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リティニウスは執務室の扉をノックしようと片手を上げ、そのまま動きを止めた。
「……それで、ユーリウス様……俺……で」
ユーリウス王以外の人の声が聞こえる。
トゥルティン子爵や、デュルベ公爵ではない。リティニウスの知らない声だ。
執務室には相応しくない、明るく楽しげな声である。
泡立つ心をそのままに、リティニウスは形ばかりのノックの後、返事も待たず扉を開けた。
声は消えた。
どこにでもいそうな顔をした男が、ユーリウス王の向かいに座り込み、茶碗を片手に呆然とリティニウスを見上げていた。
あろうことか王とお茶をしていたらしい。執務室で。
リティニウスは眉間にしわを寄せた。
「……やあ、リティニウス」
ユーリウス王の声は相変わらず暢気だった。
男ははっと我に返って、飛び上がるようにして立ち上がった。
男の抱えている茶器がぶつかりあって甲高い音を鳴らした。
ユーリウス王は小さく噴出した。
「君ね、そんなに慌てなくてもいいだろう」
リティニウスはつかつかとユーリウス王のもとまで歩み寄り、その机の上にどんと書類をおいた。
茶を味わっていたユーリウスは、山と詰まれた書類を見て、小さく溜息をついたようだった。
「陛下、しっかり読んで、署名と判をお願いいたします」
「分っているよ。どうだい、尚書省は。君が長官だし、上手くはいっているのだろうけれど、随分忙しいのかな。でもリティニウスなら、きっと素早く的確にさばけることだろうね」
ご機嫌取りのようなほめ言葉に、リティニウスは目を細めた。
ひっと小さな声が漏れた。
リティニウスは男のほうに振り返った。
「それで、陛下、この男は」
「シャルナだよ」
ユーリウス王の視線を受けた男はぴしっと直立して見せた。
「は、はい! わたくしシャルナ・カバルディア、この度の人事で王付き侍官となりましたので、ご挨拶に参りました」
「王付き?」
リティニウスの疑うような視線にシャルナと名乗った男は挙動不審になった。
リティニウスはますます目を細めた。
「睨まないであげなよ、リティニウス。シャルナは優秀な侍官だよ」
「こんな短期間で平民が王付きになれるわけありません」
ユーリウス王は頬をかいた。
「……三官を分けたことで、侍官の人数は随分と減ってしまったからね。上に人がいなければ、直ぐに昇進できるものなんじゃないかな」
リティニウスは溜息をついた。
「減ったのは侍官だけではありません。わたくしたち文官もぎりぎりの人数しかいないのですから。陛下ももっと真剣に仕事に取り組んでくださいませ」
「前は君一人でいいみたいな態度だったくせに」
ユーリウス王はすねた。
シャルナという侍官は今にも倒れそうなほど真っ青になって震えていた。
「……あの時とは仕事の量も質も変わっています」
リティニウスの声は冷え冷えとしていた。
ユーリウス王は春の陽だまりを思い起こさせる笑みを浮かべた。
リティニウスは最近この笑顔を胡散臭いと思うようになった。
この笑みの裏に、トゥルティン子爵の影を見るからだろうか。
「そう、色々なことが変わっていっているね、リティニウス」
「……」
リティニウスはただ沈黙した。
「……リティニウスが怖いからシャルナが怯えているよ」
「へっ!? いや、俺、そんな」
シャルナは大仰な動作で否定した。
リティニウスは溜息をついた。
「……お前、仮にも王付き侍官ならば、言葉遣いに気をつけろ。御前だぞ」
「は、はい」
ユーリウス王は面白がるような目つきでリティニウスとシャルナを交互に見ていた。
シャルナは居心地悪そうに身じろぎした。
「あの、ユーリウス様、おれ、あ、いや、私、お邪魔なら退出しますけど」
ユーリウス王は少しだけ目を伏せた。
何かを考えているような沈黙であった。
「……そうだね。リティニウスが来たから、楽しいお茶会の時間は終わりにしよう」
シャルナはほっと一息ついて茶器を片付け始めた。
その手際はなかなかで、リティニウスは目元を少しだけ緩めた。
ユーリウスは小さく笑っていた。
「……シャルナ」
「は、はい!」
静かに退出しようとしていた侍官を、ユーリウス王が呼び止める。
「もう少し頑張っておいで。きっと働きやすくなるよ」
シャルナは首をかしげたが、素直に頷いていた。
「……今度は何をなさるつもりですか、陛下」
扉が音もなく閉まるや否や、リティニウスはユーリウス王に尋ねた。
「あのね、何も特別なことをしようとしているわけではないんだ。今やっていることの延長線上に、やらなければいけないことがあるだけだよ。だから、そんなに睨まないでくれないかな」
ユーリウス王は頬杖をついてリティニウスを見上げていた。
リティニウスはじっとその目を見つめ返した。
「わたくしには何のお言葉もないのですか」
ユーリウス王は唇をつりあげた。
悪戯っ子のような、勝気で楽しげな笑みだった。
「この城の全てを把握するのは私であって君ではないよ」
リティニウスは眉を寄せた。
「では……トゥルティン子爵には何か」
「気になるの?」
咄嗟に返事が出来ず、リティニウスはしばし言葉に詰まった。
「リティニウスの察しの通り、ベルは全部知っているよ。何しろベルが考えていることだからね」
「陛下、何故そこまであの男に肩入れするのです。一人のものに傾倒するならば、今までと何も変わりません。何のためにわたくしやデュルベ公爵がおられるとお思いですか」
リティニウスの責める言葉に、ユーリウスは顔色一つ変えず、笑みを浮かべたまま答えた。
「ベルは私の言葉を現実的なものにすることができる。リティニウス、君は私の言葉に反論し、諭すことができる。そして、デュルベ公爵は私とベル、リティニウス、それぞれの言葉を天秤にかけることができる。何か問題があるかな」
リティニウスは沈黙した。
こうした言葉をさらりと返すことができる人だから、リティニウスはこの王は本当はとても賢いのではないかと錯覚する。
いつもいつも、人の言葉を受け止め、流し、無理やり納得させるのだ。
「……まあ、台本を考えているのがベルだから、唯我独尊、傲岸不遜な案を無理やり通されているような気がするんだろうね。その気持ちも分かるよ」
リティニウスの心の声を聞いたのだろうか。
ユーリウス王はくすくすと笑い声をあげ、そしてふと真面目な顔になった。
「けれどね、私はベルの強気なところに期待しているんだよ。攻めていかなければ、前に進めないからね。だから、君が絶対に駄目だと思うことは、君自身が本気で守らなければならないんだよ」
ユーリウス王の視線は強かった。
リティウスは負けじと視線を返した。
リティニウスは無表情だった。
ユーリウス王は少しだけ目を丸くして、微笑んだ。
「大丈夫。君の言葉もちゃんと聞こえているよ」
リティニウスは視線を逸らした。
彼は声をあげて笑った。




