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水泡の夢  作者: 石井鶫子
序章 流転
6/43

 彼は不機嫌だった。

 今日から再び、刺激も何もない退屈きわまる日常が始まる。

 学舎の中では「可憐で華奢で聡明な美少女」となっているから一挙手一投足まで気を遣いひたすらに少女らしい仕種や表情を心がけているが、それも裏町で奔放に楽しんでいたときに比べれば味気ない、砂のようなものだ。

 身に染みついている動作だからそう違和感はないだろうが、どんな時にも自分のまとう表面が気になる辺り、習慣というのは恐ろしいものだった。


 そんなことを思って微かに溜息になる。

 そうすると、隣に座っていた少年が彼を見た。何でもないわと笑ってみせると微かに頬を赤らめて俯く。


 ――あー……やってらんねー……


 うんざりという表情を今ここで出来ればどれだけ爽快だろうかと、彼はそんなことを考える。

 また面白くもない一日が始まるのだと思いながら鞄の中から本やノートを取りだしていた彼の耳に、教室の扉が開く音が聞こえた。


 各科目は運動科目以外は個人の進行の度合いによって特科・上級・中級・初級に分かれているが、同じ学年ごとの行事などもあるために朝の最初の時間は学年講義ということになっている。

 ほとんどは、教師の訓示やら成績の伝達やらに使われているが。


 ざわめきが聞こえたときも、そう気にせずに彼は本の背表紙についた汚れを取ることに熱中していた。

 どうやら新入生らしい。

 年次の途中での新入生は非常に珍しかったが、そういうこともあるだろう。


 だが、級友たちのさざ波は少しも収まらなかった。

 肌にちくりちくりと突き刺さるように視線が向いてきて、彼は居心地悪く顔を上げる。

 級友たちのほぼ半数は彼を見て、残りの半数は教師の方を向いていた。


 彼は怪訝に横を見る。隣の級友はぽかんとした顔で前を見ており、彼の視線に気付いたらしくふと横を向いた。

 深い井戸に投げた石の音が、数瞬遅れて響くように。

 級友の顔に驚愕と呆然の混濁された色が立ち現れてくる。その視線が吸われるように前へ戻ったことで、つられて彼も教壇を見た。


 まず目に入ったのは、射し込む日に輝き返す瑠璃色だった。僅かに遅れてそれが他人の髪であることに気付く。


 心臓が僅かに……止、ま、る―――


 彼は唇を僅かに開き、そして身動きをやめた。同じ顔。


 自分と、全く同じ顔をした少年が、そこにいた。

 髪を染める前に鏡を覗けば現れる自分と、全く同じ顔立ち、同じ髪色、同じ瞳色。頬の形や肌の色味、背格好までほぼ同じだ。

 教室全体が揺らめくように囁きが行き交うのも無理はなかった。

 彼は髪を黒く染めて化粧をし、やや眉の形や睫の長さなどをいじって少女に近く自分を擬態しているが、鏡に映したように自分たちは似ている。

 染め粉を落として衣装を変えれば、誰も気付かないかもしれない。


 そうでなくても彼も、そしてこの少年も類い希な美貌の持ち主であった。

 似通った系統の正統派の麗質が2人もいるならば、確かに話題には十分といえた。


「リュースといいます。よろしく」

 やや平板な声は多少違って聞こえるが、自分の声というものは案外自身では認識しにくいということは知っている。

 彼の声を聞いたことのある人間なら声も同じだというかも知れない。

 少なくとも、骨格が似ていることで、ある程度の近似はあると予想は出来た。


 スカートの下で震えている膝に彼は不意に気付き、片手でそれを押さえ込んだ。


 なんだ、これは。


(中央中等だけは駄目)


 母さん、どういうことだよ?


(あそこでなかったら、どこでも好きなところへ行っていいから)


 こういうことなのか? だから駄目なのか?


 教師の指示で彼の隣に腰を下ろした少年は、教室内の私語の波など聞こえないように平然とノートを取りだしている。

 整いすぎるほど端正な横顔。一瞬目を奪うような美貌。

 こんなものが、自分以外にいたなんて……!


 彼の視線に少年は気付いたようだった。

 ふと顔を向けて仄かに笑う。こうした他人の反応になれている笑みだった。


 彼はそれに気の抜けるような安堵を感じてゆるく笑った。

 気を揉んでも仕方がない。それよりも少年に近付けば、自分の知らなかった回答が沢山転がっているかも知れない……

 その考えが彼を更に笑みにした。母は15才になったらと期限をつけてしまったが、それ以前に彼が真実にたどり着くことが出来れば尚更だった。


 ノートの端に(よろしく)と書き付けると、少年が微笑みながら頷いた。


(珍しいわね、中途学年に編入するなんて)


 教室の中のさざめきは収まっていない。

 彼が声を発しないことで、少年は口がきけないのだと了承したようだった。悪戯っぽく笑って彼の手口を真似、彼の落書きの下に書き連ねる。


(典礼行事が重なって、入学試験を受けられなかったから。でも10才になったらここへ行くように、父上からも言われていたし。本当は初学年からなんだけど試験の成績が良かったらしくて、この級でいいだろうって)

(同じ年なのね)


 何か、ぞろりざわめくものに手が触れたように、心が粟立つ。


(そうなの? 君は少し年上かと思った)

(誕生日は?)

(秋の初め頃)

 爆弾だった。


 目の前が白くなった気がした。一瞬焦点が戻らない。

 彼は目を押さえた。痛い。頭が痛い。亀裂が入って割れていきそうだ。


「大丈夫?」

 のぞき込んでくる少年に首を振り、ふらりと彼は立ち上がった。

 気分が悪い。

 彼が思わずよろめいたのを、少年が腕を掴んで座らせる。青ざめているのも確かなのだろう、級友たちが彼を見て救護室へと付き添った。


 救護室の簡易寝台の上で毛布にくるまりながら、彼は目を閉じる。

 寒い。とても。

 誕生日は近い。もしかしたら、それも同一かも知れなかった。


 それに……名前。リュースと聞こえた。

 それが確かなら、更に眩暈のするような事実に向き合わざるを得ない。名前の最初の綴りを一文字変えるだけで、その名は別の響きに生まれ変わるのだ。

 一度だけ呼ばれた、あの名前。


(カース様でいらっしゃいますね? ああ、本当によく似ておられる……)


 多分。何かがある。


 彼は毛布をかぶったままで必死に考える。

 まずは少年に近しくなることからで、今まで以上に全てに置いて完璧に少女たらなくてはいけない。

 顔立ちは誤魔化せる。戸籍上の誕生日は重なっていないし、名前も少女らしい偽名だから問題ない。

 学年講義以外の授業は重ならないだろうからそれも安全弁の一つになるだろう。


 必死で自分の足下を確かめる作業をしているのが可笑しかった。

 彼が皮肉に頬を歪めながら考えに耽っていると、救護室の扉が軋んだ。級友が彼の鞄に荷物をまとめてきてくれたのだった。

 虚弱と言うほど弱くもないが、壮健といってしまうには根が弱い彼の体質のせいで、これまでも何度か早退している。珍しいことではなかったのだ。


 口々に彼を気遣う言葉も慣れている。適当にあしらいながら、彼は額に浮いた汗を丁寧にぬぐって笑って見せた。


(少し気分が落ち着いたら自分で判断するから。ありがとう、みんな)

 彼の申し出に級友たちはほっとしたように一様に頷く。


「殿下となにか喋ってたと思ったら急に倒れるからびっくりしたよ」

 彼が落書きのように筆記で雑談することをみな、「喋る」と表現しているのだった。

(殿下?)


 彼は怪訝に聞き返す。

「さっきの彼だよ。本当はほら、初学年への編入のはずだったけど、編入試験が満点で……――」

 彼は目を閉じる。他の言葉は耳に入らない。

 殿下。それは皇族に与えられる呼称だったからだ。


 麻痺したように、呼吸が出来ない。

 沢山の情報を一息に手に入れてどうにかなってしまったのだろう。

 無口になってしまった彼が、まだ本調子でないと思ったのだろう。級友たちはゆっくり寝ていればいいといたわって出ていく。

 そろそろ授業が始まることもあるだろう。


 彼は静かになった救護室で、深く、呼吸をする。

 皇族の構成などそれまで興味がなかったから、最低限のことしか彼は知らない。

 皇族と呼ばれる範囲は非常に狭い。今上帝を中心にして下は孫まで、女性は降嫁が前提となり、男性は特殊な場合を除いて臣籍降下が当然だ。

 今上皇帝の2人の正妃とその子供たちくらいしか今はいなかったはずだと彼は一人頷く。


 皇子たちは4人。2人の正妃から謀ったように2人づつだ。

 正妃が2人いるのは慣例で、ここ100年ほどは国の重鎮である2大公家から排出されている。

 誰がどうというのは分からないが、これはいくらでも調べる方法があるだろう。

 昔と違って今は皇室も民衆の前に出るようになってきているから、写真くらいはあるかもしれない。


 彼はうっすらと笑う。

 そう、自分を皇帝の落胤で5人目の皇子だと考えると全ての辻褄はぴたりと合うのだ。


(あれのことはマリアとお呼びになりますよう)

(それが身分というものであるからです)


 この言葉も、そして今彼の前に現れた皇子と自分がうり二つであることも。


(お前の母親は私よ。私一人よ。お前は私の子よ、私の子なのよ……)


 あの母の言葉は虚偽か。真実か。

 多分、……嘘だ。彼は顔を歪める。


 何故なら皇帝の庶子であるなら皇族とはいえず、継承権なども発生しないからだ。

 自分が真実母マリアの実子であるなら皇帝の庶子であり、これは母親の出自に準じることになっている。

 あの夜彼を連れにきた男の主人が誰であったのかはまだ分からないが、彼に皇族としての価値がなければ追っ手もかからないし、これほど何かを警戒しながら暮らさなくても良いはずなのだ。


 彼は毛布の下で涙をかみ殺した。

 これは母にはいえないことであった。自分を真実産んだか否かはさておいて、今まで自分を守り、十分に愛し慈しんでくれたという意味に置いて、母親でなくとも母は彼女一人だった。


 彼は溜息になった。

 今日は母の顔を、見たくない。

 ひどく、心苦しくて……悲しかった。

 ほんの一日前から、沢山の物がまた自分の手から零れて、深淵の闇の中へ落ちていくのが見えた気がした。

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