命綱
「今期の特別美化委員は満場一致で、一年一組安城郁子さんと一年三組泉井千歳くんに決定しました!」
高らかな拍手に包まれながら郁子は驚きすぎて反応できなかった。ここは教室ではなく職員室であり、この場は学級会ではなく職員会議である。室内はほぼ教師のみで埋め尽くされ、校長の横に立たされた郁子たちふたりしか生徒はいない。
「トクベツビカイイン……?」
それはあれか、特別待遇を受けつつ塵ひとつない校内を実現する、さしずめ美化委員の中の美化委員といったもののことか。
放課後に校内放送で呼び出されたかと思えば、まったく予想だにしなかったこの展開である。隣の男子生徒をちらりと見やったところ、郁子と大差ない様子だった。つまり、ちっとも状況が飲み込めていない。
挙手して事の次第を問いただしたいところだが、質問をすることでこの異様な空間に取り込まれ、後戻りできなくなってしまうのではないかと思うと、それもためらわれる。もしかして、聞かなかったことにして立ち去るのが正しい対処だろうか。
できることなら隣の泉井千歳に相談したい。しかしながら彼と自分との間には浅からぬ因縁があり、本来このように近い距離で相対してはならないはずなのだった。
「というわけで、明日からがんばってくれ。よろしく」
血走った目の校長に有無を言わせぬ強引さで手渡されたのは、鋸鎌と黒いゴミ袋だった。うっかりそれを受け取って、郁子は世にも嫌な想像をした。こうなると尋ねざるをえない。
「特別美化委員とは、もしや、マナビヤツルの駆除係ですか」
そのとおり! と校長は吠えた。教師たちはなおも拍手を続けていた。
この国には奇妙な生き物がはびこっている。
それが日本に渡った経緯は諸説ありいまだ詳らかでないが、もっとも有力なのが近世に南蛮人がもたらしたとされる説である。維新ごろまでは毒霧蔓の名称で呼ばれ、その名のとおり霧状の致死毒を吐き出すことでひどく恐れられてきた。緑色の蔓に似た姿形や謎に包まれた生態のために長く植物と思われていたらしい。
彼らが爆発的な増加とともにその凶暴性をむき出しにしたのは戦後のことだった。生まれ故郷と思われるヨーロッパの西端ではすでに絶滅して久しいというのに、日本の気候風土が合ったものか彼らは攻撃的な勢いで増え続け、ついには日本全土に分布するまでに至った。それはとりもなおさず猛毒の蔓延にほかならない。急速に研究が進められ、卵生のれっきとした動物であることが明らかになった。珊瑚等の腔腸動物に近いと主張する学者もいれば、あるいはまったく異なる未知の生物とする論調もある。また、非常に好戦的で、近づく者には無差別の毒霧攻撃をしかけるという性質を持っていた。どう前向きに考えても厄介である。
そしてこの緑の悪魔のもっとも不気味な習性が、一般に学校と呼ばれる建造物を偏愛している点にあった。いつしか彼らは山里や市街から姿を消し、各地の小中高等学校のみを生息地として選んだ。国家の未来を担う若者を狙って某国から送り込まれた生物兵器に違いない、と見る一派の存在するゆえんである。誰が言い出したのか、いまでは学舎蔓という呼び名が定着して久しい。
たまったものではないと悲鳴を上げたのはもちろん、全国の学校施設およびPTAだった。緑の脅威に対する国家予算の大半は学校へ割かれ、子どもたちの平穏な教育の場を守らんとする努力が続けられた。
救いといえるのは、マナビヤツルが完全なる夜行性生物であったことだ。空前の爆発的繁殖力をもって一晩のうちに校舎を舐め尽くすがごとき成長を遂げるものの、陽が出てから駆除してしまえば日中の脅威はない。もっとも、除去し損ねた生き残りをうっかり踏みつけようものなら至近距離で死の吐息を吹きかけられる。夜明けどきが勝負なのだ。
ゆえにほとんどの学校が専門の業者を雇い、毎朝生徒が登校する前にマナビヤツルを駆逐せしめるようにしている。それは郁子の通うこの公立高校も同様だったはずだ。
「――とわたしは記憶しているのですが、校長先生」
「安城さん、きみならわかるだろう。いつの世も中央は辺境に厳しい」
わかりたくなかったので郁子は黙った。すると今度は千歳が口をひらいた。
「こんなド田舎のボロ校はさっさと潰せという圧力ですか」
「身も蓋もない!」
郁子はのけぞった。校長はしきりに汗を拭いている。春だというのに彼のハンカチはすでに汗が滴るほどだった。
身も蓋もないが千歳の言っていることは至極まっとうである。学校という場所が魔の巣窟と化した現在、莫大な資金を投じてまで通学制の授業形態を続ける風潮は廃れている。いまや大部分の学校が通信や衛星放送による非通学形態に切り替えた。この片田舎にもついにその波が押し寄せてきたと見るべきだろう。
「さすがにね、いきなり潰せといわれるほど横暴な話ではないんだ。けれどこの辺鄙で不便な山奥の学校くんだりまで来て毎朝作業をしてくれる業者さんはただでさえ見つかりにくいのに、予算を減らされてしまってはどこにも頼めなくなって……」
「なるほど。だから生徒を犠牲にしようと」
「死人が出れば国もお金をくれるかもしれませんしね」
千歳が真顔で頷いたので、郁子も追随した。校長から滝の汗が流れた。そこに現れたのは校長の救い主たる教頭である。
「大丈夫、きみたちは死にません」
寝言ぬかしてんじゃないわよこの陰険眼鏡中年、と郁子は心の中で呟いた。しかしこの男の確信に満ちた口調からは不穏な予感しか受け取れない。果たして不安は的中した。教頭は言った。
「なぜならきみたちはI型血液の持ち主でしょう?」
思わず千歳の顔を見た。苦虫を噛み潰したような面持ちの郁子と異なり、彼はいたって平静だった。
「I型の人間にはマナビヤツルの毒が効きません。一千万人に一人しかいないという希少な血液型の生徒が同じ学校の同じ学年に二名もいるなんて、奇跡のようではありませんか。これはもう天啓、きみたちの使命に違いありませんよ」
「I型の存在など、よくご存じで」
郁子は額を押さえながらとげとげしく吐き捨てた。奇跡が聞いて呆れる。突然変異の二千万分の二が、こんな過疎地に揃うなどという偶然を、本気で信じているのだろうか。
とまれ教頭の言い分は到底受け入れられないものだ。断るわよ、という意思を込めて郁子は千歳を一瞥し、それから教頭に向きなおった。千歳は砂のごとき無表情で、感情がさっぱり読めなかった。
「教頭先生。わたしは拒否します」
「三年間協力してくれるのなら、K大学への推薦入試枠を保証しましょう」
「誠心誠意務めさせていただきます」
のちに郁子は思う。そのとき郁子の口は郁子以外の何者かの支配下にあったに違いない。陰謀だ。千歳のため息が聞こえた。
「ええと、巻き込んじゃったみたいで、すまないね」
職員室をあとにして廊下を歩きながら、郁子は反省していた。千歳が大学入試の推薦枠を狙っているとも思えない。なぜ迷いもせず彼は引き受けたのだろう。
郁子は泉井千歳という存在をものすごくよく知っている。と同時に、その人となりをまったく知らない。彼のほうも同様だろう。そういうふうに育てられたからだ。
彼自身について知っているのは、泉井千歳という清廉な名前と、大名家の流れをくむこのあたりの名士を父に持つということ、いかつい体格の割に甘めに整った顔立ちが地域一帯の女性陣に大人気であること、世にも稀な血液型であることくらいだった。
ひとり息子の千歳が生まれたとき、その珍しすぎる血を知らされた泉井が金に糸目をつけずにとった行動は、万が一に備えて我が子の血液提供者を確保することだった。そうして遠方から存在を突き止められ、ほど近くに呼び寄せられたのが、郁子とその家族だった。突然仕事を辞めさせられた父も友人から引き離された母も都内の進学校から地方の学校へと転校を強いられた姉も、一度たりと不平をもらさなかった。それは泉井家によるあまりに懸命な手厚い優遇ゆえでなく、ひとえに郁子に対する泉井同様の親心からだったことを郁子は知っている。
何かあればすぐに駆けつけられ、それでいて同じ事故に巻き込まれる心配のない一定の距離を、ふたりは互いに保ち続けた。小学校も中学校も、同じ校舎に通うことはなかった。なぜ高校が同じになったのか、郁子は訝しんでいるほどだった。聞いたところによれば、学校に通うのは本人の希望であったらしい。となればこのあたりに高校はひとつしかないため、同じ高校になるのは避けられなかったのだろう。
「別にいい。それより、なんでそんなに離れて歩くんだ」
「いや、長年の習性が……というか大丈夫なのかね? お父様とかお父様とか」
「血なら定期的に採って保管してある。郁子だってそうだろう」
郁子は思わず立ち止まった。ほぼ初対面といっても差し支えないような男の子に名前を呼び捨てにされ、驚いたせいだ。
「郁子? どうした」
「あ、ううん、なんでも。わたしも献血は欠かさないようにしている、んだけどもさ」
再び足を動かし始める。口を聞いたこともない相手なのに、長い間、郁子にとって泉井千歳という人間は妙に身近に感じられてならなかった。もしかすると彼も同じ思いなのだろうか。十五年間、この感覚を共有してきたのだろうか。
畢竟、千歳は郁子の命綱で、逆もまたしかりだった。
「それなら問題ないだろ。これだけ互いの存在を意識し合っておきながら十五年間話したこともないなんて、気持ち悪いじゃねえかよ」
千歳の言葉が崩れた。こちらが普段の口調なのだろうと知れる。
「それもそうか」
郁子は注意深く避けていた道を渡ることにした。
「では改めましてこちら安城郁子、趣味は木登りで特技は即断即決とバク宙。頼まれれば実演もやぶさかでないけどスカートのときは勘弁してね。今後は特技に草刈りが加わると思いまっす。そんなこんなで初めまして、よろしく千歳!」
差し出した手は満面の笑みで握られた。
「泉井千歳、趣味は格闘技観戦で特技は珠算。郁子とは一生の付き合いになる気がするんで、末永くよろしく。あとこの前バク宙してなかったか? スカートで」
「見たのかおぬし!」
「俺はけっこう、郁子を見ていたんだよ。いつも友達に囲まれて、集団の中心にいて、楽しそうだなーと羨ましかった。同じ血液型でもこんなに違うんだから、俺は血液型による性格診断というものを信じなくなった」
「あらまあ、てっきり一匹狼を気取っておいでなのかと……よしきた、ユーが学校生活をエンジョイできるよう尽力させていただこうじゃないか!」
「――なんていう時期もあったねえ」
「そうだな、思えば遠くへ来たもんだ」
「そう? 毎朝同じことしかしていないのに、どこへ行っちゃったっていうの千歳。でも友達増えてよかったね」
「郁子のおかげだ」
「来る日も来る日も巻き込み続けたもんね! えへん!」
郁子は鎌を振りかぶった。緑色の毒煙をまき散らしながらマナビヤツルが飛びかかってきたからだ。奴らはとことん凶暴なので、毒が効かないからといって油断はならない。気を抜いたが最後、固く鋭い錐のような棘に覆われた蔓に巻き付かれ、一瞬で窒息死か斬首刑だ。
あしかけ三年、何度死を思ったか知れない。教頭が「きみたちならできる! ふたりの体育の成績は素晴らしいと聞いています」と世迷い言をぬかしたときはその意味のわからなさに、鎌を向けるべき真の敵を見つけたと確信もしたが、それでもなぜか郁子はこの任務から逃げなかった。千歳も変わらず、特別美化委員会の構成員はずっとふたりのままだ。なお、郁子たちの卒業とともにこの高校は廃校となる。最初で最後の委員会なのだ。
「えいやー!」
防刃手袋で蔓をつかみ、すかさず鎌で斬りつける。お見事、と千歳が差し出したゴミ袋に蔓の残骸を投げ入れた。
「生きるって他を殺すことよね……」
「えらく達観したもんだな」
末端をいくら切り刻んでも意味はない。一見大きく成長しすぎた蔓草のようなこの生き物の正体は、実のところ数十の本体から成る。蔓を末端から太くなるほうへたどっていくと、それは見つかる。バスケットボールほどの大きさの、鮮やかな緑の丸い物体がそれだ。これを仕留めねば緑の手足の増殖は止まらない。
「郁子」
「おうよ!」
今度は親切にも向こうから本体が来てくれた。探す手間が省けたなと喜びながら、突進してきたそれを郁子は思いきり蹴り上げた。緑玉が宙を舞う。真下には千歳がいるので郁子はただ見ていればよい。もはやアイコンタクトの必要もないほど、郁子と千歳の意思疎通は尋常ならざる域に達している。千歳は毒霧を浴びながら特別仕様のスタンガンを敵に突き付けた。耳障りなバチバチという音とともに閃光が広がる。瞬く間にマナビヤツルは焼け焦げ、屍と化した。
郁子は無言でゴミ袋を差し出した。ずしりと袋が重くなる。
「今日はこれで全部か? お疲れさん」
ただし恐ろしいことに、奴らは夜に卵を産む。小賢しくも人の目に触れない場所のあちこちに点在させるため、朝のうちにすべてを回収することは難しい。孵化するのも夜間に限られるので円滑な学校生活に支障はないが、翌晩には卵から孵って元の木阿弥だ。それがゆえに、特別美化委員の不断の努力が求められるのだった。
「お疲れー。今日はなんだか多かったよね」
ぐっと伸びをして互いを労う。機を見て郁子は胸の前で腕を組んだ。
「さて、じゃあその憂い顔について聞こうか」
「ばれたか」
「わからいでか。慰めてあげるよーん。またふられちゃったの?」
がっくり千歳は肩を落とした。おおよしよしと頭を撫でたくなる落ち込みようだ。これはいよいよ間違いない。
幼いころに母親を亡くしていることと関係があるのかないのか、彼は女性という生き物をこよなく愛している。また、大抵の女性も彼を愛する。立派な体躯で見目はよく優しく饒舌すぎず、惚れっぽいが特定の相手がいる間は脇目もふらず一途に愛してくれる、そんな恋人はそうそういない。郁子さえなぜ自分が彼に惚れないのか不思議なほどだった。
しかし残念ながら千歳の蜜月が長続きしたためしはない。必ず相手の女性に去られてしまうためだ。
「原因はいつもと同じなの?」
千歳は首肯した。
「やっぱり。まあ、そういう相手を選んでいるんだから、避けられない事態ではあるんだろうけど……不憫」
千歳の恋人に対する束縛は激しい。それはもう並大抵のものではなく、見ていておののくほどだ。正直に言って郁子なら三日と耐えられない。しかし彼ほどの男に熱烈に縛られるのなら悪い気はしない女性が多いらしく、往々にして相手側もそれを受け入れ、ますます泥沼化していく。その彼に誰とも違う特別扱いを受けるほかの女の存在など、女性からすれば許せるわけがない。朝が早いせいで自主的な門限は夜七時、休日は特別美化委員会の一斉清掃活動のため毎度半日が潰れ、しかもその時間は常に自分ではない女と一緒にいるのだ。どういう了見だと怒りたくなる気持ちもわかる。かくして郁子はすさまじい嫉妬の怨念を一身に浴びる羽目になった。
大切な相棒の恋人なのだから、郁子としては仲良くしたいと思ってやまないのだが、何度か恋の破局に巻き込まれてついに諦めた。以来、歴代の彼女とは節度ある距離というか完全なる不干渉を保つよう心がけている。それでも郁子が原因で千歳が失恋する繰り返しには変わりなく、申しわけない気もするが、千歳は決して郁子を遠ざけようとしなかった。それが嬉しい。
「きっと今回も運命の人じゃなかったんだよ、千歳。次があるって」
「運命の人か……郁子も、初恋の君とやらがそうだといいな」
「余計なお世話、とは言わないでおく。ありがとよっ」
郁子は千歳をにらみつけた。彼にだけは、この田舎に引っ越してくるまでいつも一緒にいた少年の話をしたことがあるのだ。ああ、みっくんお元気ですか。わたしは今日も溌剌と鋸鎌を振りかざして殺戮活動に励んでいます。
にやにや笑っていた千歳のまとう空気が突如、鬼気迫るものに変わった。
「伏せろ!」
即座に郁子は指示に従った。千歳の言葉は無条件に信じることにしている。すると千歳が懐から取り出した拳銃のようなものを構えた。間髪を入れず風を切り裂く鋭い音が、ついで郁子の頭上で破裂音が響き渡った。素早く横に移動すると、もといた場所にマナビヤツル本体のなれの果てがびちゃりと落ちた。千歳のしわざなのは疑いようもない。銃弾が炸裂するタイプの武器だろう。
「……まだ残っていたとは。日の出後なのに元気だなんて、反則じゃないの」
「立てるか」
抱き起こされたが、今日は数が多くて疲れていたので、逆にその腕を引っぱって千歳を座らせた。もたれるものが欲しかったのだ。
「ちょっと、休ませて~」
「存分に」
急な戦闘のあとなので少し速い鼓動が聞こえる。郁子は千歳の胸に耳を押し当て、その身体に流れる赤い液体を思う。縁もゆかりもなかったはずの自分と彼とを結びつけたこの血と同じものが、郁子の体内を廻っている。魂がしびれるような感覚に身が震えた。
「郁子は、なんか違うな。ぞくぞくする」
密着した郁子の内心を読んだかのごとく千歳が呟いた。
「俺って根っからの女性博恋主義なんだけど、なぜか郁子だけが例外。どういうわけなんだろうな、不思議だ。男だと思ってるわけじゃないし、それどころか郁子が郁子じゃなければ即プロポーズしてもおかしくないくらい好みなのに、なんか郁子だけは違うんだ。男とか女とかじゃなくて、郁子は郁子。ってことなんだろうなあ。たとえばこの世の危機がきたとして、俺は命をかけてでも愛する女性を守りたいと思うけど、郁子となら一緒に死んでもいいかも」
「……そうね、おおむね同感」
大好きなのは間違いないのに、恋ではなく性愛ではなく独占欲もなくときめきもない。けれど家族と同じかそれ以上に大切に愛していて、離れがたい。この気持ちは友愛と呼ぶにもしっくりこないようだ。
「冷静に考えて、気持ち悪いよねわたしたち」
「それを言っちゃおしまいよ。ああ……双子ってのが近いのか? なあ相棒」
その言葉は郁子の心にすとんと落ちた。いいかもしれない。
「わたしはね、千歳は命綱なんだと、ずっと思ってた」
「ああ。親父あたりはまさにそう考えてるかもな。けど俺たちは、なんつうか、互いにしがみついてないと命の保証が得られないとか、そういうんじゃないはずだろ」
そう千歳は軽く言ってのけた。
「でも、千歳がいないと、わたしはわたしがわからなくなる」
ごくたまに、頻度で言うと六年に一度ほどだが、足がすくむ。安城郁子という人間の核を溶かし散らされるような恐怖に襲われる。I型ってなんだ、わたしはどこの誰なんだ、人間なのか、生きているのか、ここにいていいのか、そういうことを叫びたくなる。それはどういうわけか、緑色をした不安だ。
「……弱気な郁子を、初めて見た」
なぜか千歳は嬉しそうだった。先日ポケットの中から五百円玉を見つけてはしゃいでいたときと同じ反応に見えてならない。ちょっとどうなのと思う。
「もし、わたしが将来マナビヤツルになることがあったら、千歳はスタンガンや銃じゃなくて、鎌でわたしを殺してね」
「何言ってんだ。やだよ、そんな不毛なことするより、そのままアマゾン奥地にでも遊びに行こうぜ。俺を蔓で絡め取ってくれよ」
郁子の命綱たるこの男は、何も考えていないように見えて、たぶん本当に何も考えていない。
「このドM」
「郁子、珍しく慈愛の聖母みたいな顔して言うことがそれなのか」
「ところで、それって新製品?」
さきほどマナビヤツルを絶命せしめた拳銃もどきを指して尋ねた。
「試作品。きのう親父に渡された」
千歳の父親はマナビヤツルの撲滅に生涯を捧げているといっても過言でない。泉井の最大事業は対マナビヤツルの解毒研究や効果的な武器の開発だった。
彼の妻、つまり千歳の母親は、かの魔物の毒が原因で亡くなった。マナビヤツルの毒は極めて致死性が高い。まともに浴びればほぼ即死であり、ごくごく少量でも取り込めば決して体外へ排出されることなく徐々に身体を蝕んでいく。
息子を危険な目に遭わせる学校の暴挙を、父たる泉井が許すはずがないと郁子は当初確信していたが、実際は違った。その理由を、息子への愛情の欠如と見るのは誤りだろう。泉井は緑の悪魔を誰より憎んでいるのだ。
「テストユーザは多ければ多いほどいいんだから、郁子も使えばいいのに。とことん鎌が好きだよな」
「知っているくせに。メカの非接触破壊にかけては天賦の才の持ち主、それがわたし! ぜひ破壊神と呼んでちょうだい、少しは気が慰められるから。つきましては、原始的な道具でないと使いこなせないんでございますよ」
「これはメカなのか……?」
腑に落ちない様子の千歳を無視して郁子は立ち上がった。今朝の美化活動は終わりだ。保健室あたりでひと眠りしたい。マナビヤツルの毒は幸いにして空気中での寿命が極めて短いので、数分もすれば校内の毒霧は無害化するはずだ。
堂々と立つ郁子の背中を眺めながら、知らないんだろうな、と千歳は内心ひとりごちた。
厄介な特異体質などものともせず、いつも豪快に全力で毎日を楽しんで、どこにいても人に囲まれて笑う彼女に、千歳はずっと近づきたかった。大勢いる友達のひとりになりたいわけではなかった。安らぎや情熱や「おかえり」という言葉をくれる恋人に、なってほしいわけでもなかった。
誰に対してもあまねく等しく分け隔てなく大切な友の顔ができる郁子に、たったひとり特別な位置づけを与えてもらったことで、どれほど血がざわめく優越感を千歳が覚えているかなど、彼女は知らなくてよい。
「郁子。卒業後はやっぱり大学に行くのか」
「うん、たぶんね。千歳は?」
「マナビヤツル特別対策班に所属、ってのが今のところ有力」
わお、と郁子は目を丸くした。立ち止まっている間に千歳が追いついてきた。
「毒蔓Gメンになるの?」
「郁子も誘いを受けてるんじゃないのか」
「あったような、なかったような……」
特別対策班はれっきとした国家機関に設置されている、マナビヤツル対策の本陣だ。その特性柄、泉井の事業との関わりも深い。I型の人間というのは生身でマナビヤツルの毒に対抗しうる唯一の存在であるため、専門の機関に囲い込まれることが多いということか。言われてみれば当たり前かもしれない。
「I型の人間は、マナビヤツルの毒を受けた人間の直系に生まれやすいって、知ってたか」
「初耳」
さもあらんと千歳は頷いた。
「I型自体が希少なせいで、データがなかなか集まらないからな」
I型血液は日本国内でしか確認されていない。AB型の亜種とも言われる。最初に発見されたのはマナビヤツルが激増した戦後まもなくのころだ。郁子の父方の祖父も若いころに毒を吸い、じわじわ死に至ったと聞いている。
「知ってのとおり俺の母さんは毒で死んだし、実は親父も末期だ」
なんということだ。郁子は言葉を失った。彼はいったいどんな気持ちで、この三年間、親の仇を狩り続けたのだろう。その息子の彼がI型であったことには、いかなる意味があるのだろう。
「マナビヤツルの駆逐は親父の悲願だ。果たしてやろうじゃねえかってな」
I型血液の持ち主として専門機関に身を委ねるということはつまり、マナビヤツル駆除要員であるとともに、もしくはそれ以上に、貴重な実験体としての意味合いが強いと考えられる。危険なうえに精神的にも過酷な生活を強いられるのではないか。
郁子は不安になった。けれど、すべてを承知で千歳は決意しているのだ。
「よし」
特技は即断即決だ。
「じゃあわたしも行ったろうじゃないの」
千歳は一瞬だけ言葉につまったような顔をして、すぐに相好を崩した。
「よかった。郁子ならそう言ってくれるんじゃないかと期待してたんだ」
「お見通しねハニー」
「ダーリン、きみのことなら」
顔を見合わせてふたりは吹き出した。腹を抱えてげらげら笑う。
「千歳はさみしがり屋さんだもんね」
「東京に行けば愛しのみっくんに会えるかもよ、って奥の手も用意してたけど」
郁子は口元をゆるめたまま千歳の頭を小突いた。
「アホなこと言ってないで、行くわよ相棒。眠いわ」
「おう。俺もだ」
決して平坦ではないだろう道を選んだ。けれどそれは、生まれたときから決まっていたことのようにも思えるのだ。なんといっても郁子はひとりではない。今このときのように、いつも千歳の横に、あるいは互いに背中を預けて、凛と立っていたいと願う。
ふたりは朝日の差し込む廊下を颯爽と歩いていった。
おわり
前回までで手持ちの札を出し尽くしたため、あとは当分放置の予定でした。
しかしながら、涙が出るほど嬉しい感想をいただくに至り、舞い上がって調子に乗ってみました。
俺、ひとりじゃなかったんだぜ……。とんでもハップンだぜ……。
お読みいただき、まことにありがとうございます。




