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城内の北側にある後宮の一室でユーリウスは気だるげに寝そべっていた。
腰元でゆるく結ばれただけの夜着は、すっかりはだけてしまっている。
大きく開いた胸元からのぞく花も、男性の割には華奢であわ白い足も、どうしようもなく色っぽかった。
自分と同じで、全く平凡な顔立ちをしているというのに、このあふれる色気は何であろうか。
この王は夜が似合う人だ。
マリアはごくりと唾を飲み込んだ。
「……やあ、マリア。しばらくぶりだね。元気にしていたかい」
唇をつりあげただけの笑みだった。
「はい。ただの侍女から後宮付き女官筆頭という大出世ですわ。陛下こそ、お元気そうでなによりでございます」
「後宮付き女官か……。そういえば、女官や侍女はあまり人が集まらなかったね。仕事は忙しい?」
マリアは何と返そうか迷い、口をもごもごとさせ、首を横に振った。
「いえ、まさかここまで人が減るとは思っていませんでしたけれど、うるさいおしゃべりや悪質な嫌がらせもなくなりましたし、後宮自体の仕事もほとんどございませんわ」
ユーリウスは笑った。
「そうだね。人が減れば、悪戯をする暇もないだろうね。私にはまだ王妃も側室もいないし、世話をしなければならない女性もいないから、マリアは暇かな」
「陛下に嫁ぎたいお方は大勢おりますのに、何故ご結婚なさらないのです? 陛下ももういい年でしょうに」
「私はまだ20だよ」
「もう20ですわ。だいたい王族や貴族の方は15、16歳くらいでご結婚なさいますのよ」
「マリアももう結婚していたかな」
「わたくしのことは良いのですわ。放っておいてくださいませ」
こんな軽口の言い合いも、随分と久しぶりのような気がした。
マリアはあの旅に付き添っていたから、ユーリウスの身体的な成長を間近で見ていた。
彼は背は高いけれど、華奢で筋肉があまりつかない体質のようだった。
けれど、骨ばった手や、はっきりと浮いた鎖骨などは男らしさを感じさせるのである。
マリアは小さく咳払いをした。
「それにしても、急に後宮にいらして、どうかされましたの」
「ここは後宮だからね。王と女性が会う場所、つまり、私は君に会いにきたんだよ」
マリアは溜息をついた。
ユーリウスは娼館育ちだからか、この手の言葉を簡単に囁く。
これがまた女心や男心を掴むものだから、旅の間も困ったのである。
「冗談はさておき、マリア、君に頼みがあるんだ」
「内密の、ですわね」
ユーリウスは真面目な顔で頷き、起き上がった。
マリアは背筋を伸ばした。
「監察局の局長に伝えて欲しいことがある」
「それは、あの黒髪のお方ですわね」
マリアはユーリウスに随分と気安い男の姿を思い出していた。
どこにでもいる顔立ちの男だが、しっかりと気を配ることの出来る人。
「そう、リュゼだよ。モルベン・リュゼ」
「あのお方が、監察局の、しかも局長になれるだなんて、わたくし信じられませんでしたのよ」
ユーリウスは小さく笑った。
「リュゼやリュゼの仲間たちには、五年も前から伝えていたからね。必死で勉強していたみたいだし、それに、監察局の試験は私とベルが考えたから」
「そうでしたわね。監察局と医局、魔局は少し特殊だから、トゥルティン子爵が学者たちと相談して考案したとおっしゃってましたわ」
ユーリウスはマリアの言葉に頷いた。
「見事試験をパス、監察局局長に就任。そして、これから一番初めの大仕事が待っている」
ユーリウス王は長いすの背に腕をかけ、その上に頭を乗せた。
「しっかり、お伝えいたしますわ」
マリアはひざを折って丁寧に礼をした。
ユーリウスはしばしマリアをじっと見つめていた。
「……ジャックはどうしているかな」
その声は小さくて、マリアはもう少しで聞き逃すところだった。
はっと顔を上げると、ユーリウスは窓の外を見ていた。
月明かりでぼんやりと光る庭を見ているようだった。
「その、彼は、まだわたくしの父のところですの」
ユーリウスはマリアに視線を戻した。
「やっぱり、駄目だったか。何となく、無理だろうなとは思っていたけれど」
マリアは言葉に詰まった。
ユーリウスがジャックと名づけた少年は、今はすっかり大きくなった。
マリアの父であるキシニア男爵と三人の兄たちが彼を預かり、教育していたけれど、今回の試験には間に合わなかったようである。
「……ジャックは随分と荒れたそうですわ」
ユーリウスは瞬いた。
「もともと武の才能があったのか、武芸や剣術の型はすぐに覚えたらしいんですけれど、やはり、勉強のほうが進まず、試験を受けるのさえ父は許さなかったそうですから、それで」
「暴れたの?」
マリアは頷いた。
「兄の手紙にはそう書いてありましたわ。けれど、二番目の兄が、ユーリウス王に会うためだと何度も説得して、今はまた勉学に励んでいるそうですわ」
「……そう」
ユーリウスはまた窓の外を眺めていた。
マリアはその横顔をじっと見守っていた。
「本当はね、少し後悔しているんだ。ジャックとあんな約束をしてしまったこと」
ユーリウスはぽつりと言った。
「ジャックは何も知らない子どもよりたちが悪いと思うし、キシニア男爵がいくら頑張ってくれても、たぶんもう根本的には変われないと思っているよ」
ジャックはたくさんのことを覚えて、随分と“人間らしく”なったけれど、危うい綱渡りをしていると、マリアやマリアの身内は知っている。
ユーリウスも何となく感づいているようだった。
「……それでも、あの子を“人間”にしたのは、陛下ですわ」
ユーリウスはマリアを見なかった。
「たぶん、同情したんだろうね。流石にショックだったし、どうすればいいのか、どうしなければならないのか、分からなかったんだ。人間であることが難しいだなんて、考えたこともなかった」
マリアは何を言うべきか迷って、結局口をつぐんだ。
ユーリウス王は慰めや叱責を求めているのではない。
ただ独り言のように、自分自身の心を言葉にしているだけなのだ。
「私はいつも迷ってばかりだ。ベルに頼ってここまで来たけれど、間違えたのではないかとか、急ぎすぎているのではないかとか、そんなことばかり考えるよ」
マリアはただ黙って彼の言葉を、心を聞いていた。
「それでも、前に進むしかない。前に進みたいと思う気持ちは本物なんだ」
ユーリウスはくるりと振り返り、淡い微笑を浮かべた。
「リティニウスは今度こそ大激怒するかもしれないし、私を見限るかもしれないね。そうなったら、私はたぶん、この城で孤立するだろう」
ユーリウスはまぶたを伏せていた。
長いまつげが頬に影をおとした。
「……でも、それでも、」
マリアの声は震えていなかっただろうか。
「わたくしは、わたくしたちは、陛下の下で働きたいと、陛下のために働きたいと思っておりますのよ」
ユーリウスはふっと息を吐いたようだった。
「ありがとう、マリア」
その言葉を聞けるなら、マリアは何だってしてあげたいと思うのだ。
この悲しくて寂しい王のために。