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トゥルティン・ベルは野心家であった。
トゥルティン子爵としてギルディベリウスなんて大仰な名前を賜っているけれど、誰も歯牙にかけない程度の地位に満足するつもりなど、さらさらなかった。
しかし、ベルが物心ついた頃にはこの国は腐っていて、彼の野心を満足させてくれそうな場はなかった。花もち内乱が始まったときは、いっそ外国に仕えようとさえ思ったほどである。
彼がそうしなかったのは、彼の養父がこの国を愛していたからに他ならなかった。
養父はどうやらこの国が昔のまま美しく、豊かなものだと信じきっていたようであった。
王都から出たことのない養父にはそう思えたかもしれない。
彼の心から善良で人を疑うことを知らないところにはほとほと呆れていたが、あそこまで徹底されていると、何か他に考えがあるのではないかと、こちらが疑ってしまう。
ベルは人の親切や好意をそのまま受け入れることができるような性格はしていなかった。
ベルにとって王都や王宮にある全ての人やものはまやかしであった。
ベルは知っている。
王都から一歩でも出ればこの国の真実があることを。
生きたい、力さえあればと、ぎらぎらした目をした人が痩せた体を引きずって歩いていることを。
新しい王太子が城にやってきて、間もなく1年が経とうとしていた。
慣例ではあと1年から2年、王からの引継ぎを受け、新王として即位するはずである。
しかし王はいつまでご存命か分らないし、帝国が動きだしたという噂もわずかながらに耳に入ってきている。
帝国が本気になればこの国は本当に終わるに違いない。
ベルは新しい王の姿を見ることはないだろうと思った。
可愛そうだが、若き王太子は王になる前に死んでしまうのだろうと。
ベルの目の前をあのケルディナ侯爵が通り過ぎた。
いつ見ても憎たらしいほどの澄まし顔である。
この国がなくなれば、あのケルディナ侯爵は宰相になる前に死ぬ。
ベルは愉快な想像ににやりと笑った。
ある日、ベルは噂に聞く赤毛の王太子と偶然出会った。
それはまさしく遭遇というべき会合であった。
彼はなぜか、石畳の回廊の上に寝転がっていたのである。
流石のベルもどのように反応するべきか迷った。
しかし、三秒足らずで復活し、にこやかに手を差し伸べた。
「こんな場所に寝転がるなんて、王太子殿下、お転婆はいけませんよ」
赤毛の少年、ユーリウスは気だるげにまぶたを押し上げ、まぶしそうにベルの金髪を眺めた。
「君は短髪なんだね」
ベルの少し癖のある髪を見て、ユーリウスは言った。
「最近長髪ばかり見ていたからかな。随分涼しそうで羨ましいよ」
ユーリウスに会う人物となれば自然と長髪、つまり貴族ばかりだろう。色街育ちのこの少年はベルの短髪を気に入ったようだった。
「って、もしかして、暑くて寝転がってたんですか」
「日陰にある石は冷たくて気持ちいいよ」
ベルは呆れた。
仮にも王太子がすることではない。このあたりに育ちの悪さが見え隠れするのだ。
ベルにしては割と真剣に王太子に説教することを決めた。
「あのですねえ、殿下、気温が高いのも正装が暑苦しいのも、床の石が冷たいのも分ります。分りますけどね、あなたは仮にも王太子なんですから、それらしく振舞っていただかないと。誰が見ているかなんて分らないんですよ」
わたしのように。
ベルの差し出した手をじっと見ていたユーリウスは、しかし、その手をとろうとはしなかった。
少しむっとしたベルは彼の腕を掴み、乱暴に引き上げた。
ベルに引っ張られながらユーリウスはのろのろと立ち上がり、固い石の上に長時間いて痛む体を解しているようだった。
「殿下、分っていらっしゃるんですか」
ユーリウスは少しうざそうな顔をした。
ベルの笑顔は引きつった。このくそがきめ。
「誰も僕を見ないよ」
ユーリウスの言葉はベルにとって言い訳にしか聞こえなかった。
「殿下、ここは殿下の育った街じゃなく、王宮なんですよ。誰だってあなたを見ます」
「見ないよ」
ユーリウスが気だるげな表情のまま、断固とした口調で言うので、ベルは少し興味を持った。
ユーリウスはぱたぱたと手で顔を扇ぎ始めた。
「見なくたって支障がないだろう。この国は、僕がいなくてもすすんでいる」
「そんなことは」
ない、と言うのは簡単だけれど、確かにそれは事実だからベルは否定できなかった。
ユーリウスはなだめすかしてごまかせるような輩とは違うようだと悟ったからである。
ベルが思うよりこの少年はきちんと周りを見て、自分の立ち位置を誤らないようだった。
それはつまり、王太子は必要だけど、ユーリウスはいなくてもいいということで。
しかし、ベルはその深い緑色の瞳にベルと同じ鈍い色の光を見た。
何かを成し遂げたいと強く思う者だけがもつ輝きである。
「そういえば君はどうして僕を見たの」
ベルはにやりと笑ってみせた。
ベルの機嫌は良かった。
この王宮で自分と同じ光をもつ人間が見つけられるとは思わなかった。
あれはきっと大物になる。いや、大物にしてみせる。
ベルは彼が寝転んでいた石畳に寝転んでみた。
背中から冷たさが広がっていく。
周囲の人間は何ごとかと目を見開き、ベルの存在を確認すると鼻で笑った。
あのケルディナ侯爵はベルを見もしなかった。
それらを一瞥してベルも鼻で笑ってやった。