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ジルベウス・テディナ・ロンダートは名誉あるロンダート伯爵家の長男であり、後にロンダート伯爵となることを約束されている青年である。
彼は、少女が好むお姫様と騎士の物語のなかから飛び出してきたような、美しく逞しい容姿をしていた。
緩やかに波打つ金の髪は黄金の輝きを放ち、思慮深い瞳は胸のうちに秘めた青き炎を宿している。
自分に厳しく、女性に優しく、部下に厳しく、主君に敬意をもって仕える、そんな理想的な騎士である。
例え、父であるロンダート伯爵が酒におぼれて家が落ちぶれようとも、母であるロンダート伯爵夫人が伯爵家の財産を食い荒らそうとも。
彼は気高き騎士の血筋を誇りに、清く正しく美しく、そして強く賢く生きている。
周りの貴族は彼を評してこう言った。
「没落伯爵家の夢見がちなお坊ちゃん」と。
ジルベウスは名誉ある仕事を請け負った。
それはこの度王太子となった花もちの王子、ユーリウス・ベルディナ・フロワ・J・バローナの護衛騎士である。
初めて見たユーリウス殿下はみすぼらしく痩せていて、とても王太子には見えなかったが、侍官たちの努力により、見かけは立派な王太子に成長しつつあった。
見かけだけの王太子とはいえ、騎士として主君に忠誠の限りを尽くすのは当然であった。
しかし、ジルベウスは人生で初めて騎士を辞めたいと、ぐちゃぐちゃになった髪の毛に小枝や葉っぱをからませながら、心の底から思った。
「やあ。いつも思うけれど、君、不器用だね」
先々代の王の趣味で作られた庭園の、一際立派なギギの木の枝に腰掛け、城下町を見下ろしていた若き王太子は呆れたように呟いた。
「殿下、ユーリウス殿下、早くこのような場所から降りてください。危のうございます」
彼の座る数段下の枝に必死につかまりながら、何とか体を持ち上げようと奮闘していたジルベウスに、ユーリウスは笑った。
「君のほうが危なそうだな」
そう言って、彼はジルベウスに手を差し伸べた。
あかぎれだらけで、皮膚が硬くがさがさしていた彼の手は、生まれながらの貴公子とまではいかないまでも、白く滑らかなものへと変わっていた。
その手と主君の顔を見比べたジルベウスは、その手をそっと握った。
勉学の時間が終わると、いつもどこかに消えてしまうこの王太子を探し出し、護衛の役を務めるのはとても大変だった。
彼はいつもジルベウスの想像もつかない場所にいる。彼の元にたどり着くのは、ジルベウスにとって、剣の素振り500回より辛いことだった。
しかし、彼が騎士を辞めたいと言い出さないのは、ユーリウスがこうして手を差し伸べ、時には彼の優美な服についた葉や泥を払い落としてくれるから…なのかもしれない。
細身のユーリウスは、しかし、思いのほか力強くジルベウスを引き上げた。
「ユーリウス殿下、早くお部屋に戻りましょう。もうすぐ日が暮れます」
沈む夕日に照らされた彼の顔はどこか陰気だった。
少年の顔立ちは可愛らしくとも、ジルベウスのような完成された美には程遠い、凡庸なものである。
しかし、誰よりも長い時間をこの少年と過ごしてきたジルベウスは、こういうときの彼が陰鬱な色気を放つことを知っていた。
「僕が育った場所はあの辺りだね」
囁くような声に導かれ、彼の指差す先を眺めた。
日が暮れだし、人々が家に向かう刻、妙に明るい一帯が見えた。
「あそこは夜が昼なんだ。だから今は朝といったところかな」
ユーリウスは内緒話をするように、くすくす笑った。
「殿下、殿下は王太子です。夜は夜、朝は朝なのです」
そうだね、と彼は笑った。自嘲しているのだろうか。
彼はいつも穏やかだけれど、何を考えているのかはさっぱり分らない。
「ねえ、」
「はい」
「君は落ちこぼれの騎士って言われているそうだね」
ジルベウスはぎゅっと拳を握った。
ジルベウスは自分がそう噂されているのを知っていた。自分が正しいと思う騎士の行動をとればとるほど、そう言われるのを知っていた。
その度ジルベウスは自分の父と母が正しい騎士の家に相応しくないからだと自分を慰めねばならなかった。
「殿下、わたくしは確かにそう言われております。しかし、殿下、どう言われようともわたくしは殿下の騎士であります。殿下に相応しい騎士となるべく、日々鍛錬を繰り返し、こうして殿下の側に控えております」
ユーリウスは、城下町を眺めたまま、じっとジルベウスの話を聞いていた。
「そもそも殿下、騎士とは主君のために尽くし、主君の喜びを己の喜びとし、主君の悲しみを己の悲しみと嘆きながら、その憂いを払うべく奮闘すべき存在でございます。ましてや、畏れ多くも伯爵という名誉ある貴族であるなら、ますますその責務に没頭し、その他のものに正しい姿を見せねばならないのです」
わたくしには、とジルベウスは己のなかか湧き上がる気持ちをそのままに続けた。
「確かに不名誉な家族がおります。あれらには貴族としての威厳もなく、甲斐性もなく、騎士としての誇りも魂の美しさもありません。しかし、殿下。わたくしは違います。必ず殿下が誇れる騎士となれるでしょう」
木の上で、土ぼこりだらけの自分が宣言するのもおかしなようだったが、確かにジルベウスは手ごたえを感じているのである。こうしてユーリウスの側に控えることができるのは自分だけであると。
改めて満足げに頷いたジルベウスは、しかし、ユーリウスの探るような目にたじろいだ。
「君は、」
彼の声は初めて聞くような冷たさでジルベウスの心に刺さった。
「僕の騎士、なのかな。僕にはそうは思えない」
とっさに反論しようとしたジルベウスは、沈黙した。
ユーリウスの表情は返事を期待して居なかった。
しばらく呆然と佇んでいたジルベウスをそのままに、ユーリウスはさっさと木を降り、自分で部屋に戻っていってしまった。
翌日からのユーリウスは大人しかった。
それは、国王の体調がますます悪化し、のんびりしていられなくなったためである。
先ほどからユーリウスの前ではあのケルディナ侯爵が本を朗読していた。
ジルベウスはユーリウスの側に控えながらも、職務に集中できない自分を感じていた。
ユーリウスはただじっとしていた。いつもと何も変わらない様子で。
「ユーリウス殿下、」
ジルベウスはケルディナ侯爵の声の切れ目にそっと呼び掛けた。
ユーリウスはいつもと同じ顔で振り返り、いつもと同じ穏やかな声で応じた。
「何かな」
「あ、いえ、お疲れでは」
「ありがとう。大丈夫だよ」
会話はそれで終わった。
ユーリウスは一度だってジルベウスの名を呼んだことはなかった。
再び侯爵の声が部屋に響き、ジルベウスは悟った。
つまり、自分はいてもいなくても変わらない、有象無象の騎士の一人でしかないということを。