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水泡の夢  作者: 石井鶫子
第2話 赤い小鳥
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 窓をいっぱいに開けると海からの風が入り、療養所の美しい緑の彼方に海が見えた。海の表面には沢山の船舶がある。


 シタルキアの第2の都ミシュアは建国伝説の多く残る土地柄、それに付随して聖都の名称を与えられている美しい都市だが、沿海州を挟んで南部大陸との交易中継点として富を孕む場所としても有名だ。


 行き交う船は貨物船か、それとも定期航路の客船か。

 窓から沢山入り込む明るい陽射し、遠く見える海、目の下の緑。


「いい部屋で良かったわ」


 クインは明るい口調でそんなことを言い、寝台に半身を起こす母親を振り返って微笑んだ。

 介添えの看護婦が遮蔽幕から出て手を洗い、何かあれば呼ぶようにと言い残して消えていく。

 母親は遮蔽幕の向こう側で心配そうに目を伏せた。


「お前、お金はどうしたの……ねえ、怒らないからちゃんと説明して頂戴」


「お母さん」


 クインは宥めるように笑って膝丈のスカートを揺らし、遮蔽幕のすぐ脇に出してある小さな椅子に座った。

 そっと指先で触れる遮蔽幕は透明で、絹のような不思議にぬめらかな肌触りだ。


 黒死病は空気感染するため、患者の呼吸から発見される感染菌が一定値に下がるまでは遮蔽幕を取り去ることが出来ない。

 だが、患者とふれあうことは出来た。

 遮蔽幕といっても殆どその存在は感じない。虹色の光沢を放つ薄い何かが寝台を中心にして蚊帳のように下がっているが、お互いに身体を寄せ合えば幕越しにでも体温を感じることも、勿論会話も出来た。


 クインは母に手招きする。

 母の耳元でそっと囁く言葉は、最初から考えていた言い訳だ。


「ちょっと魔導で幻覚作用をつけた酒を馬鹿みたいな値段で媚薬ですって売ったんだよ。詐欺だけど大丈夫、幻覚は見るように調整してあるから気付かないって」


 くすくす、少女の声音に立ち返ってクインは笑い、肩をすくめて見せた。

 母親はそれでもまだ不安そうに彼を見ている。

 いいのよ、とクインははっきり言った。部屋には音声官が通っているから、用心するにこしたことはなかった。


「いいのよ、本当に心配しないで、母さん。私は私で上手くやってるわ。今日だってちゃんと休暇で来てるんだから」


 上級学校や中等学院を受験する子供達のための塾が帝都には幾つかある。

 その内の一つに教師として潜り込んだのだと母には説明してあった。

 全てを話す必要など、どこにもなかった。正直になれば、母親を嘆かせ悲しませるだけだから。


 そう、と母はそれには頷いた。


 少し痩せてしまった首筋の細さにクインは痛みを覚えて目を細め、そして力無い自分を憎くさえ思った。


 もっと早く何とか出来たはずだという思いもあるし、どうにか間に合ったという安堵もある。

 何を引き換えにしたかなど、もうどうでもよかった。


 ライアンに大半のことを教えられて初めて他の男と寝たのも、その時の僅かな嫌悪も最早遠い。

 身体は否応なしに慣れて行くし、心は最初から硬く目を閉じて気に入らない事実は見ないことにしてしまっている。


 ただ、何か――とても重くて大切な何かが胸から欠け落ちてしまったように、落ち着かない。


 ライアンにもチアロにも、苛立っていると指摘されて尚更怒鳴り散らしてしまった……これは帰ったら謝らなくてはいけない。


 僅かについた溜息に、母の視線が向いた。

 何でもないのとクインは殊更明るい笑顔を作り、本当にいい部屋ね、と話題を転じた。そうね、と母は笑った。


「夜になるとミシュアの都の灯りが綺麗よ。お前は今日は帰らなくてはいけないの?」


「ええ。あの……明日の朝早くから補講があるから……」


 微笑みながらクインは返答し、今夜の仕事について内心で溜息になった。


 ライアンは夕方までには戻るようにと言った。

 魔導による空間移転だからゆっくり3数えるほどの時間があれば平気だが、空間移転はひどく消耗する。

 夜は夜で別の意味において消耗するのだから、そのための休養を入れるとするなら時間は残り少なくなっていた。


 遮蔽幕越しに、クインは母の肩に頭をのせた。


「はやく、良くなってね……遮蔽幕が取れたら、散歩くらいなら出来るんでしょう?」


 呟いた声は、ひどく寂しげだった。母の微笑む吐息が耳元でした。


「お前は昔から本当に寂しがる子だったわね……愛してるわ、私の可愛い子。寂しがらないで、私はいつでもお前を一番に思ってるから……」


 幕越しに、頬に軽く唇が触れた。クインは頷き返し、母の頬に同じように返した。

 腕を伸ばして痩せてしまった母の手に手を重ねると、母は頷いた。

 言葉数を少なくしても通じ合うものはまだ残っているのだった。


「寂しいときは母さんを思って頂戴。きっとお前が想っている時間、私もお前を想っているから。でもね、可愛い子――」


 母はクインの頬を愛しげに撫でながら切なげに笑った。


「いずれはお前も誰か大切な人を見つけなさいね……お前を心から愛してくれる人、お前が本当に愛する人に出会えれば、きっと寂しさも消えるから」


 クインは曖昧に笑った。

 愛という言葉は彼からは遠く隔たっていて、とても現実味のあるものではなかった。


「私には母さんだけよ」


 クインは優しく頷きながら言った。


「母さん以外の誰のためでも死ねないし、生きていけな……」


 そんなことを囁きかけて、クインは不意に喉を詰まらせた。

 男達に身体を開くようになってから、確かに自分はおかしい。こんなこと、今までなかったのに。


 肩を震わせていると母がごめんね、と呟くのが聞こえた。

 いいえ、とクインは首を振るが顔は上げられなかった。母の顔を見て甘えてしまえば一気に決壊してしまうものが怖い。

 ごめんね、と母が同じ事を言った。


「寂しいのね、ごめんね、お前を本当は抱きしめてキスをしてあげたいのに」


「母さん……」


「心の傷にはキスの薬が一番効くのに、ごめんね、私の可愛い子……」


 クインは唇を噛んだまま、首を振った。母の顔はまだ見られなかった。泣くな、と自分を叱咤する。


 泣くな――化粧が崩れる、から。


 クインはのろのろした仕種で首を振り、何度も深呼吸をしてから目元を拭った。考えすぎるのは良くない。

 それは先日ライアンに指摘されたことでもあった。


(あまり自分の中を自分で探ろうとするな。お前は自分で苛立っている)


 その時何と返事したかは忘れてしまった。多分、まともに答えていないだろう。

 苛立っている。それは分かっている。

 慰められるとするなら誰かの真剣な愛情でしかないことは薄々勘付いてはいたが、これほど自分でひどいものだと思っていなかったのかも知れない。


 母の愛を疑ったことも信じなかったこともない――けれど。


 多分、身体を結ぶことを知ってしまえばそれだけでは最早足らないのだ……


 黙っているクインの肩を、母が丁寧にさすった。それさえも全てが遮蔽幕を挟んでいて、切なかった。


「お前のことを愛してくれる誰かを見つけてね……いつか、きっとそれで良かったのだと思う日が来るから……」


「母さん」


 クインは母にだけ聞こえるように、小さく低く呟いた。


「母さんのこと、本当に大切に思ってる。母さんが俺を愛していると言ってくれるように俺も母さんのことを愛してる。他に何も要らないから、だから早くよくなって、俺を一人にしないで……」


 母はそっと笑ったようだった。クインは自分の言い草に曖昧に首を振った。

 苦笑がこぼれた。


「……また来るわね。母さん、それまで元気でいてね。来月にはまたお休みがもらえると思うから」


 少女の仕種に立ち返ってクインは窓際に置いた帽子と鞄を取った。


 長居しすぎると全てを母に告白したいような気分になってくる。

 罪悪感のようなものなのか、母が何も知らないと思うほどに背筋を嫌な汗が通っていく気がして居たたまれないのだ。


 母の視線が無垢だからかもしれないとクインは思う。

 その無垢に耐えられないほど自分が情けなくて汚い生き物であると念を押されている気がしてたまらなかった。


 母に飛びきりの笑顔を作って見せて、クインは廊下へ出た。やっと重たい溜息がこぼれた。


 自分の嘘を母はどこまで信じているのだろう。疑われていないとするなら上首尾として良いはずだったが、素直に喜ぶ気にはならなかった。


 唇をきゅっとしめて廊下を歩いていくと、丁度担当の医者と行き違うことが出来た。

 母をよろしくお願いしますと頭を下げると、医者は慣れた仕種で頷いた。患者の家族の言うことなど、みな同じだ。


「経過はいいようだから、来月の面会日には遮蔽幕は下ろせると思うからね」


 はいと深く頭を下げると、医者は頷いて傍らを過ぎていこうとする。

 その背を先生と呼び止め、クインは駆け寄って鞄の中から50ジル金貨を3枚包んだひねりを引き出して医者の手に素早く握り込ませた。


「治療費のこと、母にはくれぐれも内緒にして下さいね」


 医者は何事もなかったように、金貨を懐へ入れてそうだったねと返答した。


「君のような熱心な家族を持つと、お母さんも幸せだね」


 それが嫌味かどうかは微妙なところだった。クインは苦笑し、くるりと踵を返して廊下を歩いていった。


 転移してきた地点まで戻って、再びタリアまで空間転移を行わなくてはいけない。

 詠唱の時間とその後の休養の時間を考え合わせれば、あまりゆっくりしている暇はなかった。

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