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水泡の夢  作者: 石井鶫子
序章 流転
2/43

 それから3年が平穏に過ぎた。

 それまでの流転の生活からすれば、文字通り平穏であった。


 男の来訪から逃れた母は、腹を据えたようだった。船を下りた街で彼は服を買い換えた。

 黒や青の動きやすくて遊びやすい服から、レースのついたブラウスや小花の柄の散ったスカートへ。

 髪を丁寧に梳いてリボンを結ぶと鏡の中にいるのはどこから見ても幼い少女であった。


 いやだと彼はごねてみせたが、母親の顔にしばらく出てこなかった焦燥と苦悩が現れてきて、それを言うのを飲み込んだ。

 目立たない方がいいのだということを、彼はそれとなく理解していた。


 長い旅程の後にたどり着いたのは帝都ザクリアであった。

 女の子のふりを出来るなら学校に行ってもいいという母の許しが出て、彼はそれに飛びついた。

 彼は真実、寂しかった。


 ……それが戸籍の記載にあわせた擬態であることを彼が知ったのはもう少し後だ。母は自分の持てる殆どの金を注ぎ込んで戸籍を買ったのだった。

 勿論正規の取引ではないが、無戸籍家庭であることと非常に整った顔立ちの息子がいるという二つの特定条件をやりすごしてしまえば、年月はなるほど無事に過ぎていくものであった。


 彼は黒く染めた髪を伸ばし、眼鏡をかけた。美少女ということになってしまうと少年たちがそれはそれは煩わしかったからだ。

 彼のその態度が「男嫌い」と映ったのだろう、少女たちとはそれなりにうまく運ぶことが出来た。

 淡い恋心を抱いた相手もいたが、かなわない望みでもあった。


 女として生きていく不都合は次第に彼に蓄積されていった。

 少年たちからは相変わらず絶賛を受けた。華奢な体つき、優しい笑顔、どんなに必死で隠そうとしても零れるような美貌は幼いながらに姫君のように崇拝されるに十分だった。


 少年たちの視線に次第に過敏になっていく彼を、少女たちは守ろうとしてくれた。

 だが、少女たちの中にも彼の居場所はなかった。元々、かけ離れた思考癖の生き物なのだということが次第に理解されて行くばかりであった。

 彼女たちはいつでも笑いあいお喋りに熱中していたが、内容は恋愛のことばかりで正直辟易した。


 彼がその話に決して加わろうとしないのは、すぐに知れた。少女たちはそれが原因で彼を苛めたりはしなかったが、有る意味で彼には辛い居場所を与えた。

 ――よそよそしくするわけでもなく冷たくするわけでもなく、ただ完全には立ち入らせない賓客としての扱い。


 成績は良かった。それも飛び抜けて良くできた。

 大抵のことは一度目にすれば理解できたし、すんなり覚えることも難しくなかった。

 彼にとっては何もかも、立ち上がって歩くほど簡単なことだったのだ。


 最初の飛び級の試験を満点で通過し、彼は特待で優等校へ進んだ。

 学費は全て免除だった。本も、制服も、全てが支給された。

 その学校でも難なく学年主席を飾り一年で飛び級の試験に2つ通ると、帝立の学舎へ飛び級での入学試験招致を受けた。


 中央中等学院と呼ばれるそこは、成人前の子供たちのための、国で最高の学び家であった。

 本来皇族と貴族のための教育を引き受ける機関だが、同時に将来のために優秀な子供たちの育成も行っており、入学した子供は自動的に国の最高学府である中央高等学院への進学が保証される。


 だが、母の顔は彼が難しいとされる試験を楽々と突破していくに従って曇っていった。

 素直に喜べない理由を彼は薄く察してはいたが、何故という疑問に答えて貰えない苛立ちも事実であった。


(答えを間違えるのよ)


 母は悲愴という目つきで彼にそう言った。

(お願い、分かる答えでもわからないと書いて頂戴。あの学校に行っては駄目。ねぇ、勉強が出来たって……お前はちゃんとしたお役人になれるわけではないのよ……)


 彼はじっと俯いた。母の言うことも分かった。

 彼は真実男であるが、戸籍は女として記載されている。

 学家の中ではどうにか過ごしていけることも、外へ出れば違うかも知れない。

 買い取った戸籍は綻びなく彼と母を守ってくれたが、事実が頑として異なっていることが知れたら。

 彼はじいっとお願いだからと繰り返す母の、粗末な靴を見つめる。


 けれど、自分の力でこの母に安穏とした暮らし、朝から晩まで働かなくてもいいような暮らしを与えてやりたかった。

 友達を部屋に捨ててきた夜のようなことが再び起こるのは避けなくてはいけない、でも。


 僕は、僕だ。


 幼い矜持は理屈と納得の間に均衡点を見つけられない。

 彼は母の言葉に曖昧に頷いて試験会場へ向かった。

 試験を休むことは無意味だった。後日再試験となるのに決まっているからだ。


 試験会場には彼より年上の子供たちばかりだった。彼はこの場でも、そして記録の上でも最年少の受験者であった。

 最初の一年を殆ど留年していることを考えると驚異的だと大人は誰でもそう言った。


 試験は簡単だった。少なくとも彼にはそう思えた。

 開始してそれほど経たない内に全ての解答の記入を終えて、彼はそっと周囲を見回す。


 ――多分、合格してしまうだろう。周囲の少年や少女たちの様子を見ていると必然に思われた。彼は自分がびっしり書き込んだ解答用紙に目を落とす。


 数学。古典。次元換算。化学。歴史。魔導。


 馬鹿馬鹿しいほど、簡単な問題ばかり。ちょっと本を読んで考えればすぐに導き出せる答えばかりだ……僕にとっては。

 彼は目を閉じて、この学校に入学する自分、を考えてみる。

 中等学院は修了年限6年となっている。今8才だから、順当にいけば14才でここを卒業し、中央高等学院へ進むことになるだろう。

 多分、それは最年少の記録になる。

 中等学院には飛び級の制度がない。単位を取って上級課程に進むことは可能だが、全ての学課を履修して年限が残っていれば新入生への簡単な講義や自主履修の手伝いをすることになる。


 彼は、そうなったときのことを正確に思い描くことが出来た。

 新入生といってもその時の自分と同じ年齢が中心だ。妬み、やっかみ、そんなものと同時に降り注がれる感嘆と賞賛と……憧憬の視線。

 彼は少し、溜息をつく。それは今までの経緯の忠実な複写であった。


 彼の吐息に、隣の席に座った少年がちらりと彼を見た。

 彼は少年の手元へ視線を動かす。解答用紙は3科目目の半ばから以降が白紙のままだった。

 時間はそう残っていない。落伍するのを覚悟したのか、少年は彼にそっと笑い、溜息をついて解答用紙に戻った。


 彼はつま先で、少年の足をつついた。自分の答案用紙をわし掴み、試験官の目が逸れた隙に机の下からそれを押しつける。

 同情に対する怒りと、刹那的な希望が少年の顔に相互によぎった。

 彼は首を振る。一瞬目があって、少年は次の瞬間に自分の答案用紙を彼と同じようにして渡してきた。


 名前をお互いに書き直し、素知らぬ顔で提出すると、彼は逃げるように家に戻った。

 不合格は決まっているようなものだったが、それでもあの少年がどうなったかも気になる。

 だから、不合格の通知が学校に来たときに彼は教師に聞いてみた。今年の主席だという少年の名は、自分が書き直す前に答案に書かれていた名前であった。


(満点だそうだよ。前代未聞だとすごい騒ぎになっている)


 彼は一瞬を置いて、頷いた。

 そして逆転の運命はすぐに訪れた。

 不合格通知から3日目、彼は教師に呼び出され、何故不正をしたのかと尋ねられた。


「不正なんか、してません」

 彼は呟くように答えた。教師はゆるく首を振った。

「字が全く違うそうだよ。私もあちらに呼び出されて解答用紙をみたが、あれは君の字ではないね。満点を取った方の解答用紙が君の字に見える」

「……不正は、してません……」

「君と彼は席が隣同士だったそうだね。君は割に早く答えを書き終わったようだったと試験官の方も言っていた」

「本当に、わたし……」

「相手の子も認めているんだよ。自分の点数が満点だったと知って、泣きながら謝ってきたそうだ」

「……」

「教えてくれないか。何故、答案をすり替えるようなことをしたのかな? 君は主席で、前代未聞の満点で、史上最年少で、記録づくめで合格したのに?」

「……」


 彼は俯いた。事情は何一つ、口に出来なかった。

 口惜しさと諦めなければいけないのだという飲み込めなさが、涙になって落ちた。

 嗚咽になってしまった彼から事情を聞くのを諦めて、教師は母親を呼びだした。


 母は教師からおおよその説明を受けて、彼を見た。

 彼は涙でしゃくり上げながら母親を見上げた。

 家に戻ると母親はぐったりと椅子に座り込んだ。彼はごめんなさいと呟いた。

 母はゆるく首を振ると、彼を手で招いた。母の側によると、温かでふんわりとした匂いがした。


「あの学校は駄目。あそこでなかったら、どこでも好きなところへ行っていいから、中央中等学院だけはやめてちょうだい。お願いよ……」

 頷こうとしたとき、先にその言葉が唇から零れた。

「いやだ」

 彼は自分の言葉に今更気付かされたようにはっとし、それから毅然として首をもたげた。


「僕は、学校に行きたい。早く大人になりたいんだ」

「駄目よ……中央中等だけは、行っては駄目。お願い、そこだけは、本当に諦めて頂戴、お願いだから」

「いやだ!」

 彼は首を振る。今まで仕方ないと飲み込んできたことや、我慢してきた不都合が一気に喉を逆流して駆け上がってくる。


「僕は学校に行きたい! 僕は本当は女の格好するのだって、女言葉つかうのだって、全部、全部いやなんだ! でもちゃんと女の子のふりだってしてるじゃないか! 髪だって毎日染めてるじゃないか! 僕は学校に行きたい! 中央中等から中央高院へ行って、そこでだって絶対に一番になってみせる! そしたら学者にだって偉い役人にだって、僕がやりたい事を選べるんだ!」


 母親は怯えたように首を振るばかりだった。

 どうして、と彼は怒りのままに自分の髪に手を入れて、ぐしゃぐしゃにかき乱す。母が丁寧に編み上げた髪が乱れてまとまりなく崩れた。

「どうしてだよ! 僕は、学校に行きたいんだ!」


 それだけを叫んで彼は自分の部屋に駆け込む。着ていた少女の服装を全て脱ぎ散らかして毛布をかぶり、わあわあ泣いていると、母が寝台に腰を下ろす気配がした。

 優しく、背中を撫でてくれる手。その手に宥められて収まっていく涙が悔しくもあった。


「中央中等に行きたいのね……お前はもっと、沢山のことをしなくてはいけないし、決して学者や役人になんかなれないわ。分かる? 戸籍はちゃんとしているけど、学者にも役人にも、身元の保証人が必要なの。私たちにはそんな人はいないの、分かるでしょう?」


 彼は遅れて頷いた。そう、と呟くと何かが急激に落胆に変わった。

「でも学校に行きたいのね……そうね、でも、お前にはこれ以上は負担だと思うのよ。お前もすぐに大きくなるわ。男の子だから、声が変わる」

 彼は毛布の下から顔を出して、母親を覗いた。

 声、と聞き返すと、母は苦笑した。


「男の子は12、3才くらいから声が低くなって、身体もどんどん男っぽくなっていくわ。喉のここの部分が出て、一目で男だって分かるようになるの。だから、女の子の姿でいられるのもその頃までね……そうしたらいずれ、辞めなくてはいけないわ……」


 彼は母さん、と強い声を出した。

「声が変わるのなら、最初から喋らない。太らないようにする。化粧して学校に行けば誤魔化せる。制服のブラウスは普通の形だけど……」


 彼は寝台の上に起きあがり、教師から押しつけられた入学手続きの書類を鞄から抜き出した。

「ブラウスと制服は、全国の中等学院の共通だけど、中央中等だけは特別の学生ばかりだから、目印にスカーフを巻くんだ。首の所に」

 一瞬、母が返答を見つけられないのに便乗して、彼は強く言った。


「だから僕は、中等へ行くからね。学者や役人になれなくても、他にも沢山やれることはあるはずだから。僕は、学校に行けるならどんなことでもする。将来きっと役にたつからね。それが母さんと、僕のためなんだ」


 ―――口がきけなくなってしまったんです。


 母は周囲の人々と学院の関係者にそう説明して回った。

 不正だとか、不合格の撤回だとか、そんなことで暫く塞ぎ込んでいたら、喋り方を忘れてしまったみたいで。

 ええ、ええ、精神的なものなので、好転することもあると思いますし、魔導の研究の実地や古典の朗読などを配慮していただければ十分だと思います。

 身体が少し弱めなので、出来れば運動科目は見学ということに……


 そしてそれを学院側は承知した。

 彼の優秀すぎるほどの成績はそれらを一介の塵にしてしまう力があった。


 彼が最初に教室に入っていくと、ざわめきがやんだ。天才少女という言葉は既に流布していたし、そうでなくても彼はこの沈黙に慣れていた。

 実年齢よりも少し年上に見える顔立ちに、淡い色の口紅を差して眉を整えた彼の美貌は、その場の全員に一瞬言葉を忘却させるのに十分であった。


 以前の学校にいた頃はかけていた眼鏡は捨て、彼は久しぶりに素顔で他人の前に立っている。

 自分はどうせ、違和感になる。

 年齢も飛び抜けて若いし、試験の時の成績は自分の点数だけで平均点を6点上昇させたという噂付きだ。

 それ以上にこの顔立ちは以前も韜晦しきれなかったほどの麗質で、いずれ少年たちが自分を見る視線に熱がこもっていくのは自明に見える。


 ならば、最初から君臨してやろうではないか。

 少年たちのあしらい方は既に知っていたし、少女たちの扱いはよく分かっていた。

 彼は自分を見つめて唖然としている級友たちに悠然と微笑むと、割り当てられた席に着いた。


 彼の目論見は当たった。一月もしない内に彼は学年の象徴として扱われるようになった。

 誰もが自分に一目置き、丁寧に接し、決して無理や難題を言わなかった。

 礼儀正しい少年たちと少女たち、彼らの崇拝を受け取る資格となる成績も、まるで比較にならなかった。

 特に魔導は講師たる魔導士までが彼の別解や呪文構成を聞きたがった。


 彼は決しておごることなく、誰に対しても謙虚に振る舞い、優しく、柔らかく微笑みながらそれらをこなしていった。


 降るように来る、告白の手紙。

 窒息するほど注がれる、憧憬の視線。

 薄く微笑むだけで、淡く目を伏せるだけで、どんなことでも通った。

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