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思えば、私がこの国の王を本当の意味で「王」と認めたのは、あの瞬間だったのかもしれない。
それほどまでに強烈で鮮烈な光景であったし、同時に体の芯が底冷えするような恐怖を抱いた。
一筋の逃げ道さえ許さぬ、圧倒的な制圧。
驚愕と絶望を宿した屍が転がる惨状。
興奮し我を忘れた民。
いずれも私を震えさせたが、あの「王」に及ばない。
あの時、あの瞬間、あの場で、何故は私は王を見てしまったのか。
はるかなる高みから見下ろす王の瞳は、空虚でありながら、狂気をはらんでいたようだった。
それだけだったならば、私は何も怖れなかっただろう。
歴代の王と同じく、ただ流れ行く時の一遍にしか感じなかっただろう。
けれどあの王は、ユーリウス王は。
狂気の瞳で、穏やかに微笑んだのだ。
神々しいとさえ思えるほど、ただ穏やかに、凪いだ表情をしていたのだ。
混沌としたあの場を、彼の王の澄んだ声が貫いた。
『――我が国の未来に栄光あれ』
それは祝辞の形をとりながらも、私の胸には死刑宣告のごとく響いたのである。
ユーリウス・ベルディナ・フロワ・J・バローナ
我々を震撼せしめた、偉大なる王の名である。
(フロテティーナ王国アルテティア伯爵領領主、セルテウス・ベン・アルテティアの日記より抜粋)
執務室はただ静かであった。
ユーリウスはこれから起こりうる未来に沈鬱していたし、リュゼはただ目を閉じて壁にもたれかかっていた。シャルナはすっかり怯えて顔を青ざめさせ、ジルベウスは緊張の面持ちで自らの腰にある剣の柄を握り締めている。
ベルは真剣な目でユーリウスを見つめた。
「ようやく、なんですよ、陛下。ようやく、ここから始まるんです」
ユーリウスはベルを見返した。
彼の蜜のような色の瞳はちっとも甘くない。
「あなたが選んだことだ。王として即位してから、今に至るまで、ずっと考えていたことでしょう」
ユーリウスは頷いた。
「やっと彼らが釣れたんです。今動かなければ、意味がありません」
ベルは、すっかり気弱になってしまっているユーリウスを奮起しようと、言葉を重ねていった。
「いいですか、陛下。陛下はご自分の力で、あの高慢な貴族どもから、譲歩を引きずり出したんです。あいつらが法に下ったところで、官吏と貴族は別個の存在のまま、貴族官吏が優遇されるずもないということを上手く隠して、貴族どもを縛ることに成功したんです」
明るく茶化すような声音だったが、ユーリウスにとってそれは慰めにならなかった。
ユーリウスは息を吐いた。
「自分でもなかなか非道だと思うよ。彼ら自身に法に下るように促しながら、彼らの本当の望みをまるっと無視したようなものだからね」
「それがなんだというのです? 政に我が意を反映せよ、されど王は我らの領地に触れるべからず、そんなの許されるわけないでしょう」
「王に服せよ、さならずんば死あらん、なんてとんだ暴君じゃないか」
ベルはユーリウスの言葉を鼻で笑った。
「暴君で結構。王の意思はこの国の意思。それが本来の王国のあり方ですよ。あなたは自分に枷をつけて、それから逃げたみたいですけど」
「……この国に王になれる人間が私しかいない今、あまり意味がないような気がするけれど」
「何なんですか、陛下。うっとうしいほど落ち込んでますね。そんなに彼らを罠にはめるのが嫌ですか?」
ベルはあけすけな強い言葉でユーリウスを問いただした。
ユーリウスは口ごもる。
ベルは溜息をついたようだった。
「あなたはそんな弱い人ではないでしょう」
「……いや、ユーリウスはどちらかといえばおくびょ……」
リュゼの間の抜けた台詞を、ベルの鋭い視線がさえぎった。
ベルは腕を組んで、低い声で語る。
「いいですか、陛下。陛下が王座にいる限り、この国の全てはあなたのものです。それがあなたにとって辛く悲しく嫌なものでも、例え万民の命であっても、あなたのものなんですよ。自分の意思のために命が消え行くのが嫌だと? 甘ったれたこと言ってんじゃないですよ。あなたは王座にしがみつくと決めたんでしょう。だったら、全てを受け入れなさい」
ベルは本当に容赦がない。
ユーリウスはうなだれる他なかったが、これだけは言っておこうと口を開いた。
「君に策を考えてもらっている身であまり大きなことはいえないけれど……あのね、私は邪魔者を殺すことを奨励しているわけではないんだよ。ただ……今回は、そうするしかないないというだけで」
ベルは虚をつかれたような顔をし、ついで、にやりと笑った。
「これは自業自得、因果応報の極みとでも言うべき粛清ですよ。定められている規律に違反したという明白な罪を裁くための、ね」
それでも乗り気になれないのは、仕方がない。
ほとんど無理やりこじつけた強引なやり方だから、本当に自分が暴君になったようで、気が滅入る。
「……慕われている、と言えるほどうぬぼれてはいないけれど、嫌われてしまうのは、嫌だなあ」
その苦笑交じりの言葉は、一種の諦めのように聞こえた。
「だ、大丈夫です!! ユーリウス様、俺はユーリウス様が好きですから!」
何の根拠もないだろうに、胸をはってそう宣言したのは意外にもシャルナだった。
「そうですよ、陛下。わたくしどもは陛下の崇高な思いを理解しております。きっと皆、あなたさまの英知に頭をたれるでしょう」
シャルナを押しのけてユーリウスの手をとったジルベウスは、すぐさまリュゼに頭をはたかれていた。
「……ま、俺の仕事はここからが本番だし、お前の決心さえつけば、すぐにでも動いてやるよ」
「決心なんて、そんなもの待っていられない。時間がないんです」
ベルの言葉に小さく頷く。
「……最低でも後三年は欲しかったけれど、もう限界みたいだ」
ユーリウスの言葉に鋭く反応したのはリュゼであった。
「あの男から報告でもあったのか」
ユーリウスは少しの間黙り込み、やがて答えた。
「いや、ただ、ジルベウスが私の近衛になってから、一向に姿を見せないし、定位置にもいない」
「……今回の件で、ユーリウス様のために動いていらっしゃるのでは?」
シャルナの不思議そうな声に、ユーリウスはふっと笑みをこぼす。
そうだとよいのだけれど、と背もたれに体重を預けた。
「彼は主の命令に忠実だ。私が何も言っていないのに動いているということは、つまり、そういうことなのだろう」
はっと息をのんだのは誰だったのか。
もうすでに始まってしまっているのだ。
止まっている暇はない。ただ、前に進まなければ。
ユーリウスは肘掛をぎゅっと握り締めた。




