のさらに奥の方にはいろいろなものがある、といった。つまり、地下の更に下には、昔の生活に使われていたものが眠っているのではないか?とりあえず一人で行ってみよう。
ミツハルは、オリガ・サトウの図書室を通り抜け、さらに廊下をよぎり、地下2階に立った。遺影の影がこちらを睨んでいて、どことなく気まずい。更に下だ。ミツハルは、地下3階に通じる階段を発見した。そして、地下3階には鈍く光るガラス瓶が大量に置いてあった。ガラス瓶には、「ジャック・ダニエル」と書かれていた。また、中には茶色の液体で、なみなみと満たされていた。「やった」ミツハルは一人で声に出した。この酒を売っぱらってしまおう。彼はびんを一つ抱え、笑いながら、階段を駆け上った。
地上へ通じるマンホールが、すぐそこに見えた。地下一階とはいえ、暗い。早く地上の明かりを見たかった。同時に、金属がぶつかる音がして、マンホールが落とされた。何なんだ?マンホールの蓋は開かない。何か重いものでおさえられているようだ。少し時間がたった。ミツクニは、出られない、と思った。あたりは真っ暗だ。
「さて、ミツクニ君」JBの声がした。
「学部長が閉めたんだよ。あの人は、気が効くし、いじわるだ。20歳になって、お仕置きをせねばならんとは、学部長も嘆いていたよ」JBが続けた。
どういうわけか、同時にアルコール灯の火が消えてしまったようだ。
「それでいいんだ。酸素がなくなっちゃうからな。そいつは明るい分、たくさん酸素を使う。なかなか賢いじゃないか」
ミツハルは、返事ができないでいる。
「アルバイトは結構だが、その酒が売れたとしよう。幾らになる?」
JBは、返事を待たずに続けた。
「3000元くらいですか」ミツクニは思い切っていった。
「通貨は何を使うか、という点では当たりだ。ブロック経済だからな」
「え、ええと、アルバイトですよ。もしくはベンチャーといっても」
「それはいい。だが、君の学費は1時間当たりいくらか、計算したことがあるか」「いえ」
「2万元くらいかな。だが、それはまあ、別にいいんだ。肝心なのは、酒だよ、酒。飲んでみた?」
「いえ、上に持っていこうと思って」
「じゃあ、ちょっと一杯やろう」
「いいんですか」ミツクニは、JBの威勢に負けて、仕方がなくウイスキーの栓を抜き、ボトルに口をつけて飲んだ。
「どうだね」
「酸っぱいですね」つまり、骨董品のウィスキーは、あまりに長く放っておかれたために、半分酢になりかけていて、埃の味もする。飲めたものではないのだ。
「わたしが、同じことを考えるとは思わなかったのかい?」JBは、困ったような、残念なような、複雑な顔をしながらミツハルを小突いた。
「すみません」
「まあいい、ただ、後でちょっと話したいと思っていたんだ。この部屋はちょうどいい。誰にも聞こえなくて」
「何の話ですか?」
「けっこう長い話だよ」
ところで、このころミミは、精神界と現実界の境目をうろうろしていた。固有概念は同時にこの二つに存在しえず、ミミという観念のみが、少しずつミミの体から離れていく。
具体的には、ミミは服を脱いで、裸身を夜の海に向けていた。白い首すじが、闇に浮かんでくっきりとした曲線を描いている。夜の海は、危険なところだ。波打ち際が分からないので、波が高い時に近づくと、海に飲まれてしまう。そして、今日は波が高い。海辺は誰一人おらず、灯台の明かりだけが闇を照らしている。砂浜には、奇妙な形をした多肉植物が生えている。
ミミは、波の音を聞いていた。そして、魂を、次第に大気に溶け込ませていた。事実、ミミの体から、透明で青い、気体めいたものが、少しずつ溶け出ていた。それは、魂というべきだった。少なくとも、ミミにとってはそういった単語で表記されるべきものだった。ここで、われわれは観念とも呼んだ。
次第に、ミミの意識が薄れていく。温度のない空気の中を歩いているような感覚がする。やがて、ミミの体は、大気中に溶け、一気に上昇して雲を抜け、高度7000メートルに達し、ゆっくりと落ちた。シューレの建物の地下に向かって。
シューレの地下1階では、ミツクニとJBが向かい合っていた。あたりは暗く、アルコール灯の光さえないが、ぼんやりと夜間灯の光が光っていた。「何から話そうかな」JBは声をひそめて言った。
「何か、大事な話ですか」
「そうだな、大事な話だ。まず、私は彼女の後事を託す相手を探している。ここがちょっと良くなくてね、いつ死ぬか分からんのだ」JBは、肝臓のあたりを押さえた。
「飲みすぎたんですよ」
「簡単に言うね」
「僕なりに気を使っていますよ」
「仕方がないかな」
「そうかもしれません。でも、僕はJBが嫌いじゃないですから」
「後のことだ」
「彼女のことですか」
「君は、ミミに恋をしている」
「それはそうですね。好意を持っています」
「……そうだなあ。それについてだ。そろそろか」瞬間、部屋の壁全体が青く光った。さらに、部屋の空気が一気に冷たくなり、ミツクニの体が浮き上がった。しかし、むしろ、靴のかかとは地面についていた。浮いたように感じたのだ。そこからが長かった。
ミツクニには、奇妙な思念が浮かんだ。百年がそこで経った。もう百年、この地下でJBと向き合っていなければならないような気がした。そこでは、マウント・フジが二度目の噴火をとげ、地球が丸ごと吹き飛んでいた。月が昇る。それを見ている。月から、大量のイナゴがやってくるので、その対策を国に依頼しなければならない、とミツクニは思っていた。
「これはガスじゃないよ」JBは言った。空を、巨大な立方体の舟が飛んでいる。舟には、七福神のいずれもがそろって、宴会をしている。そこを、更に巨大な、山一つぶんもあるような石が飛んでいく。石には「山」と書かれている。ミツクニは、それを越えて空を飛ぶ。そして、落ちる。ミツクニは、空を飛んでいる意識のまま、一気に地面に着地した。
着地のショックで、体がばらばらにならないかを心配していた。時間感覚が狂う。百年、空を飛び続けていたような気分になる。その感覚が、現実の時間で5秒続いた。
やがて、ミツクニの足が、地面をとらえた。というより、体の感覚が戻った。意識がはっきりしてきた。
地下室の、見慣れた石の壁が見えた。夜間灯がそれを照らしている。本棚には本がたくさん入っている。ここが、オリガ・サトウの部屋であることが分かる。
JBは、部屋にあったソファに座り、ミツクニを見ていた。「何があったんですか」 ミツクニは、茫然と、この世に戻ってきた感想を口にした。
「人間は、人間の意識を知るべきか、というのは古今有名な難問だった」JBは口を開いた。
「むつかしいですね」ミツクニは答えた。
「仮に、みずからが、意識をすることがなければ、まわりの「表象」はなくなってしまう」
「たとえば、寝ているときは意識がない」ミツクニが言う。
「夢を見ることもある」JBは、すこし苦々しげに言った。
「今見たのは、夢だということですか」
「似たようなものだ」
「むしろ、この間、変なガスを吸っちゃったときの気分に似ていると思いますが」「きみは、分かっているようで分かっていない。それが、ミミなんだよ」
「それがミミ、というと」
「ミミはそういう存在なのだ。そういうものなのだ」
「どうでしょうか。ミミは普通の女の子だ。すくなくとも、ぼくにとっては。彼女は兵器だ、なんていわないで下さいね」JBは、困ったような憐憫のような、複雑な表情をした。それは、怒りのようでもあり、愛惜の情でもあった。
「わたしの娘でもある」と、JBは、言い切った。ミツクニは、つばをのんだ。「ジグムント・フロイトと、ハヴェロック・エリスは、人間の意識を科学的に解明しようとした、最初の人物だ。心理学の教科書に載っていただろう」
「はあ、フロイトですか」
「それをつきつめると、ミミになる」
「具体的にはどういうことなんですか」
「<観念>は、個人の意識を超えた、非物質的な永遠不滅のものだ。プロフェッサー朝永、プロフェッサー湯川、プロフェッサー小川も協力していた。正確には、心理物理学の分野だ」
「なんだか良く分かりませんよ。20歳なんだから、付き合ったっていいじゃないですか。ミミはミミ自身、彼女の心を持ってる。なんだか知らないが、意識だの無意識だのとは関係ない」JBは、困ったな、やれやれ、とつぶやいて、何かをしばらく考えているようだった。
その表情には、誰か、この世を去った人物のことを考えているような、寂しげさが含まれていた。
「戦争や、外交のややこしさを知らないだろう」JBは続ける。
「知らないですよ、終わってたんだから」
「わたしの一族は、というか、曽祖父、祖父、わたしの父、すべて学者だった。もちろんわたしもそうだ」
「それで」ミツハルは詰め寄る。すると、JBは、眉を上げて、とぼけるような顔をした。
「ところで、座敷わらしを知っているかね」
「はあ」
「日本の昔話に出てくるやつだ」
「わたしにも、実は彼女の正体は良く分からないのだ。でも、座敷わらしだと考えると納得が行く」
「座敷わらしは兵器じゃないでしょう」
「まあ、多発テロや噴火を経て、現代的になったのさ。研究が進んだとも言える。ともかく、彼女は、わたしのひい爺さんより前の時代から、この屋敷に住んでいる」JBは、そう言うと、おーい開けてくれ、と大声で上に向かって言った。何者か、たぶん、学部長か誰かがマンホールをずらした。
シューレの蛍光灯の明かりが差し込み、地上へ出られるようになった。
月が傾き、夜になった。低く流れる雲が、月の明かりを反射しているので外はわずかに明るい。屋敷の電灯は、JBの住む塔にすえつけられた風車の発電機構でともっている。
そのため、時おり家具や壁の作り出す陰影がほのかに揺れる。シューレの居住区には、ソファーとテーブルが置かれた、休憩室がある。ミミがいた。ミミは、ディスクを旧式のアンプにつながれたデッキに入れようとしていた。寝るまでの時間が退屈なのだ。風呂から出たばかりらしく、黒い髪がわずかに濡れて輝いていた。アンプの横には、二つの小さめのスピーカーがあり、電波のいい日には短波ラジオを受信することもできた。
上に置かれたデッキは、共通メディアBの読み取り機で、ミミは地下から持ってきたオーディオディスクをかけようとしていた。
「ディスクにほこりがついているんじゃないの?」ミツクニが声をかけた。
「え?ああ、びっくりした。ミツクニか」
「ああ、ごめん。後ろから呼んじゃった」
「いいんだけど。ディスクをこする布とかないのかな」ミミはこう言ったが、息を吹きかけてほこりを吹き飛ばした。ディスクをトレイの上に乗せ、読み取りボタンを押す。すると、にわかにスピーカーが振動した。やわらかなメロディがあたりを満たした。
古いジャズの歌い手が、恋の歌を歌っていた。ナット・キング・コール、地下から掘り出したものだ。ミツクニは、少しの間音楽に耳を澄ました。何かもどかしいような気分になった。甘くかすれた声で、英語の歌を歌っている。二人は首をかしげた。
「これ、ちょっと甘ったるい。笑っちゃいそう。二人で聞くもんじゃないかも」ミミが言った。
「そうかも。古い曲だからかな」ミツクニは眉をひそめて言った。
「夕飯食べた?」
「食べた。いつもの野菜のシチューだった」時計は十時より少し前を指していた。
ミツクニは、何をいうべきか悩んだ。ミミ、きみはいったい何者なんだ?でも、それをいうべきじゃない気がした。そういった予感については、しばしばミツクニは鋭かった。タイミングが大事だ。それに、どうやら、ややこしいことがいくつもありそうだ。曲が終わり、沈黙が降りた。
「じゃ、わたし、寝るから」ミミはそっけなくそう言って、談話室を去った。ミツクニは、ふう、とため息をついた。
ミツクニは、いくつか残された課題について考えてみた。時計はもう11時を周っている。まず、地下の普段ではありえない体験。それに、JBのミミについての発言。つまり、地下で見た幻覚は、ミミが引き起こしたものだ。そして、JBは、人間の意識について話した。そして、ミツクニは、ミミは普通の人間ではないことに気づいている。
更にいえば、それゆえに、ミミに惹かれていることも。さて、どうしたものか。ミツクニは、とりあえず寝るほかはないような気がしてきた。何故かというと、パーテーションで区切られた部屋の向こうで、ミミの、ごく普段どおりの寝息が聞こえてきたからだった。
「ミツクニ、地下へいってみない?」ミミが言った。
ミツクニは、眠りから覚めたばかりだった。
黒い格子のはいったパジャマを着たまま、ベッドに寝ていた。ミミが顔を近づけて、呼びかけたので、ミツクニは驚いた。
「なんか、ちょっと反応に困るんだけど」
「いいんじゃない?困る人は困れば。特許権持ってる人とか、弁護士とか、そういう人があたしにとって大変なんだ。でも、弁護士さんも弁護士さんで、苦労してるからね」
「ふうん」
「困っちゃうよね」
「何で」
「映画みたいで」ミミは、にやりと笑っていった。
「そうかもしれない」ミツクニは、汚れてもいい服を着て、地下へ行く準備をした。アルコール灯と、はしごとバールを忘れないこと。シューレの廊下が、ミツハルの靴とミミの靴のかかとで、こつこつと小気味の良い音を立てる。
朝の学校は、悪くない。屋敷の隅にマンホールがある。横に東向きの窓がついているので、太陽が見える。ミツハルは、マンホールのふたを開け、はしごを立てた。オリガ・サトウの部屋に入ることができる。ミミは、はしごのステップをからからと音を立てながら、下に降りていく。
「待ってよ」ミツクニがいう。
「待つよ。ただ、今日はもっと下に行きたい」
「わかった」オリガ・サトウの部屋は、あいかわらず本で埋め尽くされていた。ミミはそのうちの一冊を手に取り、それがJBの日記帳であることを知った。
「のぞかない方がいいかも」ミツクニは控えめに言った。
「大人たちは、ずっと前から地下に出入りしていたんだよ。むしろ、ここで生活をしていた」
「ふうん」
「この日記、なんか陰謀めいた、変なことばっかり書いてあって、いやだ」
「見るほうが悪いんじゃないかな」
「そう」ミミは答えると、日記帳を本棚に納めた。廊下の端には、必ず階段があるようだ。もちろん、古くなっていて、板のこすれる音を立てるものもある。
ともかく、地下2階には酒蔵庫があり、ウィスキーの匂いや、腐ったワインの匂いなどが混じっていた。ミミはそれらを感慨深げに見やり、うーん、と唸った。「昔はいいお酒だったんだろうね」ミツクニは言った。
「そうかもしれないね」屋敷の地下は同じ構造が続いているようだ。上の階と同じ位置に、階段があった。ランプの明かりだけが頼りだ。
彼らは、更に地下へと進んでいく。地下3階には、植物の標本を納める部屋があった。シダ植物や、木材の珍しい品種の乾燥標本が置いてあった。また、地下4階には、貴金属でできたアクセサリを並べる棚があった。そこには、メノウなどの象嵌された、見事な貴石も置いてあった。
二人は、地下の更に下に至った。すでに、アルコール灯の光も弱弱しくなり、ミツクニは少し不安を覚えていた。
「これからをきちんと見ておかないと、損をするよ」ミミはこう言って、黒い石でできた壁を指差した。ミツクニは、息をのんだ。石に埋もれたままの、恐竜の化石が、壁に使われていたのだ。とても大きい化石だ。そこには、ミミとミツクニがいたのだが、化石の大きさは、二人の身長をはるかに越えていた。恐竜の周りには、見たこともないような巨大な貝がちらばっていた。「二億年前のものだね」ミミは言った。
「なんか、フジの話とか、どうでもよくなってくる」
「隕石の破片とか、月の石とかもあるんだけど」
「誰が持ってきたんだろうね」
「いいや、下に行こう」
「そうだね」更に地下へ進む。すると、地下の様子が急に変わる。
まるで、壁が溶け出すように、でこぼこになるのだ。上からは、水が滴り落ちてくる。それに沿って、石のようなものができている。石は水滴のしたたりおちるままに、形を成している。
「フジの火山灰がさ、石灰を含んでいるでしょ。だから、それが解けて、鍾乳石といっしょみたいになるの」
「世界は広いね」
「鍾乳石っていうより、石灰の固まりなんだけどね。これはこれで見ごたえありだよね」
「なるほど」ミツクニはうなづいた。更に地下に向かう。階段がきしむ。もう、地下の何階かを数えなくなっていた。
「電源が入るといいんだけどな」ミミが言った。
「え?」
「古いから、線が切れているかもしれない」ミミは、その部屋の壁にしつらえたスイッチを入れた。すると、天井にいくつもの、星が現れた。
「昔の人が、プラネタリウムをつくったんだよね。あれが北斗七星かなあ……」ミミは、一つ一つ、星の説明をしていく。ミミは、見慣れたもののように、星を模した光ダイオードを見ている。
「あのさ」ミツクニは言った。「ぼくは、ミミと知り合って間もないから、ミミのことをさ」
「はあ」
「……いろいろ分からないこともあるし、でもさ、それでも、それでも……」
「ああ、ちょっと、待った。それはまだ。それは勘弁」
「へ?」
「まだだって」
「ああ、やっぱりダメ?」ミツクニは眉をひそめた。
「いやいや、まあ。まだあるのよ。こっちに」ミツクニには、ミミが何を言っているのか良く分からない。
でも、ミミは手でこっち来なさい、の仕草をしながら、階段を下っていく。下には、炎が広がっていた。いや、炎というべきか、視覚的には火なのだが、それは紫になったり、赤になったりして、虹色を描いていた。ミミはそれを見ながら、次のように言った。
「これも含めて、ここの屋敷の、地下全部がわたしの意識らしいんだよね。パパによると。心理物理学の基礎だって。パパ……って、何人もいたけど。良く覚えていない。一人がわるいやつで、あたしを戦争に使ったけど、べつにそれも昔の話だよ」
「触れちゃいけないかな」
「あたしは、観念の娘、ミミ。少しだけなら話してもいいよ。つまり、あたしはこうすることができる。誰でも攻撃された人は、意識そのものがなくなっちゃうの。大統領でも、首相でも、独裁者でも」
「大変だね」
「パパの誤算は、あたしが成長して、自意識を持っちゃったことかな」
「自意識を持つと、どうなるの」
「あたしが、恋をしたら?」
「その相手が世界の王様になるってこと?」
「当たり」
「それで、あたしは、こう、けっこう美人だと思うし、性格もわるくないんじゃないかな。割と好かれる」
「うん」
「だから、駄目」
「そっか、そうだね」
「……ねえ、昔ちょっと好きだった人とか、前の学校の友達とかさ。もう会えないじゃない。そうとう親しくないと」
「うん」
「だから、きっと、線と線みたいなものだと思う。人と人って。たまに交差するけど、そこは点で、一瞬だけ、感情が交差する。あとは、別の方向に走っていくだけ」
「そうかもしれない」
「わたしは、ものに帰れる。この、博物館みたいな、地下に。あるいは、他の銀河をめざして旅に出ることもできる」
「そうなんだ、きっと楽しいね」ミツクニは、無理をしていった。
「ものに帰るほうを選ぶよ。たとえば、亡くなった人の遺品とかに、救われることもあるでしょ?ここにいれば、ミツクニの夢に、たまに出られる」
「フロイト的に?」
「あのパパもあんまり好きじゃないや。せっかくいいお別れだったのに、長いお別れになっちゃいそう」
「そうだね。わかった。全部分かった。じゃ、ぼくは上に戻るよ」
「また。ミツクニが長生きしますように。いい出会いに恵まれますように」
「それじゃね」こういうと、ミミは一つの小さな赤い宝石になった。
「あ、でも、また出てくるかも」と、一つ言い残して、宝石は炎の中にかき消えた。
ミツクニは、ため息を一つついて、ゆっくりとアルコール灯の火を頼りに、階段を上った。幸いマンホールのふたは、はずれていなかった。学部長も、JBもいじわるをしなかったようだ。
ミツクニはその後、ごく普通に授業に出て、JBから代数学や現代国語を学んだ。今度は、シューレに転校生がやってくるらしい。早い話が学校をやめた人だ。何かが個性派なのだろう。おれも、そうなのかもなあ。ミツクニはそう思って、またあまり愉快でない、ミット・シューレをやめたときのことを考えた。
えーすみません。前投稿したのがなんか章立てでとっちらかったんであります。もう一度読んでくださる奇特な方がいらっしゃったら、どうぞ。