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テドレナール侯爵領はフロテティーナ王国北東の国境沿いに広がる大領地である。
花もち内乱の際、テドレナール侯爵は、花もちとしては二番目に生れた第三王子を支持しており、彼が処刑された次の日、獄中で自殺した。そのため、現在テドレナール侯爵領は領主不在で、治安の悪化、土地の荒廃、人口の減少という三重苦を抱えているのである。
無作為に広がる田畑を横目に、ユーリウスの馬車はテドレナール侯爵領の東端、隣国と接する村を目指していた。マリアの実家であるキシニア男爵家が維持・監督している土地である。
フロテティーナの地方行政は各領地の領主の采配にまかされており、領地をもたない子爵、男爵が領主である公爵、侯爵、伯爵の指示のもと各村各町を治めているのが現状なのだ。
久々に両親の顔を見たいというマリアの要望をユーリウスは、急ぐ旅でもないから、と快諾した。
侍女ごときのために、とベルは反対したが、女性の身でこの旅に同行するマリアの苦労に報いたいとユーリウスが言えば、しぶしぶ承諾した。
「あれがわたくしの実家です」
マリアが指した家は、男爵家の邸宅というにはあまりに粗野で、大きな倉庫といった様子だった。
庭――といってもただ草を刈り取って、土をならしただけのもだったが――の正面には何の変哲もない金髪碧眼の男が無表情に立っていた。
マリアの兄だというその男に部屋に通されたユーリウスは、そこでキシニア男爵の挨拶を受けた。
キシニア男爵は大柄で、毛むくじゃらだった。
もごもごと訛った言葉遣いでありきたりな挨拶を述べたキシニア男爵は、何故か、部屋の傍らに無造作に置いてあった斧を手に、どこかに出かけていってしまった。
「父は狩にいったんでさぁ。あなたにたんと食べてもらうって」
マリアの兄はそう説明してくれた。
ユーリウスは微笑んで、礼を述べた。
そしてその夜はささやかな宴会が開かれたのである。
給仕をしてくれる初老の女はきっとキニシア男爵夫人なのだろう。ふくよかというよりごつい女だった。
ユーリウスはついマリアとその兄と女と、そしてキニシア男爵を見比べた。
「ユーリウス様は見聞の旅とやらの最中なんですとな」
キニシア男爵だった。ユーリウスは頷いた。
「こんな辺鄙なところ、何も見るものもないでしょうに」
口を挟んだのは女だった。不思議と耳障りの良い声だったが、どこか卑屈に聞こえた。
「いんや、これよりもっと東には、ええもんがあるでさあ」
「これより東というと、もう国境しかないと思うけど」
ベルは訝しげな顔で男爵を見ていた。
「はい、はい。国境でさ。この国に生まれちまったら、国境は見ねえと駄目で」
彼の言い回しは妙だった。
「しかし、国境付近というと死人族が襲ってくるかもしれないだろう」
ベルは嫌そうな顔をしてみせた。
ベルは頭と愛想は良かったが、こと荒事となると滅法弱く、この旅の間も荒くれ者に絡まれたら、守るべき存在であるユーリウスの陰に真っ先に隠れるほどだった。
死人族とはどの国にも属さない者の総称だ。
昔この大陸で猛威を振るった遊牧民の末裔らしいが、最近では税を払うことができず、村や国を追い出された者や逃亡奴隷を指してこう呼んでいるのである。国に属せぬものは人に非ずという思想のもと、差別対象となっているのである。
彼らは各地を転々と渡り歩きながら村や人を無差別に襲い、略奪を繰り返す恐るべき存在だと聞く。
「こんあたりに、死人族なんて、はて、いましたかな」
キニシア男爵は小さな声でもごもごと呟いた。
彼の髪と髭の奥で小さく光る青い瞳はユーリウスを真っ直ぐ見ていた。
充分な食事と睡眠をとることができたユーリウス一行は、まだ薄暗い朝霧の中を旅立つことにした。
マリアは母親と抱擁を交わしているようだった。
ユーリウスは御者に告げた。
「東に行ってくれるかな」
ベルは深いため息をついた。
朝日は東の空にじっとたたずんでいた。
昔はそれなりの村があったという痕跡を僅かに残したその土地は、すっかり雑草に覆われて、どこが道だか分らなくなっていた。
馬車が通れなくなると、ユーリウスはベルだけをつれて、徒歩で村を散策することにした。
「ここから先はフロテティーナじゃないみたいですよ」
草の根をかき分けたベルは、国境を示す印を見ながら言った。
「国境か。確か兵士の駐屯所があったはずだけど。見る影もないね」
「フロテティーナは近い将来自滅というのがこの大陸での共通認識みたいですし、帝国が見張っている以上、近隣諸国はフロテティーナに手は出さないと思いますよ」
「国防が云々というよりも、兵士はどこにいったのかな。一応、国軍扱いなのだけれど」
「とっくに死んだか、逃げたかしたんでしょうね。このあたりの様子からしてみれば」
ベルは肩をすくめた。
ふと視界の隅を何かが動いたような気がした。
ユーリウスが訝しげにあたりを見渡せば、ごん、どさ、という鈍い音が続けざまに響いた。
ユーリウスの足元でベルが頭を血を流していた。
そして、ユーリウスは自分めがけて振り下ろされる棒を見た。
それを受け止めたのはキルキラだった。
ユーリウスはかすかに目を見開いた。
帝国の精鋭暗部たちのなかでは下っ端扱いされていたとはいえ、フロテティーナの貴族騎士では姿を追うことさえ出来ないと思われるキルキアの鋭い一閃を、少年は軽やかにかわしてみせたのである。
そして少年は果敢にもキルキアに向かって突撃した。
キルキアは目を細めたようだった。
次の瞬間には少年の右腕からばきとかごきとかいう種類の嫌な音がした。
ユーリウスは人間の腕がありえない方向に曲がる瞬間を目撃し、自分の腕を痛そうにさすった。
少年は折れた腕をさらにひねり上げられながら、地面に押さえつけられていた。
それでもうめき声ひとつもらさず、鋭くユーリウスを睨み付けていた。
ユーリウスは少年を見下ろしながら、その視線をじっと受け止めた。




