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花かざる国の王  作者: 呆化帽子屋
第1章 出会い
4/42

1-1

 ジャックは遠い昔の記憶を持っていた。いわゆる前世の記憶である。

 しかしその記憶ははっきりと思い出せるようなものではなく、ジャックにとっては役立たず同然だった。

 例えば、昔はとても綺麗な水を飲んでいたようだけれど、どのようにすればこの薄く濁った井戸水を綺麗にできるかなんて思いつくはずもない。

 例えば、昔はこんなに簡単に人は死ななかったようだけれど、どうすれば人が死ななくなるかなんて考えつくはずもない。

 例えば、昔はあまりに理不尽な命令や身分なんてものはなかったようだけれど、どうやったら理不尽が減らせるのかなんて知っているはずもない。

 体が満足に動かせない幼児期には余計な期待をしては落ち込むということを繰り返していたけれど。

 高価なガラス瓶を割った罰として水を取り上げられれば、濁った水は天使に思えた。

 人は簡単に死んだけれど、同時に、次々と生れていった。

 機嫌が悪いからという理由で殴られるなら、じっと耐えるか、機嫌をとればよかった。

 このようにジャックは今の生に充分適応できたし、いまや理想郷と化した

 前世を思い出して今世の不便さに嘆くことはしたくなかった。

 ジャックは自己評価を誤るような子どもではなかった。

 自分がこの現状を変えてみせると思い上がれるほどには有能ではなかったし、ふてくされて斜に構えるほどには馬鹿ではなかった。

 せいぜいジャックが産み落とされたこの色街で、それなりに使える子どもの一人として生きていく程度の存在であるはずだった。

 だから、今のこの状況は、自分にとってまさに晴天霹靂。

 全くの予想外であった。



「フロテティーナ国は21年のシュアの月、帝国と主従の関係を結び、以来…」


 ユーリウスは手元の歴史書を見る振りをしながら、小さくあくびをした。

 ユーリウスの教育係だという若い青年は、それをちらりと一瞥しただけで、すぐに長々とした講釈を続けた。

 歴史書を読み上げるだけのこの男は、教育者としては失格だな、とユーリウスは考えた。

 リティニウス・ファッジ・ケルディナ。若きケルディナ侯爵で、将来の宰相候補と名高い青年、らしい。彼の派手な金髪は長く伸ばされ、綺麗にまとめられている。瞳はブルーで冷たい氷を日に透かしたような色をしていた。

 ユーリウスが彼をぼんやりと眺めていると、リティニウスは乱暴に本を閉じた。


「ユーリウス殿下、」


 声も冴え冴えとしている。ユーリウスは肩をすくめて、彼の瞳を見つめた。


「恐れ多くも申し上げますが、ユーリウス殿下は王太子となられてまだ一月で、このままこの国の王となるにはあまりにも才覚が足りておりません。多くの高官たちの望みで、若輩ながらこのわたくしがユーリウス殿下の教育係となったわけでございますが、」


 なんて話の長い男だろう。

 ユーリウスは神妙な顔をして、男の話を拝聴しながら、少し前、ことの原因となった事件を思い出した。


 そもそもユーリウスは、ただのジャックだった。

 派手な赤毛の娼婦の息子。それがジャックの認識で、周囲もそう思っていた。

 高級娼館でなかなかの人気を誇っていたジャックの母親は、男に貢がせることを至福と感じる娼婦の鑑だった。そんな生まれながらの娼婦である女がジャックを産んだのは、酔狂な気まぐれだと噂されるほどだ。事実、女はジャックを愛しく思って産んだわけではなかった。

 ジャックはまだ自力で立ち上がれない自分を抱きしめた女を覚えている。

 柔らかく波打つ赤毛の、愛嬌ある顔立ちをした女だった。


「こいつがいれば、あの人は私を迎えに来てくれるわ」


 いつもそう言ってはジャックの瞳にキスをしていた。


「お前は私に似ているわ。最悪ね。でも、瞳だけはあの人の色」


 少し成長したジャックを見て憎々しげに言った女は、しかし、瞳の色だけは愛おしげに褒めた。

 ジャックは確かに母親に似ていた。派手な赤毛で、愛嬌のある顔立ち。

 瞳の色は母と違って深い緑色をしていた。

 ジャック自身も母親に似ていたことを、最悪と言わずとも、嫌だなと感じていた。

 何しろ色街で生れた男は男娼か用心棒かのどちらかしか道がない。

 このままでは確実に男娼となり、男に媚を売らなければならない。嫌だった。

 しかし、思いのほか成長してしまったジャックは店の女将に「使えない」認定されたのである。

 男娼にするには花がないし、芸も微妙。用心棒にするにはなよっちくて役に立たない。

 女将はそう言って、ジャックを追い出したのである。

 その時母である女は「迎えに来てくれる」男を待たずして死んでしまっていたので、ジャックは薄暗い色街の石絨毯の上をうろうろするしかなかったのである。

 ジャックは周囲の子どもたちよりは頭が良く賢かったので、路上に捨てられていたどこかの貴族の御落胤から文字の読み書きを習った。その御落胤は色街の生活環境に耐えられず早々に死んでしまった。

 前世の記憶にある文字とは大分異なっていたが、扱えるようになるまで苦労はしなかった。

 また、彼はジャックは計算も得意としていた。

 ジャックは小さな娼館で勘定係として雇ってもらえたとき、初めて前世の記憶とやらに感謝した。

 世間は俗にいう「花もち内乱」が始まり、治安が悪化の一途をたどる時期であった。

 ジャックの住む場所も多少の影響を受けたが、もともと治安の悪い場所である。今更であった。

 ジャックはただ帳簿を付け、金貨を数えるだけで良かったのである。

 あの日、城からの使いだという男たちが現れるまでは。


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