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ユーリウス王は才能や優秀さといったものとはまるで無縁だったと私は想像する。
彼が王位についた後最初の十年間は、フロテティーナはまだ混乱と腐敗の最中にあったため、公式な記録がほとんど残っていない。かの国が比較的正常な形で機能しだし、かろうじて「公式」という言葉を使うことが許される記録が出てきたのはフロテティーナ暦273年である。その頃にはすでにユーリウス王の周りには優れた側近たちがいたようであった。
記録に残る偉大な議案や法律は彼自身の手によるものではなく、殆んど彼の側近が実現したものである。それは公式の記録を見れば分るとおりの事実だ。そうであるからして、私は世間で言われるほど彼は才ある王ではなかったと考えるのである。しかし、彼の人を見る目だけは確かなようで、彼を支える人材は豊富であった。王は平民とともに育ったためか、人の能力を見定めるとき、身分の貧賤はもちろんのこと、男女の別さえ気にしなかったようである。その徹底した実力主義こそが要だったのだ。
不思議なのは、それらの優れた人物をどうやって見つけ出し、自らの側近におさめたのかということと、そして、彼ら自身が何故自分たちより能力的に数段劣っているはずのユーリウス王を心から敬い、彼に忠誠の限りをつくしていたのかということである。
彼の宰相を務めていたケルディナ侯爵は、かつての日々を思って書き著した私記でこう述べている。
『陛下は私の想像を軽々と超えていく人であった。私は駄目な王だからと口癖のように言いながら、それでも、何か深い考えを心に秘めているのではないかと思わずにいられないのである。
陛下はただじっと私を見つめるだけである。しかし、私はその目に見つめられることに淡い恍惚と少しばかりの恐怖を覚えていた。陛下の願いを叶えることができるのは自分だけだと錯覚させるような、強い期待と信頼が見え隠れする目であった。陛下の目が私を写さなくなり、私の名を呼ぶことがなくなれば、私はきっと立ち直れないとさえ思った。私は常にその恐怖をすぐ身近に感じていた。なぜなら我が陛下の側は陛下に心から仕えるものたちであふれており、陛下もまた私に向けるその目と全く同じ目を彼らにも向けていたためである。』
フロテティーナの行政をその一身に任されていたケルディナ侯爵にこうまで言わしめたユーリウス王は一体どんな人物だったのだろうと、彼の人柄そのものに思いをはせる今日この頃である。
(ペリエ大学教授キルティの随筆『フロテティーナの国花に愛を』「ユーリウス王」より抜粋)
リティニウスは一瞬目を見張った。
王座にゆったりと腰掛け、じっと会議の始まりを待つ男がいた。
彼はリティニウスの記憶よりずっと大人びた顔立ちになり、背も伸びていた。
一体いつの間に戻っていたのか。
約二年の間全国を巡る旅に出ていたこの国の王は、信じられないほどさりげなく日常に戻ってきたようだった。
リティニウスは彼の存在にふれることなく、いつもどおり会議を進行していた。
そして、会議も終わりというその頃、リティニウスは王を見上げた。
「陛下、何か我々に言うべきことがあるのでは」
リティニウスは彼に謝罪を求めるつもりでこう尋ねたのだ。
王である自分が城を空けて申し訳なかったと一言言い、かつてのように、リティニウスの決めたことにただ頷いてくれればよかったのである。
しかし、彼の口から紡がれた言葉は、リティニウスを、そして会議に参加する貴族たちを驚愕せしめたのである。
「私から君たちに直接伝えてはいなかったけれど、デュルベ公爵やケルディナ侯爵から話を聞いたものはいるかな。私は二年ほど旅に出て、一昨日この城に戻ってきたんだ」
王の言葉は広間の静寂のなかに響いた。
「私の信頼するものが報告してくれたところによると、この城には全く変わった様子がないとのことだったね。結構なことだ」
信頼するもの、という王の言葉に、リティニウスは皆からの視線を感じた。
探るような目だったが、リティニウスにも心当たりのないことだった。
「ところで、私の旅は有意義なものだったよ。上手く隠れながらあちこちを見学したから、誰も私に気づかなかったし、なかなか興味深いものもたくさん見ることができた」
王は頬杖をついたままの気だるげな様子で、静かに語りかけていた。
幾人もの貴族が微妙な顔で沈黙し、王の視線から逃げるように顔をそらしていた。
「けれど民たちの顔は優れなくてね。きっと花もち内乱の影響を受けた余波だろうね。みんな不安で不安で仕方がないんだ」
神妙な声音だった。
ただ淡く微笑んだ表情しか知らなかったリティニウスや貴族たちはその冷めた表情にひどく驚いた。
「ねえ君たち。花もち内乱は落ち着いたと私は聞いているよ。どうかな、思うところを言ってくれ」
「それは、もちろんでございます、陛下。何ごとも全て、ええ、滞りなく」
脂汗を拭きながら答えた中年の男に、王は鷹揚に頷いてみせた。
「なるほどね。万事抜かりなく、というのなら、何故、彼らはあんな顔をしていたのかな」
独り言のように呟く王は、尋ねていながらも、返事は期待していなかったようだ。
「やはり何か気分転換ができることをやりたいものだね」
「陛下、民たちがどうだというのですか。あれらは常に陰気で卑屈な様子ですし、国を憂うような頭があるとも思いませんが」
発言したのはどこかの男爵だった。
王はゆるりと瞳を動かした。
「国を憂うことはなくても、自分の生活は憂うだろう。彼らも我々と同じ命ある存在だ。自分の命さえ危ういと思うなら、卑屈にもなる」
「それは、しかし、陛下が気になさるようなことでは」
「何故」
王の表情は気だるげで、むしろ安穏とした空気さえまとっていたけれど、その声は鋭く響いた。
「何故、私が気にしてはならないのかな」
私はこの国の王で、君たちと同じようにこの国を未来を考えるものだ。
「民のいない国は国ではない。少なくともここを国だと公言するなら、民のことを考えるのは当然の義務だ」
王の言葉はじんわりと広間に染み渡った。
誰も声を発することはできなかった。
「私は政に明るいわけではないから、優れた政治家である君たちに聞こう。内乱が終わり、この国が安定に向かっているならば、それを民に示すべきだと私は思う。それは間違いかな」
「いいえ、陛下。間違いではありません。わたくしが幾ばくかの褒美を用意いたします。陛下のお心遣い、民たちはきっと」
「それには及ばないよ、ケルディナ侯爵」
王はリティニウスを見もしなかった。
リティニウスは唖然とした。
王はただ一度だってリティニウスの言葉に頷かなかったことはない。
「私にも少し考えがあってね」
王は秘密の宝箱を開けるような楽しげな声で囁いた。
「私はね、内乱が終わったお祝いに、各地でちょっとしたお祭りを開催しようと思っているんだよ」
リティニウスは馬鹿みたいに口を開けたまま固まることになった。




