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水泡の夢  作者: 石井鶫子
第2話 赤い小鳥
32/43

9

 昼間をようやく迎える妓楼の中は白けた明るさが漂っている。店棚の格子窓には全て簾が降り小間使いたちが夕方からの営業に向けて立ち働いていて、活気はあるがからんとした空気が支配していた。


 その合間を抜けて遊女たちは食堂や針部屋へてんで勝手に集まってくる。乾いた明るさは遊女たちが殆ど素顔で、化粧気も飾り気もない素のままの個人に戻っているからかも知れなかった。

 食事は部屋で取っても勿論構わないが、気のあった女たちは大抵こうして食堂で一緒に昼食を取る。夕食は客から奢られるものであるから、実際何時になるかは分からない。


 リィザが食堂で昼食を取るようになったのはごく最近のことだが、新しく遊女になる娘は今は彼女しかおらず、他の女たちは概ね彼女に優しかった。

 同姓という気安さの連帯なのか、それとも自分たちが通ってきた苦悩の中に未だに住んでいる彼女を哀れんだのか、そのどちらだとしても、リィザは「ねえさん」たちからの細やかな愛情を感じるほどにはこの妓楼になじみ始めている。


 一番彼女に口を開くのはシアナという少女であった。無論それは本名ではなく遊女としての源氏名だが、チェイン王の宴席の晩にリィザへ乱暴を働いた少年たちに氷をぶちまけて救ってくれた遊女だ。

 シアナはリィザが来たのが単純に嬉しいのだろう、こと良く彼女を構った。口調は素っ気なくてきついが、さして嫌みであるつもりが無いを理解すれば、その裏の不器用でぎこちないリィザへの興味に気付くことが出来る。

 同年齢である共通に何かを見いだしたいのだろう。


 薄茶色の髪は昼間の光の下では琥珀が輝くような色味に淡く煙り、翡翠をはめたような美しくまろい緑の瞳と整った輪郭線が同性であっても目を引きつける。

 シアナには美貌の恩寵のままに既に複数の常連客がついていて、その中で最も彼女にとって重要で妓楼にとって上客と言うべきはチェイン王ライアンであるようだった。


 あの宴席もライアンがシアナと馴染んでいるからこそこの妓楼を選んだようだ。妓楼はタリア内の組合の規定で客の個人情報を徹底的に秘匿するが、遊女たちの目にも明らかにライアンはシアナに3年通い続けている男であった。

 自分の女の株を上げてやろうという彼の思惑なのだろう。


 このところ、あの晩のことが縁でリィザはシアナと昼食が多い。シアナは更にミアというこの妓楼一番の娘によくなついており、自然その集団に混じることが多くなった。

 シアナはつっけんどんと言っても良いような口の悪さだが、ミアの方は柔らかに優しい。声音のとろけるような甘さが心地よかった。


「……この子は、本当にライアンばっかりだから」

 ミアの声が可笑しそうにころころと笑っている。シアナは端麗な頬の曲線を思い切りぷうと膨らませ、だって、と唇をとがらせた。

「だってねえさん、ライアンより綺麗な男なんか見たこと無いもの――ねぇ?」


 ふっとシアナの視線が自分に向いてきて、リィザは微かに笑って首を傾げた。

 宴席で見かけたチェイン王だという青年の顔立ちは確かに小綺麗にまとまってはいたが、それよりも圧迫さえ覚える存在の重圧感と痛みを覚えるほど冷えた視線、その二つが合わさって出来る永久凍土のような荒涼とした空気だけが吹き付けてきたことだけしか思い出せない。怖いというのがリィザの感じ取った全てであり、それ以上ではなかった。


 それでもシアナの喜ぶ顔も見たくてリィザは記憶の中からライアンの面差しを恐る恐る引き出す。それは今まで見た誰よりも確かに整ってはいたが、陰鬱で、やはり瞬間的に目を閉じてしまいたくなるほどに恐怖を引き起こすものだった。

「……ライアン様、ええ、確かに綺麗な方ですよね」

 やっとそれだけを返答すると、シアナの方は得意そうな笑顔になった。彼女にはそうした自信に満ちた、ややもすると驕慢といって良いほどの傲岸な笑顔がよく似合った。華やかな顔立ちが一層際だつのだ。


「でしょ? ――ね、ほら、これ……ライアンに貰ったのよ」

 シアナは一層得意満面という表情で自分の髪をまとめていたかんざしをすらりと抜いた。

 それまで髪に隠れて見えなかった柄の部分は透かし抜きになった黄金の蔦唐草文様に縁取られた翡翠であった。飾りの部分はやはり翡翠、こちらは唐草とあわせた芙蓉花がくりぬかれた贅沢な品だ。

 精緻な細工、おそらくは本物の金に翡翠、どれだけの品なのか見当がつかない。


 リィザが見入っていると、シアナは得意そうに吐息で笑った。

「あたしの目の色が緑だからね、それで翡翠なの。柄の飾りは髪の色と合わせた琥珀がいいって言ったんだけど、それは細工がとても難しくて探せなかったんですって。でも黄金ならいいわ、――似合う?」

 とりとめもないことを話しながらシアナは器用に髪を元のように結い上げて、かんざしで固定した。シアナの言うようにその翡翠は彼女の瞳から吸い出されてきたような美しい色合いであったから、リィザは深く頷いた。


 自信に満ちた微笑みを浮かべているシアナは本当に美しく、同じ年齢であるとは信じられないほど大人びて華麗であるように思われた。

 リィザの返答に満足したのだろうシアナはリィザの黒髪に手をやって、櫛を丁寧に通して頬の横側を軽く編んだだけの髪型を崩し、せっせとそこを編み始めた。


「……何が似合うかって難しいけど、あんたの場合は髪が黒いから真珠がいいわ。きっと黒髪に雪花がかぶるみたいに綺麗に映えると思う」

 シアナが視線で同意を求めたのか、そうねとミアが優しく頷いた。

「私たちは衣装は決められているけど、髪や装身具は特に決まりがないから好きにしていいのよ。リボンも花も、みんな大好きでしょう?」

 はい、とリィザは頷く。


 遊女たちの衣装は決まっている。いずれ遊女となる娘は白、体を提供しない下働きは黒、遊女たちは赤地に装飾は金糸、そして月が満ちる期間だけはくすんだ赤い絹地。身につける色が決まっているせいで、却って女たちは金糸の刺繍の具合に気を遣ったし、髪を飾るリボンや造花に熱中している。

 シアナが今リィザの髪に編み込んだ造花もその内の一つだ。


 リィザは水揚げを待つ身であることを示すために白以外の色は身につけることが許されていない。だから造花は白、優しく愛らしい鈴蘭に白いレースのリボンが絡んでいる。鏡の中の自分の髪には確かに彼女たちの言うように、白が良く映えた。

「だからお前にね、水揚げが済んだらみんなで髪飾りをわけてあげるわ。みんなから少しづつ贈ることになってるの。この店の習慣よ――覚えておいてね」


 リィザは曖昧な返答をして俯いた。ミアの言葉もシアナの見立ても、自分の水揚げが近いせいなのだろうかという淡い恐れを連れてくる。

 涙の一件を女将は殆ど叱らなかったが、その代わり娘たちからは一斉に呆れ加減の馬鹿ねという言葉を聞いた。その大半には軽い哀れみも込められている。


 リィザの顔が曇ったのにまず気付いたのはミアで、ミアの表情からシアナの方もそれを悟ったようだった。

 あんたね、と髪を弄る手を止めて、ひょいと横からリィザの顔をのぞき込む。間近で見ても欠損一つ無いシアナの肌はなめらかに輝くようだった。

「いい加減、覚悟しちゃったら? どんなに拗ねたって泣いたって、あんたはあたしたちの仲間になるんだからさ。……水揚げが済んだらあたしのリボンからあんたの好きなのをあげる。口紅と頬紅も、あたしたち肌の色が殆ど同じくらいだからきっとあんたにも似合うよ。ねえ、もっと楽しい方のこと考えよ?」


 ね、と笑顔で念を押されてリィザはどうにか微笑んだ。シアナの意図もそれが気遣いだということも分かるのに、素直に頷いて流れに身を任せてしまうには覚悟が出来ない。最初の日にすくんだままになってしまった心が、どうしても折れないのだ。

 自分がこんなにも彼を恋うていたのかと思うのはこんな時だ。せめて思い出になるようにと持ってきた硝子の小鳥を部屋の鏡台の脇に見つける度に泣きたくなる。それが美しい過去であればあるほど、哀しく見えてくるのが辛かった。


 だが、黙り込んでしまったリィザに明らかにシアナは不機嫌になった。彼女は機嫌の善し悪しがすぐに顔に出る。リィザが自分の言葉に不承であることが気にくわないのだ。

「何よ、すぐ浸っちゃってさ……本当の、本当に、抜け道はな、い、か、ら、ね!」

 シアナはそう吐き捨てるように言い、編みかけていたリィザの髪を放り出した。ばらけた髪が頬にかかる。


 リィザは振り返って面白くなさそうにつんと唇をつきだしているシアナを見つけた。目が合うとシアナは不機嫌そうに視線を逸らし、ことさら取り繕ったような無表情になった。その顔立ちに何処か見覚えがあるような気がしてリィザは目を細め、それから納得して微かに声を上げた。

 彼女は似ているのだ。ライアンといったはずの、あのチェインの王に。


 シアナの方が格段に表情が豊かで性別と年齢の差があるが、彫りが深くてくっきりした顔立ちや面輪全体に漂っている空気が酷似している。

 髪の色が余り変わらないのもその印象を深める一因であろう。瞳の色まではリィザのいた位置からは見えなかったから、それは分からないが。


 リィザは思わずじっとシアナに見入っていたようだった。同い年の遊女はその視線に居心地悪そうに身じろぎし、何よ、と不満声で言った。

「いえ、あの――」

 何でもありませんと言い掛けてリィザは言葉を飲み込む。シアナが曖昧な誤魔化しを好かない性質であることは既に知っていたからだ。

 あれほど好きな男に似ていると言われれば不機嫌にはならないだろうとリィザは思い直し、暗く凍えかけた頬を懸命に動かして微笑みを作った。

「ただ、シアナねえさん、ライアン様に似ているなって……」


 それを言い終えない内に、シアナがいきなり口を歪めてうるさいと怒鳴った。驚愕で思わず固まってしまったリィザの髪から編み込んでいた白い造花をむしり取り、シアナはぎゅっと唇を噛んだ。

 その顔色が怒りにか別のものにか赤く染まっていく。


 自分がシアナのどの部分の急峻な激高に触れてしまったのか分からないままで、リィザは取り繕うためだけにごめんなさいと口にしかけた。

 それをやんわり遮ったのは白い手だった。唇を塞いだ手がそのまますっと自分を抱き寄せ、香の種類でミアだと分かる。

 ミアはリィザを包むように後ろから抱き、シアナ、と強い声を出した。


「――いもうとを、理不尽に怒っては駄目よ。かあさんだっていつも言ってるでしょう、理由があって叱るのはいいけど、怒っては駄目、いいわね?」

 シアナは頬を紅潮させたまま、じっとはたき落とした白い造花を睨んでいる。その時間が気の遠くなるほど流れた頃、やっとこくんと一つシアナは頷いた。

「……ごめん」

 低くそれだけ呟いて造花を拾いもせず、自分の部屋へ走り戻っていくシアナにリィザは何を言っていいのか思いつかなかった。


 シアナの姿が遊女部屋へ通じる回廊へ消えてしまうと、ミアは抱擁を解いた。彼女からはいつでもふんわりした香と化粧の混じった仄かな薫りがした。

 ねえさん、とミアを不安に見やるとミアは仕方なさそうに微笑んで、首を振った。


「あの子には、ライアンと似ていると言っては駄目よ。それをとても気にしているからね。この前の宴席の時にでも教えてやれば良かったわ」

 何故であるのかをミアは口にしなかった。それは彼女も知らないのか、それとも告げる気がないのかどちらであるかは推し量れないが、少なくとも誰かに聞くことの出来る種類でないことを理解すればそれで良かった。

「……シアナねえさん、いいんでしょうか……?」

 ただ、自分が彼女を酷く傷つけてしまったのだろうかと思うと胸が痛い。

 あれほど馴染ませようとし、可愛がろうとしてくれるシアナに対して申し開きの出来ない仕打ちをしてしまったような罪悪感が深く自分を刺し貫くようで、リィザは痛みのために深く呼吸をした。


 ミアは再び困ったように笑い、周囲の女たちを見回した。

 彼女たちもまた、シアナの怒りの顛末を息を潜めて見守っていたのだと分かったのはそのときのことだ。ミアの視線に重い空気がなぎ払われていくようにか、ようやく彼女たちから忍び笑いのような、微かな苦笑がこぼれ始めた。

「仕方ないわ、知らなかったんですもの」

「シアナはちょっとかあっとなる子なのよ、悪気はないから放っておきなさい」

「ライアンのことはあの子が言い出した時につき合ってあげたらいいから」


 一つ一つに頷きながら、リィザはやっと人心地ついたように体を楽にした。ぬくやかな女たちの言葉にも、シアナの怒りにも、女ばかりの格子の中の王国の、自然な流れがあった。

 いつか自分もその中に入らなくてはいけないのだろうか。そんなことを思うとリィザは溜息がこぼれそうになる。

 それを誤魔化すために身をかがめて鈴蘭の造花を拾っていると、ミアがいらっしゃいとリィザを手招いた。


「――シアナを許してやって、嫌わないでね……あの子は言いたいことを言うけど、嘘をつくほど姑息じゃないの。それがとても良いところなのよ」

 はい、と呟くとミアはほっとしたように笑い、シアナが滅茶苦茶に崩してしまったリィザの髪を改めて編み始めた。

 他の遊女が自分の化粧箱の中から白菫の小花のついたリボンを、更に他の女は大輪の百合を彫り抜いた象牙の腕輪を、それぞれ貸してあげるわと寄越してくる。


 そうやって飾り立てて化粧を薄くはたけば、鏡の中にいる自分はそれまでのどんなときよりもましに見えた。

 この姿を少年に見せることが出来なかったのが不幸なのか幸いなのかリィザは考えようとしたが、思うだけで哀しくなるのはいつもと同じだった。

 彼にはもう会えないかも知れないという薄い恐怖は日ごとに重くなってきている。


 否、それよりも……遊女として帝都にいることを知ったら彼は一体どんな顔をして何と言うだろうか。

 自分を蔑むなら辛いし、哀れむなら尚辛いし、それでも変わらず好きだと言ってくれたら――多分、それが一番悲しいだろう。

 いくら思考を重ねても、辿り着くはずだった幸福の彼岸は遠く、既に遙かに霞んで見えなくなっている。彼の手がそこへ導いてくれると信じていられた無邪気な未来への絶対信頼は、不意打ちに崩れてしまったのだった。


 暗くなりがちな思考を、リィザはそれでも振り切ろうとする。遊女たちは優しく、女将は厳しいながらも情理の通る人柄で、自分は恵まれている方なのだ。

 妓楼でも酷い場所になると部屋らしい部屋もなければ、日に幾人もの客を無理矢理取らせることもあるのだと他の遊女たちの眉をひそめた訳語りで学んでいる。更に女を道具としてしか扱わないような娼窟になると、薬を使って3年で廃人にして顧みないらしい。


 タリアの大通りから1本入った辺りのこの妓楼は、遊女の揚げ代は大きな棚よりは手頃で娘たちの管理はしっかりしている。少なくとも、女将があたしの娘という時はきちんとした情を感じることが出来た。

 だから、自分は運がいいのだ――恐らくは。


 生きていけるだけで幸福だと素直に信じていられた日々、自分はきっととてつもなく稚かった。人生は連綿と続く日常そのものであって、それ以上のものではなかったのだ。


 首を傾げると、鏡の中の着飾った少女が同じ仕草をした。黒い髪にさやさやと触れて揺れる白菫の飾りが愛らしい。

 それを愛でるのが永遠に少年ではないだろうと思うと、ひどく息苦しくなる――

 リィザは首を振った。周りからこれほどに気遣われて優しくされて、なお自分一人がかたくなに全てを拒否できるとは既に思うことが出来ない。足らないのは覚悟なのだ。


 もう彼には会えないのだと認める覚悟、これから先しばらくをこの妓楼で過ごしていくための覚悟、そして未知なるものへ闇雲に身を任せてしまう覚悟、それとも全てを放擲して天窓からでも身投げしてしまうというような、思いに殉じる覚悟も。

 じっと鏡を見据えたまま考え込んでいるリィザの頬を、そっと撫でた指先はミアだった。先輩の遊女を見上げると、彼女は淡く悲しげな陰をまつろわせて笑っていた。


「……また彼のこと、考えてる」

 それはその通りで、リィザは気恥ずかしさのために赤面して俯いた。いつまでも自分一人がぐずぐずと思いめぐらしても状況は変わらないのだから。

 羞恥の仕草をミアは笑わない。ますます優しげに笑ってそっとリィザの手を握り、囁いた。


「忘れなさい」

 きゅっとその瞬間にきつく握りしめられたやわい痛みを、リィザはきっと忘れないだろうと思った。

「忘れなさい、もう会えないわ――いいえ、会わない方がいいのよ」

 頷きたい、とリィザは思った。

 ここでひとつ、こくんと首を動かして気の済むまで泣いてしまえば何かが遠い河へ滑り落ちて涙の海へ落ち着くように、想いの漂う海へ還るように、きっと何かが軽くなるだろう。それが分かっていても、どうしても、どうしても。


 彼が好きだという気持ちが恋であるのか愛であったのか、もう分からない。確かめるすべは残っていないのだから。

 ずっと以前、もう殆ど思い出せないような昔に思える過去、リィザは名も知らぬ神へ祈っていた。他人に話せない大それた、密やかで重大な望みを口にする時にすがるものはそれしかなかったのだ。

 そしてその神への祈りは少年の名を呟く事へすり替わっている。

 彼との恋だけが、彼女の希望だった。それが潰える瞬間さえ分からなかった。


 それが誰の罪なのかリィザには判断が出来ない。いっそ自分が全てを背負い込んで卵殻に籠もる雛のように、世界から巣籠もってしまえばいいのかもしれなかったが、それもまた覚悟が――性根が、足らない。

 何もかも中途半端に足らない自分こそ、最も罪深いのかもしれなかった。


「……ねえさん、私……」

 握られている手の暖かさに泣き出しそうになりながら、リィザはミアを見上げた。ミアは首を振り、先ほどよりももっと優しい声を出した。

「会わない方がいいの。もう、忘れなさい。苦しいと思うなら心を眠らせて、綺麗な夢を見るといいわ。次の朝に目が覚めるまで、うんと綺麗で楽しい夢を」

 ミアはそんなことを言って、リィザの目をじっとのぞき込んだ。

 夢、とぼんやりリィザが繰り返すとミアはそうよと深く頷いた。


「私たちが夜眠るのは次の明日を生きていくためなのよ。そのために人は眠るの。どんなに辛い夜でも夢を見て癒されれば、きっと次の朝にはまた生きていけるから」

 リィザにとって今が明けない夜であるならば、次の朝を目覚め生きていくために心の目を閉じて夢に遊んでも良いのだとミアは言い、そして囁きよりももっとさやかな声で呟いた。

「みんな、好きな人くらいならいるのよ……大好きな人がいるなら幸福よ。巡り会えただけでもいいんだって、そう思ってる……でも、もう会えない人を思うのはおよし。いつかきっと、これで良かったんだって思えるような恋をまた見つけられる。そんなに好きな人に出会えて恋が出来たんだもの、あなたは幸福なのよ。過去だけは自分が幾らでも綺麗に繕える、誰にも持って行かれないものだもの」


「わたし……」

 リィザは呻くように言った。

「私、若様に会いたい……会いたい、会いたい、会いたい……会いたい……」

 繰り返して呟くと、一層それだけが全てであったのだと思い知った気分だった。


 彼にもう一度だけ会いたい、会ってさよならを言いたい――いいえ、それよりも。


「私、若様のこと、大好きでした。本当に、好きだった……」

 本当に言いたかったのはその感謝だったかもしれなかった。それを告げたいと思った時には既にこの赤い格子の中の小鳥として生きていくことが沢山の他人の思惑で決定してしまっていて、リィザにはどうする術もなかった。

「ありがとうって言いたかったんです……こんな私でも、好きになってくれて、嬉しかったって……本当に幸せだったって……」


 そうね、とミアが握り込んだ手をさするように撫でた。

 はい、とリィザは頷き、ねえさん、と顔を上げた。

「でも、もう、会えないんですね……?」

 ミアはゆっくりと、しかし確実に深く頷いた。リィザもまた頷き返した。

 誰かがはっきりと口にするまで、認めたくなかった。夢を見るような未来がまだあると信じていたかった。白昼にも目を開けてみる種類の夢を見続けたかった。

 でも、それはもう自分の元には返らない未来なのだ。


「あの人に、もう、会えない……」

 口にした瞬間に、それはざあっと流れ落ちてくるように身の周囲に現実として降った気がした。

 リィザは微かに肩を震わせて、きゅっと唇を噛んだ。遊女たちが丁寧に入れた紅のにおいだけが鼻についた。

 不意にミアが彼女を抱きしめた。彼女の化粧の薫香に誘われるように最初の涙が落ちた瞬間に、リィザは声を上げて身を崩しながら年上の女にすがりついた。

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