5
どれくらい呆然としてしまったのか、彼には分からなかった。
あるいは、そう長い間でなかったかも知れない。
だが、自失というものを味わうのに時間は関係なかった。
「違う……」
呻いた声が、低い。彼は膝が微かに笑い出しているのに気付く。
いきなり胸の真奥を強かに撲たれて倒れそうだ……
男はどこまでも淡々とした声で言った。
「違うなら水をかぶって見せろ」
答える言葉を、持っていない。
何故、いつ、どこで、どのようにして、男がこれを勘付いたのかまるで分からない。
だが男がそれを知っていることだけが重い事実であった。
彼は黙りこくる。他にする事を思いつかなかった。
男は彼の様子に構わずに続けた。
「俺は今貴族と事を構える気はない。俺は俺たちのことで手が塞がっている。他のことをしている余裕はない。これ以上余計な因子を抱え込むのは御免こうむる」
彼は半ば白く塗りつぶされてしまった思考の片隅が、そうだろうね、と皮肉に頷くのを聞いている。
貴族の落胤であると知れたらそれはそれで面倒なことになる。
男の口調からして、この秘密を勘付いたのは男一人なのだろう。だからわざわざ人払いまでしてくれたのだと、彼はやっと気付いた。
男の周囲にはいつも他人がいる。仲良くしている少年もしかりだが、男が少年王の系譜を継ぐ手足となるべき少年たちがたむろしているのだ。
「あんたに迷惑かけてたのかな、俺」
彼は呟く。
男の周囲にいる少年たちに悟らせないように気を配られてきたのだとすると、自分に何か大きな失態があったのだろう。
男がそれを否定したことで、彼はようやく多少楽になる。
呼吸がふうッと通った瞬間に、喉で凍り付いていたような言葉が零れた。
縋りついても頼み込んでも、男は一向に彼の要求を飲もうとしなかった。
彼は言葉を連ねながら、その無駄さ加減を思う。
無理かも知れない。駄目かも知れない。
可能性のない時、自分は諦めてしまう。諦めなくてはならないことが、沢山あった。
それと同じように、いつか置き捨ててきた猫のぬいぐるみのように、大切であったものを簡単に手放す時は目をつぶって一息にしなくては。
駄目だという証拠が見つかってしまえば、放り出すしかない。今までのように、簡単に。
それだけは嫌だ……
彼は泣き出しそうになっていることに不意に気付く。
リーリー。
お前を置いていったときも、俺は泣いてた。
あの猫のぬいぐるみは、それがないとなかなか寝付けなかった彼にいつでも添い寝するように枕元へいたはずだ。
主人のいなくなった、明かりの灯らない部屋にころんと転がる姿が目に浮かぶ。
それはいつか、誰かの手によって片づけられただろうか。
捨てられてしまったろうか。
自分が置いてきたのを分かっていても、それを思うと胸が苦しい……
「そうだよ、確かに俺の髪は青いよ。この瞳と同じ色だ。それがどういうことか分かるよな」
否、分かるからこそ男は彼に来るなと言う。
それも分かっていて、彼は更に言い募る。
追われて流れてきたことを。夜の中から現れた恐怖の話を。
必死で逃げ、どんな擬態でもしてきた過去を。
誰かに訴えたかったのかも知れないし、同情をひこうとしたのかも知れない。
そして効果のほどを一番信じていないのは、自分だ。だから多弁になる。
これが最後になるかも、知れなかったから。
男は大半を聞き流しているようだった。悔しくて涙になる。
それが死んだ少年王であれば、きっと一言も漏らさず聞き入っているだろうと思うだけに尚更だった。
彼は誰からも一番に愛されるのになれていた。男が自分に過剰な興味と関心を抱かないことが、自身を全部否定されたような気持ちを連れてくる。
だからだろうか。俺は追い出されるのか。
そんなはずはないと理性が言うのも分かる。そして感情的なものが怒りで荒れているのも。
男は彼の言葉が途切れるのを待っていたようだった。
「俺が勝てばいいが、そうでなかったときはお前はまたどこかへ売られるはめになる」
彼は一瞬をおいて頷きかけ、慌ててそれをとめる。
それは道理だった。その危険は既に分かっている。
結局のところ、彼の秘密を知った上で彼を守り、彼に居場所を与えてくれるのは男一人だろう。
他の連中は殆ど例外なく彼を余所者として扱っている。支配者が変わればきっとろくな目には遭わない……
彼は微かに震える唇で、長く溜息を吐く。ぬるい吐息が痺れたような唇を温めて動くようにしてくれた気がした。
「……今まで楽しかった。ありがとう」
諦めろ。
理性の声がするうちに手を引く時間だった。確定できない未来に全てを賭ける事は出来ない。母の為にも。
母さん。彼は胸で呟く。
母のことはいつでも彼にとっては最優先だった。意志を通しきる形で中央中等に入学したが、それでもいざとなれば母の忠告を受けて辞めても良かった。
学院に入っても何にもなれないという母の言葉の正しさを次第に理解できるようにもなっていたし、何よりも、学校という閉鎖された学舎の空気に既に飽き飽きしていたからかも知れない。
男は彼の決別の言葉に頷いた。
懐から男がいつも使っている煙草入れを取り出して、彼に放り投げる。餞別というわけであった。
形見を渡しておきたいのだろうかと彼は思い、男の死をどことなく予感している自分に気付いて苦笑になりかける。
漢氏竜の浮き彫りのある銀の箱は、その重み以上にずっしりした感触を手に与えた。
これは男の命そのものに思えた。男が地上から消えたときに、その生きていた証拠を残しておきたいのだろうか。
そんなことを思えば尚更悔しい。
いなくなった少年王の後を追って行きたがっている。男の頭の中は結局死者のことで占められていて、自分は入り込めなかったのだから。
馬鹿だと言ってやりたい気もするし、形見を預けてもらったことを感謝したい気もする。
だからどちらでもなく、彼はありがとうといった。
男は微かに笑った。嫌な笑顔だ、と彼は思った。
死ぬことも覚悟してしまったから、突き抜けたように穏やかだ。
馬鹿野郎。腹が立って仕方なかった。
彼はだから自分の心残りだけを満たすことにした。
もういい。関係ない。
だから最後は自分の好きなように利用するだけでも良いんだ。偽悪だったのかどうか、判別はしがたい。
……先の少年王を暗殺した相手は不明であった。男も手を尽くしたようだったが結局分からないらしい。
その時の様子は他の少年たちから小耳に挟んでもいるが、男は犯人を断定できないまま勝負へと踏み込もうとしている。
犯人というのが誰であるか、興味がなくもない。
男からは何かを聞き出すことが非常に困難……と言うより気骨の折れる作業だったが、別れの間際に隠し事もすまい。
少年王が死んだとき、まず最初に疑いの目を向けたのはタリア王であったと男は言った。
状況が示唆していたのもそうだし、決闘をすると決まった相手もそう強く主張していたようだ。
ああ、そいつか。
彼は思う。何かを強く言い募るときは、それを頑なに信じているときか、そうでなければ他人の目を違う方向に向けておきたいときだ。
その相手が何故、という動機の部分は残っているが、身内であるからには降り積もるものもあったのだろう。
血縁はないようだから、手に掛けるのに躊躇う理由は殆ど存在しなくなる―――本人の、自覚と自戒以外には。
そして聞くだけでもあるが、その相手にはそうした部分が欠けているようだった。
大まか真実を得て、彼は男に背を向けた。
もう会うまい。自分を棄てた相手にしがみつくなんて、女じゃあるまいし。
刷りこもうとする傍らから、この場所が好きだったのだという思いがこみ上げてくる。
彼はまっすぐに男に視線を向ける。これが最後になるのか否かは分からないが、死に行くつもりであるならば手向けに、そしていつか再会することがあるならば小綺麗に飾りたかった。
「俺、あんたのこと、好きだった。本当だぜ。助けてもらったことは忘れない。どこにいても何をしていても、あんたの為に幸運を祈ってやるよ」
「そいつはどうも」
他愛なく男は返答し、やや間をおいて元気でなと付け足した。
男が自分を気遣うのを何故か誇らしく受け止めながら、彼はあんたもね、と返して背を向けた。
多分、もう会わない。それが良かった。




