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ジルベウスはユーリウス王が旅装で城のなかを歩いているのを見た。
時間は夜遅く、旅に出るのに相応しい時間帯ではなかった。
ジルベウスは自分の旅支度を整えていないことに気づいた。
ジルベウスは王の騎士だから、旅にも同行するのが当然である。
けれどユーリウスはジルベウスに何も告げなかった。
彼は軟弱な男一人とか弱い女性一人、後はそこらのごろつき二人だけを伴って、さっさと行ってしまったのである。
ジルベウスは王の後をこっそりつけていくつもりだった。
王の旅路を守るのは騎士である自分しかいないのだから。
「おい、そこの派手な兄ちゃん」
けれど、建物の陰に隠れていたジルベウスはあっさりと見つかった。
騎士であるジルベウスを「兄ちゃん」呼ばわりしたのは、ぼろ雑巾みたいな男だった。
屈辱だった。
「お前は誰だ。私を見つけるなど、ただものではないな」
ぼろ雑巾みたいと、稀代の美しさをもって生れた美青年に評された男は、しかし、後にこう語る。
あんな派手な男が建物の陰からひょっこり顔を覗かせていれば、嫌でも目に入る、と。
「俺は、あー、私は?リュゼです。ちょっとあんたを回収していってくれって頼まれたんだ、ですよ」
妙な言葉遣いの男だった。
「頼まれた? 誰にだ」
「オウサマに」
ジルベウスは目を見開いた。
「お前、陛下を存じているのか。陛下はどちらに行かれたのだ。私もすぐ追わなければ」
リュゼと名乗った男は、詰め寄るジルベウスをうっとおしそうに見ると、ジルベウスの襟首をつかんで、無理やり引きずっていった。
「何をする無礼者! この! 放せ!!」
ジルベウスが鍛えた腕をもってもなお、男の腕ははずせなかった。
リュゼは小さな頃から酒に酔って理性もなく暴れる大の男どもを相手にしてきた。
力強くとも品のよいジルベウスの抵抗は、子猫がじゃれてくるくらいにしか思わなかったのである。
「……私はジルベウス・テディナ・ロンダート! ロンダート伯爵家の次期当主だぞ!!」
家名で脅すなど、そんな卑怯な手は使いたくなかったが、この際仕方がない。
きっと驚いて腕を放すと思った。
しかし、男は表情すら変えなかった。
「それがどうした」
「そっ」
うっかりジルベウスのほうが力を緩めてしまった。
その隙を見逃さず、リュゼはどんどんジルベウスを引きずって、道を戻っていく。
ユーリウスの乗った馬車は、はるか遠くに行ってしまっていた。
「ああ、陛下が行ってしまわれた。何故、私を置いて行かれてしまったのだろう」
ジルベウスの呟きをリュゼは聞いていた。
「あいつは必要だと思えばそう言う、ます。ついてこいって言われなかったんだったら、お前は必要なかったんだ、です」
ジルベウスはこの世の全ての不幸を受け止めた気がした。
「陛下には私が必要なはずなのに。私は陛下の騎士なのだから」
「あんたが陛下とやらの騎士でも、陛下にとってあんたは騎士じゃないんだろ」
リュゼは面倒になって適当に答えた。
しかし、それは奇しくも、ジルベウスがユーリウスから直接告げられたことでもあった。
ジルベウスはさらに気落ちした。
「陛下は私のどこが気にくわないというのだろう」
ジルベウスの独り言に、男はちらっとジルベウスを見たようだ。
「あんた自己中そうだしな。あいつはそういうの、嫌いだよ」
「……自己中、」
「あんた、自分があいつについていきたいから追いかけるつもりなんだろ。そういうの一番迷惑だ」
リュゼはきっぱりと告げた。
ジルベウスは抵抗する気も失せて、ただ引きずられていくまま尋ねた。
「……お前、一体陛下の何なんだ」
「俺はユーリウスの親友だ。陛下なんて、知らねぇな」
ジルベウスは男の鋭い瞳に怯えた。
粗野で、荒々しい目だった。ジルベウスには持ち得ない、野性的な強さにあふれる目だった。
男は毅然とした態度でジルベウスを睥睨していたのだ。
それが、二年前のできごとだった。
ジルベウスは王都に戻ってきていた。
王都は人にあふれ、活気に満ちていた。
ジルベウスはその理由を知っていた。
知っているからこそ、ジルベウスはあの男を探している。
あのぼろ雑巾みたいな、リュゼと名乗った男を。
男は薄汚い路地裏で、同じく薄汚い連中と笑いあっていた。
ジルベウスがわざと靴音を鳴らして近づけば、はっと顔をあげた。
「あんた、あん時の」
「リュゼとやら、剣を取れ。私と勝負だ」
「はあ?」
「知らぬとは言わせない。今回のこの祭り、武の部門の課題は『自分が一番強いと思うものに勝負を挑み、勝つこと』だ。私はお前に勝った暁には、陛下にお会いするのだ」
この男の目をジルベウスはただの一度だって忘れたことはない。
ユーリウスを親友だと言ってのけたこの男の目には、けれど、絶対的な服従を見た。
王であるユーリウスに全てを捧げても構わないと、そう思っている目だった。
それはかねてからジルベウスが憧れていた、騎士の目だった。
きっとこの男は、ユーリウスの喜びを己の喜びと思い、ユーリウスの悲しみを己の悲しみと思い、その憂いを払うために努力を惜しまない男だ。
そんな大それたことを、息をするよりも簡単にこなしてみせる。
「……それは、まあ、知ってるけどさ。それで何で俺と勝負になるんだ」
連中にはやし立てられながら、ぼさぼさの頭をかきむしった男は、ジルベルスから視線をそらした。
「私は知っている。お前が陛下がいない間に、そして今まさにしていることを」
リュゼはかっと目を見開いて、ジルベウスを睨んだ。
あの目だった。
「あんた、それ、誰かに言ったのか」
「言うわけない。私は王の騎士になる男だ。誰よりも王に忠実な」
リュゼはジルベウスの言葉を全く信用していないようだった。
リュゼはふんと鼻をならした。
「俺もあんたのこと、知ってるぜ。没落伯爵家の夢見がちなお坊ちゃん、あんたの騎士ごっこに付きあうなんて、真っ平ごめんだね」
ジルベウスは剣の柄を握りこんだ。
「我が名はジルベウス。ただのジルベウスだ。私はこの国の王の、一番の騎士となる。遊びかどうか、その身をもって確かめよ」
ジルベウスは剣を抜いた。
リュゼは流石に顔色を変えた。
「決闘だ!!」
ユーリウスは東の庭園の隅に設けられた東屋に佇んでいた。
「……そういえば君は私を見つける達人だったね」
ジルベウスはユーリウスの目の前に膝をつき、視線を合わせた。
ユーリウスは柵に片腕をおき、その上に頭をのせたまま、ジルベウスを見下ろしていた。
「私は陛下の騎士ですから。いつでも陛下のお側に参ります」
ユーリウスは目を細めた。
「それにしては、随分姿を見なかったように思うけれど」
「申し訳ありません、陛下。少しやるべきことがあったので」
ユーリウスは続きを促すように瞬いた。
ジルベウスは静かな声で語り始めた。
「二年前、陛下が城を発たれてすぐ、わたくしも城を発ちました。そしてロンダート伯爵家に向かい、ロンダート伯爵家から籍を抜きました。今はただのジルベウスとして陛下のご尊顔を拝しております」
「……聞いているよ。伯爵家の跡継ぎが次男のラディウスに変更されていた」
ユーリウスは短く切り取られたジルベウスの髪を見ているようだった。
ジルベウスは苦笑した。
「その後は、陛下らしき人が現れたという情報をもとに各地を転々としておりました。金銭が足りませんでしたので、身につけていたものを、宝石を、髪を売りました」
「……そう。君の髪の毛はきっと高く売れたことだろうね。美しい色をしていた」
「いいえ、陛下。わたくしの髪など二束三文の価値しかないものでした。きっとわたくし自身も、その程度のものなのでしょう」
たくさんのことを経験した。
そして知ったのだ。学んだのだ。
「陛下、あなたが開いたお祭りを口実に、ただのジルベウスが陛下に会う機会を得ることができました。感謝しております」
「武の部門の課題の相手に選んだのは、リュゼ?」
「ご存知でしたか」
軽く目を見張ったジルベウスに、ユーリウスが穏やかに微笑みかけた。
「彼は私に必要な人だ。殺してなんか、いないだろうね」
それがユーリウスの冗談だと分ったから、ジルベウスは笑った。
「相手が「まいった」というなら、剣を下げるのが礼儀です」
ユーリウスは一度瞬き、声を上げて笑った。
「そうだね。君は美しく気高く、そして礼節ある騎士だ」
ジルベウスは眉を下げた。
「陛下、」
ユーリウスはじっとジルベウスを見ていた。
ジルベウスはひざまずいたまま彼の空いた手をとり、その手に唇で触れた。
「わたくし、ジルベウスは、きっとあなたに相応しい騎士になってみせます。どうか、わたくしをあなたの騎士と認めてくださいませんか」
ユーリウスは沈黙していた。
ジルベウスは視線をそらさなかった。
ユーリウスはジルベウスのその目に、何を見たのだろうか。
ふっと笑みをこぼした。
情けなく眉が下がった、威厳の欠片もない笑みだった。
「ジルベウス、私はね、君の忠誠に相応しい王になれるか分からないよ」
「陛下、わたくしは知っております。陛下が何をなさりたくて、このような祭りを開いたのか。その本当の目的を」
それを知っていて、何故、あなたがこの国の王たりえないと思うことがありましょうか。
ユーリウスはますます眉を下げた。
「……私は本当に”王”から逃げられなくなってしまったね」
ユーリウスの呟きは小さすぎて、ジルベウスには聞き取れなかった。
ジルベウスが尋ね返そうとしたとき、ユーリウスは穏やかな笑みを見せた。
「ジルベウス、私は君を認め、君の忠誠を受け止める覚悟をしよう。君は私に忠実な騎士となり、私に振りかかるすべての災厄を防ぐ盾となれ」
「我が君の、仰せのままに」
ジルベウスの体の中心に鮮やかな花が咲いた。
彼の主が彼の忠誠に応えて描いてくれたものだった。
服を着たら見えなくなるそれは、けれど、ずっとジルベウスの心に咲く花となる。
ジルベウスは直感していた。




