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シャルナは多くの群集にまぎれながら、その姿を呆然と見上げることしか出来なかったのである。
やはり、とも、まさか、とも思った。
シャルナが出会ったあの少年は、シャルナには手の届かない、はるか高みにいる存在だった。
お茶を飲み交わすどころか、会う機会さえ、もう二度とないに違いない、そんな場所に彼は行ってしまったのである。
もう一度彼に会うことが出来たなら、シャルナの心に残る不快感は取り除かれるに違いない。
だから、彼に会うためなら、何だってするつもりだった。
けれど。
さすがに、これは、難しい課題である。
『知り合いのなかで一番険しい顔をしている人を、自分の特技で満面の笑みにすること』
シャルナにとって、一番険しい顔をした人といえば、自分の父親だった。
そして自分の父親と言えば、王都一のお茶名人、シャルナの淹れた程度のお茶で笑うなど、考えられないほど自分の仕事に厳しい人でもあった。
「あの、父さん……」
差し出した茶は、しかし、一瞥されただけだった。
父はすぐ仕事に向かっていった。
シャルナの父親は、茶葉を扱って五十余年、こと混ぜ茶に関していえば、神がかった配合をこなす職人だった。
一本気で頑固、無口な彼の性格は、穏やかなシャルナをいつも萎縮させ、恐れさせるのだ。
シャルナは溜息をついた。
これで何度目だろう。
「……せめて、何が悪いか教えてくれよ」
父は何も言わなかった。
教えることは何もない、自分で考えろ、ということである。
シャルナは自分で淹れた茶を飲んだ。
いつもどおり、美味い、と思える茶だった。
「……あの人だって、美味しいねって笑ってくれたのに」
父はシャルナを振り返った。
「そりゃお世辞だ」
シャルナはむっとした
「そんなわけないだろ。お世辞なんていう必要、ないじゃないか」
彼は王太子だった。
シャルナごときに何を気遣うことがあったというのか。
「本当に美味い茶と不味い茶は、飲んだ奴に二の句も告げさせねえ」
「美味いのと不味いのはどう見分けるんだよ」
「飲んだ後ほっとした顔したら美味い茶、嫌な顔すれば不味い茶だ」
シャルナは二度目の溜息をついた。
「……それで、俺、むかついちゃって。思いっきり不味いお茶をだしてやったんです。そしたら、父は何も言えなくなって、それで、ものすっごく嫌な顔して睨んできたんです」
シャルナの呟きは人気のない図書館にむなしく消えた。
目の前には温かな湯気を上げるお茶が二杯。
けれど、シャルナの前に座るものは誰もいなかった。
「俺、どうやっても父に二の句を告げさせないような美味いお茶が淹れられなくて、」
それで。
課題がこなせないから、こうして一人寂しく報告会を開くハメになったのだ。
城の門はとっくに閉じられてしまっていたけれど、シャルナは一応城に在籍する侍官だから、城に入ること自体は簡単なのだ。
けれど、王に、あの少年に会うことはもう、無理かもしれない。
シャルナはこみ上げてくる苦いものを茶と共に飲み込んだ。
「……やあ。またさぼりかい」
シャルナははっと振り向いた。
シャルナの直ぐ側を平然と通った男は、綺麗な赤毛をしていた。
シャルナは口をぱっくりと開けるはめになった。顎がはずれんばかりだった。
もう少年とは言えない年齢になってしまったその男は、しかし、あの時のまま随分と気安い様子だった。
シャルナは急に恥ずかしくなった。
一人で考え込んで、嘆いているなんて。
「さ、ぼってなんか、いません」
「そう」
男はにこりと愛嬌のある笑みをみせ、いくつか分厚い本を選ぶと、そのままきびすを返そうとした。
シャルナはとっさに声をかけていた。
「あ、あの!!」
男はゆっくりと振り返った。
「あの……もう、寂しくないですか」
そうだ。
シャルナはずっとこれが聞きたかったのだ。
王となった男は軽く目を見開き、薄く笑った。
「寂しいよ」
シャルナの胸は締め付けられた。
「けれど、寂しいのは君のせいではないよ。あの時は君に八つ当たりしてしまったけれど、今は分かる。私は君に甘えていたんだ。」
君が私の身分を気にしていたのは、分かっていたのにね。
「変な別れ方をしてしまったから、気になっていたんだ。君が元気そうでよかったよ」
王は穏やかな表情でシャルナを見ていた。
後悔なんて何もない、晴れやかな顔にさえ見えた。
だからシャルナは叫ぶように告げた。
「……会いたかったんです!」
王は今度こそはっきりと目を見開いた。
「……あい、たかったんです。俺、あなたを傷つけたんじゃないかって、ずっと後悔してて。謝って、それで、俺の淹れたお茶を飲んでもらいたくて。でも、でも、俺は平民で、あなたは王様で」
話し出してしまえば、言葉はとめられなかった。
「だから、俺、この大会で父を笑わせたら、あなたに会いに行くつもりだったんです。なのに、俺、全然駄目で。何度も何度も頑張ったのに、全然駄目だったんです。俺、どうしたらいいのか分からなくて」
ただ、あなたにもう一度会えるだけで、よかったのに。
「それも、高望みなんじゃないかって。俺みたいなやつが、王様の側になんか、いけるわけないのに」
シャルナはほとんど泣いていた。
「何度か会って話しただけの、名前も知らない相手に会いたいなんて、どうしてそんなこと思うんだい」
「だって、俺、俺」
あなたが寂しいのは嫌だ。
王は黙って聞いていた。
シャルナはぐずぐずと鼻をすすった。
「……寂しいのは、嫌です。悲しいんです」
「そう、だね」
王は微笑んだのだろうか。
シャルナには分らなかった。
「……俺、できるなら、あなたとお茶会がしたいんです。でも、俺、」
「君、」
シャルナは口をぴたりと閉じた。
王は少し困ったように微笑んで、ことりと首をかしげた。
男には似合わないはずのその仕草も、この王には似合っているように感じた。
「……『君』としか呼べないのは、嫌なことだな。始めからやり直そう。知っていると思うが、私の名前はユーリウス。おしゃべり好きの君の名前を、教えてくれないかな」
シャルナはぐしゃぐしゃになった顔をぬぐった。
「……シャルナ。シャルナ・カバルディア」
王、ユーリウスはにっこりと微笑んだ。
シャルナは泣き腫らした目でじっと自分の掌を見つめた。
いびつな形の花だった。
『祭りはまだ開かれている。正規の期間ではないけれど、せっかく私を見つけてくれたんだ。君にもご褒美をあげなくてはいけないね』
今は絵の具がないけれど、といって王はこの印を描いてくれた。
『……私もね、寂しいのは嫌だよ。だから今、考えていることがある』
そう言った王の目は真剣だった。
真剣に、シャルナを見ていた。
『シャルナ、君が私に会いに来られるように、私は私のなすべきことをする。だから君も、今度はずるなんてしないで、正面から堂々と私に会いにおいで』
シャルナは掌を握り締めた。
今度こそ。
きっと。
『その時に、君の淹れてくれたお茶を頂くよ。そして語らおう。共に、笑おう』
そう言ってくれたあの人のために、最高のお茶を淹れるのだ。




