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水泡の夢  作者: 石井鶫子
序章 流転
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 ……母に皇子の話は出来なかった。

ただ、彼は魔導の一件を掻い摘んで説明し、未来に渡って危険の目があることだけを母に告げた。

母の決断はそれまでと同じく早い。

制服や鞄や本などの日常使っていた品は殆どそのままに、身の回りの最低限のものだけを鞄に詰め込んでいく。


 5年前のあの夜よりは時間に余裕があるのは確かだった。母は預けて置いた現金と宝石を引き出しに出かけていく。

この戸籍ももう、使えない。

この国を離れた方が良さそうだと母は言っていたし、それには彼も賛同した。

他国へ紛れ込んでしまえば少しはましだろう。


夕暮れの中を女装のままで彼は母の帰ってくるのをぼんやりと待つ。

駄目だと思った瞬間に諦めてしまう自分の性癖を、少しばかり悲しいと思いながら。


 彼は張り出し窓にもたれながら、次第に暗くなってくる路地を見つめる。


――裏町の少年王を決めるための勝負はそろそろ刻限のはずだ。本当ならどこかで自分はそれを見物していただろうに。

 奴に教えてやろうか。

 そんな考えが彼の脳裏に浮かんでくるのを沈め、沈めてはまた発見し、それを繰り返して彼は溜息になった。

 鏡に映る自分はやはり女装姿、これから先の町々でもこんな事に繰り返しになるのだろう。


(このままでは君は、とてつもなく不幸になるよ)


 皇子の言いたいことは分かる。

 どんなに親しくても自分自身を全て預ける相手を持てなければ、それは不幸だ。他人の好意という海の中で、信頼が掴めなくて溺れ死ぬ。


 彼はまた溜息になる。

 あの男に話した以上の秘密を抱え込んでしまったとはいえ、彼にとっては男こそが信頼を預けた相手といえるのかも知れなかった。

 多量に結果論的なものを含んではいても、自分の秘密を見せたのは事実だ。


 男は……死ぬだろうか。 

 どちらでもいいと言うような投げやりさだった男の態度を思い返すにつけ、そうなるだろうという確信が上がってくる。

 男の一番の従者だった少年も、そうなれば生きていられないかも知れない。


 少年たちは徒党を組んで相争うことに血道を上げており、人を殺すことなど少しも躊躇わない。

 男の寵臣であった者たちは揃って死を迎えるだろう。

 残酷で激しい死を。


 彼は顔を歪める。

 裏町での日々は楽しかった。

 彼にとっていつか再び会いたいと思う相手がいるとすればあの連中だ。学院の級友たちでも、優しい皇子でもない。

 還る場所をみすみす失うのか、俺は。


 窓の外は、次第に濃い夕闇。

 彼は目をすがめる。藍色の空に消えていく、日の名残……


 彼は跳ねるように背を起こした。飛ぶようにアパートの螺旋階段を駆け下り、表へ飛び出す。

 間に合うだろうか。

 男に怒りと、決闘の相手に対する憎悪を呼び、ひいては勝利を確約する魔法を、彼は知っているのだった。


 裏町の根城へ近付いていくと、通りは静かだった。

 不気味なほどの静寂が汚い町並みに沈殿している。

 いつもここを通って男の根城へ行くとき感じた刺さるような視線もない。全員が息を潜めて成り行きを待っているのだ。

 彼は男が根城にしていた古い屋敷へ駆け込む。丁度顔見知りの少年が、廊下を歩いてくるのが見えた。


「あれ、どうしたんだよ? 出入り禁止って言われたんじゃなかったっけ?」

 不思議そうな少年に構わず、彼は男の足取りを聞く。

 回答だけを頭に叩き込んで、来たときと同じくらい迅速に、全力で駆け出した。

 背後で少年がどうしたんだよと叫んでいるが、子細を話している時間も、少年に構っている時間もなかった。


 少年に教えられた道筋を駆けていくと、やがて見慣れた背中が見えた。

 男の名を呼びながら彼は男を追う。振り返ってくれないのは男が無視を決め込んでいるからだ。

 畜生、と顔を歪めるが、それは苦笑に似ていた。


「もう来るなと言ったはずだ」

 男の声は僅かに低い。

 彼は少し笑って苦しい呼吸を整えるために膝に手を当てた。その脇を男がすり抜けていく。

 慌てて前に回り込むと、男が心底つまらなそうな顔をした。


「もう来るな」

「分かってるよ」


 男は眉を寄せる。分かっているものかという言葉が出る前に、彼は自分の切り札を示す。

 ――即ち、少年王の死の真相を。


 男の反応は顕著だった。

 僅かな時間の呆然を抜けると、そこにあったのは全てを焼き尽くすような怒りだった。

 肌は夕暮れの中でも分かるほど青白い。怒りのあまりに青ざめているのだ。


 彼は男の端整な顔立ちを見つめる。今まで彼が接してきた無気力感や厭世観などは剥げ落ちて、男の煮える憎悪が青白い燐光になる気さえした。

 背が冷える。圧倒的な威圧の前に、彼は暫くそれを見つめていた。


 男は目を閉じる。何か呟いたが分からない。

 喉が干上がったように痛くて、どうしたのかは聞けなかった。


 男は笑っているようだった。

 嬉しくてたまらないというように喉を鳴らし、それが声になって溢れてくるまで幾らもなかった。

 真実男は歓喜している。自分の手で、崇拝していた少年王の敵を殺し、八つ裂き、死と、死より深い苦痛を与えることが出来るのだと狂喜しているのだ。


「礼を言う」

 男が笑いながら言った。

 彼の秘密の替わりに俺の勝つところを見せてやろうとも言い、陶然と笑っている。

 出入り禁止も同時に解かれた。


 男は自分の勝利を信じている。彼が男の元にこれからも通うことが出来るということは、男がこの決闘に勝つということであった。


 彼は寂しく笑った。

 欲しかったものが手にはいるのに、それを棄てて行かなくてはいけないから。

 けれど、それはいつかまたこの街に足を踏み入れても良いのだという希望にすげ替えようと思いながら彼は淡々と、転居することを伝えた。


 もう家に帰らなくてはいけない時間だった。

 母もそろそろ戻ってくる。自分が家にいなければそれは心配するだろうから。


「そうか、だが、何かあって俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ。借りは必ず清算する」


 男の言葉が沁みるほど、嬉しかった。


「また、いつかね」


 それを言えるということも、何より貴重だった。


「俺、あんたたちといて楽しかった。本当に、楽しかった。とても」

 彼は言って、手を差し出した。

 握り返された手のぬくみ。それが手から消えない内に彼は背を返し、未練と過去となるべきものから走り去った。


 ―――男の名はライアン・ロゥ。

 彼の人生の中において、避けては通れない共棲者であり罪の理解者であり、最大の敵と最良の下僕の全てを兼ねる男、……いずれ。




 そしてそれから3年を、流浪しながら彼はほぼ平穏に過ごす。

 簡単な魔導を施した硝子玉や母の手刺繍などを売りながら旅を歩き、その時の売り物によって性別を適当に振り替えた。


 背が伸び、声が低くなってもそれは続いた。

 魔導の修練を続けていた彼は声音を使うことが難しくなかった。襟の詰まった服を着て薄化粧をして微笑みながら男相手に飾り釦を、化粧を落としてすらりとした体格のままに人懐こく笑いながら女相手に小物を売っていくことが、彼は決して嫌いでなかった。


 永遠にこんな日々が続くと思っていたのは幼い証拠なのだろうか。


 母が倒れたとき、彼はそんなことを思った。

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