少年の見た物
披読の音だけが微かに耳へ伝わる静かな場所。情報を司る図書館は今日も利用者が絶えずに、しかし静かに時間を過ごしていた。
私はこの図書館で数ヶ月前よりアルバイトを始めている。アルバイトとは言っても本の貸し出しなどを受付で管理するだけで、要領さえ覚えてしまえば退屈との戦いであった。退屈は神をも殺すという言葉があるが、正に私は有り余る退屈に嫌悪を覚えていた。もっと利用者が増えたらば、私の心を蝕んでゆくこの退屈は紛れるだろうか。そう考えて無駄に宣伝などをしてみたこともあったが、我が宿敵の退屈が倒れる様子は一切無かった。
退屈は増幅してゆくばかりで、遂に私はこの図書館の本を読破しようという、別段に本が好きでもない自分がとうとう壊れてしまったかと思わんばかりの目標のようなものを立てた。
読むなど簡単だ。そう思っていたが、実際読んでみると全ての本から作者の思いが感ぜられてどうにも等閑にできず、ついつい時間をかけて読んでしまっていた。そんな日々を過ごして早二週間経った頃だろうか。
「……ん? 何だこの本は」
私は既に十以上の本を読み、今まで真面目に読んでいなかったこともあって訳も無く調子付いていた。そんな私の目に映ったのは、一冊の見慣れない本であった。
「ふむ」
手に取ってみると、比較的薄く絵本のような本であった。しかし夜をイメージさせられるその表紙にはタイトルが書かれていなかった。タイトルの無い本。私は生意気にもこの異質な存在にひどく興味を惹かれた。早速読んでみよう。そう思い、私は受付まで戻って椅子へ腰を下ろす。さあ、いつもの読書の時間を始めよう。退屈はこの時、既に倒されていた。その代わりに私の仲間には興味がいた。
表紙を開くと、私の視線はその形容し難い絵に釘付けになった。幽霊ではない。怪物でもない。私にはただただ不安になる生命体に見えた。それはふたつの円く円い目をそれぞれ違う方向へやって、不気味な形の体は黒いゼリーのようだった。右側の目が見るのはダリの描いたような歪んだ時計だった。その時計に短針や長針は無く、およそ時計としての機能は果たせないと考えられるものに見えた。次に左側の目の先は一人の少年のようなぬいぐるみだった。その少年は微笑を顔に浮かべているが、大きな口は糸で縫い付けられ、耳はホッチキスの芯が所狭しと埋め込まれていた。右手には包丁のような刃物が握られているが、左手には壊れた携帯電話が紐で固くくくりつけられていた。
「……気味が悪いな」
そう思いながらも、私はもう図書館にいることを忘れていた。ひたすらに絵本へ吸い込まれてゆく感覚が全身を支配していた。抵抗する理由も無く、私はいつもの『惹き付けられる悦び』に快感を覚えていた。
私は妙なスリルを覚えつつ次のページを開いた。そこには可愛い女の子が満面の笑みを浮かべながらスキップをしている絵があった。場所は自宅の庭だろうか。花壇には花が咲き乱れ、影には先ほどの少年が顔を朱に染めて少女を見つめていた。子供が見るには相応しい淡い色調に可愛らしい世界がページ全面に広がっていた。ただひとつ、少年の握っていた包丁に鮮血が付着していたこと以外は。
ふと気付く。この絵本には文字が無いではないか。絵本とは子供向けの絵と文字が織り成す作品であると今までの人生経験上で知っている。しかしこの本には文字が無い。それはすなわちこの本が絵本ではないということを示唆していた。ならばこれは何だ。漫画ではない。小説でもない。ライトノベルでもない。イラスト集、そうだ。イラスト集と言われるとしっくりくる。それならば図書館にあっても驚くことはない。この本が置いてあったのは哲学の棚だったので、子供が絵本と間違えて読んだはいいが怖くてどこでもいいから戻したかった。そんなことだろう。そこで私は何の気無しに視線を上げてみた。
「な、なんだこれは!」
子供がいない。大人もいない。仕事仲間もいなかった。あるのは数百に及ぶ本を収納した函架といつもとは同じようで明らかに違う奇異な静けさだけだった。
「誰もいないのか! おい!」
私は図書館を走り回るが、人の気配は全く無かった。無かった。無かったはずだった。
先ほど座っていた場所から見える読書用の椅子に一人だけ、俯く少年が座っていた。私は取り乱した自分が少しだけ恥ずかしくなって、また椅子に座った。そしてさっき足元に放り出してしまったイラスト集を手に取ってからまた少年の方を向くと、彼はやおら立ち上がりこちらを向いた。その風貌は見覚えがあった。糸で縫い付けられた大きな口、ホッチキスの芯まみれの耳、包丁を握った右手に壊れた携帯電話が紐で固くくくりつけられた左手。あのイラスト集に出てきたあのぬいぐるみ少年だった。
「な……!」
彼は遅々とした動きで、しかし確実にこちらへにじり寄ってくる。その動きは私を凍り付けるに充分なものだった。眼前の異常な風景に焦燥感が頭の回転を急かす。だが次々と生み出される考えが纏まることはなかった。私にできるのはただ本能的な判断に従って行動することそれのみであった。
彼が追ってくる。それは私にとって恐怖であった。私は恐怖から逃れようと受付を脱出し、一般の入り口から図書館を後にした。しかし私が外と思った場所は、まるで真っ黒な地面に絵の具を滅茶苦茶に零したような空間だった。急激な日常からの変化に頭が追いつかず、私は夢を見ているような錯覚に陥った。いや、もしかすると私は読書中に眠ってしまっていたのかもしれない。そうでなければこのような景色を目にしているはずがない。
脳内で正当化の論理を組み立てていると、後方から狂気を孕んだ甲高い笑声が迫ってくる。逃げなければ。私は考える前に足を動かしていた。ただあのぬいぐるみから逃げるためだけに。ここがどこか、それは今の私にとって瑣末なものでしかない。純粋な恐怖から本能的な回避をする、それだけが今の私の目的だった。
早くも息は切れ切れとなり、心臓の鼓動は無駄な焦燥を私に与える。五分ほど走ったろうか、目の前にこの空間で見るには極めて異質な『普通の一軒家』があった。私はそこに逃げ込むことにした。幸いにして大きな花壇があったので、その影に息を殺してそっと隠れた。
「……きーき」
言葉なのかどうか、それすらも分からない音声を発するぬいぐるみが敷地に入ってくる。ともすれば心臓の鼓動さえも聞こえてしまいそうなほどに静かだった。彼は一瞬、いや数分だけ――時間の感覚が曖昧となっている私にはとても長く感じられた時間である――動作を止めた。その後、彼はなんとスキップをし始めた。その表情はこれ以上無いほどに満面の笑みと表現するに値するものだった。彼は一体何がしたいのだろうか、気が狂っているのだろうか。私は冷静にもそんなことを考えていた。しばらくのスキップを終えると、彼は左手にくくりつけられた包丁を頓に自分へと突き立てた。
「!」
その刹那、彼は体から吹き出る緑色の液体と共に溶けてゆくようにして消えた。そして後にはぬいぐるみではない、あの本ではスキップをして笑っていた少女が立っていた。
彼はすぐに私を見つける。しかしじっと無表情を伴って見つめるだけで追いかけてくることはしない。そうしてどれくらい経っただろうか、彼は倏然に涙を滂沱と流し始めた。私は唐突すぎる出来事にやはり反応を忘れて唖然としていた。そしてなぜだろうか、私もまた涙を流したいほどに悲しい気分になった。
「!」
私はどうやら読書中に寝てしまっていたらしい。勢い良く起きたものだから読んでいた本が床へと落ちてしまった。ふと落ちた本を確認するとなんとタイトルがついていた。
「……少年の見た物、か」
それは自分だったのか、それともまた別のものだったのか、私が確認する術は無い。それは手に取った瞬間に涙を一滴だけ残してから、すっと透明度の波に呑まれて消えたのだから。