ナマズの証人
1 小さな揺れ
食器棚が、カタ、と鳴った。
美智子が箸を止めるより先に、向かいに座っていた真由が顔を上げた。味噌汁の表面に浮いていたねぎが、ゆっくり揺れている。
「これも人工地震かも」
大学3年生の娘は、天気の話でもするように言った。
「人工?」
「すべての地震がそうだって意味じゃないよ」
真由は笑った。
そのとき、家の前を大型トラックが通り、窓ガラスがわずかに震えた。
「ほら。あれだって人間が地面を揺らしてるでしょう。もちろん地震とは違うけど。でも、地下で爆発を起こせば地震波も出るし、人間活動で誘発される地震もある」
真由はスマートフォンを操作した。
「北朝鮮の地下核実験だって、日本の気象庁が地震波を観測してる」
美智子は差し出された画面を見た。
気象庁。
確かに書いてある。
娘が明白な嘘を信じているわけではないことに、少しだけ安心した。
「最近、そういうこと勉強してるの?」
「うん。ナマズの証人で」
安心は消えた。
「何、それ」
真由は一瞬ためらった。
「宗教」
美智子は箸を置いた。
真由も、自分が何を言ったか分かっていた。
「お母さん」
「あなた、お父さんが何に殺されたか覚えてるよね」
「覚えてる。でも、そこは違うよ」
「最初はみんな、そう言うの」
食器棚はもう揺れていなかった。
* * *
真由の父、修一は弁護士だった。
真由が小学2年生のころ、悪質な宗教団体「澄律帰環会」の被害者支援に携わっていた。
高額献金。脱会者への脅迫。家族との隔離。
修一は信者だったわけではない。
むしろ、信者を助けようとして殺された。
教団関係者による犯行だった。
修一は生前、よく言っていた。
思想が奇妙であることと、人を傷つけることは分けて考えなければならない。
美智子も、かつてはそう思っていた。
けれど、正しく区別していた夫は帰ってこなかった。
あの朝、「今日は行かないで」と一言言っていたら、と何度考えたか分からない。
意味のない後悔だということも分かっていた。
それでも、美智子の中には、夫の死から動かないものが1つあった。
夫を殺した宗教に、娘まで殺されることだけは、なんとしても防ぎたい。
それだけだった。
2 大鯰
数日後、真由は冊子を美智子の前に置いた。
青い表紙に、ひげの長いナマズが描かれていた。
「ちゃんと知ってから嫌ってほしい」
美智子は嫌だったが、読んだ。
ナマズの証人では、地底に巨大なナマズ――大鯰――が眠り、その身じろぎが大地を揺らすと伝えられていた。
美智子はそこで読むのをやめそうになった。
「これ、本気で信じてるの?」
「人による」
「神様なんでしょう」
「神様として拝む人もいるよ」
「真由は?」
娘は少し考えた。
「私は、例え話に近いと思ってる」
教団の中でも解釈は割れているらしい。
地底に本当に巨大なナマズがいると信じる者。
大鯰とは地殻に蓄えられた巨大な力の人格化だと考える者。
大鯰とは、人類が結束したときに生まれる巨大な力そのものだとする者。
そして最近は、
大鯰とは、全人類踏鳴減災仮説に参加する全人類そのものである。
という解釈が広まりつつあった。
「神様が人間なの?」
「そう考える人もいる、ってこと」
「好き勝手すぎない?」
「そこがいいんだよ」
真由は初めて少し楽しそうに笑った。
教団創設者の鯰江隆史は、教義を細かく確定しなかった。
信者が解釈し、文章を書き、議論し、後から来た者がまた書き換える。
中心にあるのは、いくつかの短い考えだけだった。
人工地震は存在する。
小さい力は、ゼロの力ではない。
同じ目的を持つ者が力を同期させれば、一人では起こせない変化を起こせる。
そこから生まれたのが「全人類踏鳴減災仮説」だった。
将来巨大地震として一度に解放される力を、人類が十分な知識を得て完全に協調できるようになれば、小さな人工地震として時間的・地理的に分散させられるのではないか。
今すぐ実行できる技術ではない。
教団自身も未証明仮説としていた。
しかしテレビやネットでは、
「全人類を操って巨大地震を起こす新興宗教」
と紹介されることが多かった。
美智子は、それを誤解だとは思えなかった。
地震を起こそうとしていることには変わりがない。
真由は違うと言った。
「大地震を防ごうとしてるんだよ」
「失敗したら?」
「だから今はやらない」
「成功する証拠は?」
「ない」
「じゃあ何で信じるの」
真由は困ったように笑った。
「証拠がないから、考えてるんだよ」
3 6,600円
会費は月6,600円だった。
献金や集会費を合わせると、真由は月1万円前後を使いたがった。
「そんなものに出すお金はありません」
美智子は言った。
真由はアルバイトをしたことがなかった。
面接が怖いと言い、大学生なのだから学業に集中すればいい、と自分にも母にも言い聞かせていた。
だから、美智子はこれで終わると思った。
「じゃあ、自分で稼ぐ」
翌週、真由は人生で初めて履歴書を書いた。
1社目は落ちた。
2社目のスーパーで採用された。
初給料で教団の会費を払い、美智子にはプリンを買ってきた。
美智子は、そのプリンを喜んでいいのか分からなかった。
しばらくして、真由が大学の知人を集会に誘っていることも分かった。
「勧誘までしてるの?」
「証言って呼んでる」
「同じでしょう」
ナマズの証人は、「人工地震が存在する」と他者へ伝える活動を証言と呼んでいた。
同時に、
誰かの小さな行動によって、自分の人生が動いた経験
を語ることも証言と呼んだ。
「私も紗季に誘われたから入ったんだよ」
紗季とは、真由の大学の同級生だ。
「迷惑だと思う人もいる」
「それはそう。嫌だって言われた人には、もう言わない」
問題がないとは思えない。
だが、美智子が宗教をやめさせるために出した条件を、娘は1つずつ越えていった。
自分のお金で払え。
なら、働く。
親の家に住んでいるから余裕があるだけだ。
なら、就職する。
教団仲間と模擬面接をし、履歴書を見てもらい、真由は大手企業から内定を得た。
合格の電話を切った娘を、美智子は抱きしめた。
「おめでとう。頑張ったね」
真由は泣いた。
美智子も泣いた。
その日の夜、娘は教団の仲間にも合格を報告した。
4 真由さんに聞けば
美智子は、ナマズの証人の集会へ行った。
娘を取り戻すためだった。
会場は貸しホールだった。
怪しい祭壇も、異様な服装もなかった。
壁には大鯰の絵が掲げられていた。
集会の冒頭だけ、参加者が短い言葉を唱えた。
地の底なる大鯰よ。
我らの小さき足音を聞き届けよ。
我らを1つにするのではなく、互いの足音を聞かせ給え。
終わると、普通の会議になった。
ある男性が、
「全人類の足から生じるエネルギーで巨大地震を起こせる」
という説明をした。
真由が手を挙げた。
「それは無理だと思います」
美智子は娘を見た。
「人間が地震のエネルギーを作るんじゃなくて、もともと自然界に蓄積されている力の解放に介入できるか、という仮説でしょう」
男性が反論する。
真由も反論する。
別の人が口を挟む。
その場で結論は出なかった。
美智子は論点の不明点をつぶやいた。すると後ろの席の女性が、美智子に小声で言った。
「そこは真由さんに聞けば一番詳しいですよ」
真由は「地区世話人」という役を任されていた。
新人を案内し、集会を調整し、オンラインで議論が荒れると仲裁する。
大学では、ほとんど誰からも名前も出されなかった娘だった。
ここでは何人もの人が、真由を名前で呼んだ。
休憩中、美智子は配布資料を指した。
「これも、鯰江さんに教わったの?」
真由は読んだ。
「そこ書いたの、私だよ」
「真由が?」
「最初の文章が変だったから、みんなで直した」
そのとき、美智子は初めて怖くなった。
教祖に娘を作り替えられたのなら、まだ戻せると思っていた。
しかしここには、娘自身が作ったものがあった。
午後、踏鳴会が行われた。
大きく跳ぶわけではない。
全員が一定の拍子で地面を踏むだけだった。
誰かが間違えた。
笑いが起きた。
真由も笑っていた。
美智子は、こんな顔をする娘をしばらく見ていなかった。
帰り際、初参加の男性が真由に尋ねた。
「来週もいますか」
「います」
真由は即答した。
「日曜日、ここです」
その言葉が、美智子の中に残った。
5 次の日曜日
代表の鯰江は、美智子の質問に意外なほど簡単に答えた。
「信者が増えれば儲かるんでしょう」
「増えた方が収入は安定します」
「教義まで信者に作らせるのは?」
「自分たちで作った教えの方が、自分たちの場所になりますから」
「辞めにくくもなる」
鯰江は少し考えた。
「それもあるでしょうね」
美智子はその答えを嫌った。
「大鯰なんて、本当に地底にいると思ってるんですか」
「髭の生えた巨大な魚が地下を泳いでいるか、という意味なら、僕はそこを重要だと思っていません」
「神様なのに?」
「地の下には僕らより遥かに大きな力がある。それを大鯰と呼ぶ。大鯰を人類全体だと考える人もいる。宗教って、そういうものでしょう」
「便利ですね」
「便利ですよ」
鯰江は笑った。
美智子は、やはりこの男を信用してはいけないと思った。
すると鯰江は、急に真顔になった。
僕は、孤立している人に次の日曜日の予定を作りたいんです
百人で地面を踏むなんて馬鹿でしょう
でも百人で馬鹿なことをする約束があれば、その百人には日曜日まで生きる理由がある
美智子は返事をしなかった。
帰り道、真由が聞いた。
「来てみて、どうだった?」
美智子は一瞬だけ迷った。
娘があそこで誰かに必要とされていたことを認めてもいいのではないか。
そう思った。
そして、夫を思い出した。
修一も、人を信じた。
信仰と加害を分けて考えた。
そして死んだ。
「話せてよかった」
美智子は答えた。
真由は安心したように笑った。
その夜、美智子は亡夫のノートを開いた。
思想の異様さではなく、具体的な侵害を見ること。
夫の文字だった。
美智子はノートを閉じた。
「だから、あなたは殺されたのよ」
誰にも聞こえない声で言った。
6 1か月
「1か月だけ、離れてみて」
美智子は頼んだ。
「洗脳されていないなら、1か月くらい離れられるでしょう」
「終わったら戻っていいの?」
「ちゃんと生活できていたら、お母さんも考え直す」
真由は迷った末、了承した。
教団側も、
「お母さんを安心させておいで」
と送り出した。
美智子には、それさえ巧妙に見えた。
2週間もすると、真由は明らかに元気を失った。
日曜日も家にいた。
昼まで眠った。
会話が減った。
美智子は、離脱症状について調べた。
1か月後。
「今日で1か月だよ」
真由が言った。
「みんなに連絡していい?」
美智子は答えられなかった。
「……もう1か月だけ」
「約束したじゃん」
「今のあなたを見たら、戻していいと思えない」
「友達と1か月話せなかったら、普通につまらないよ」
「ほら。そこまで依存してる」
「約束を破られたから怒ってるんだよ!」
「自分では、そう思うんだよね」
真由が黙った。
その瞬間、美智子は勝った。
真由が何を言っても、もう反証にはならなくなった。
7 オヤカク
入社を3か月後に控え、会社から保護者向けの資料が届いた。
美智子は、それを見て思いついた。
「会社から聞かれたら、お母さんは嘘は言えない」
真由の顔が強張った。
「何を言うつもり?」
「宗教のことで家族が深刻に揉めてるって」
「仕事には関係ない」
「関係が出てからじゃ遅いでしょう」
真由は調べた。
親が反対したからといって、それだけで内定が取り消されるわけではない。
それは分かった。
けれど、だから安心できるわけでもなかった。
「入社する前から、人事に『宗教で家族ともめてる人』として覚えられたくない」
「ちゃんとした会社なら、それだけで差別したりしないでしょう」
「しないかもしれない」
真由は言った。
「でも、分からないでしょう」
自分が何度も面接を受けて、ようやく得た会社だった。
面接で見せた自分として入社したい。
家族問題の説明から始まる社員になりたくない。
美智子は条件を出した。
入社までの3か月、実家にいること。
ナマズの証人とは接触しないこと。
入社してもしばらく一人暮らしをしないこと。
「それって、就職を人質にしてるんだよ」
「そう思われてもいい」
「会社に言うんでしょう。私が従わなかったら」
「聞かれたら、嘘は言えない」
真由の唇が震えた。
「それをやったら、絶対に許さない」
美智子は黙っていた。
真由は立ち上がった。
「お母さんが私の就職の邪魔をするなら」
声が途切れた。
言ってはいけない言葉が、もう口の中まで来ているようだった。
それでも真由は言った。
「私は、お母さんを殺す」
言った本人の方が驚いていた。
真由の顔から血の気が引いた。
けれど、撤回はしなかった。
美智子は娘を見上げた。
怖くなかったと言えば嘘になる。
それでも、目を逸らさなかった。
「それで構わない」
真由が眉を寄せた。
「……何?」
「あなたに殺されても構わない」
美智子は静かに言った。
「私は、お父さんを殺した宗教から、あなたを守りたい」
「あそこは、お父さんを殺してない!」
「分かってる」
「分かってないよ!」
真由が叫んだ。
美智子は立ち上がらなかった。
「同じことが起きてからじゃ、遅いの」
そして初めて、言葉にした。
この命に代えても、あなたを守る
真由は何も言わなかった。
「お母さんを憎んでもいい。二度と口を利いてくれなくてもいい。本当に殺したいくらい嫌いになってもいい」
美智子は続けた。
「でも、生きていて」
真由の頬を涙が流れた。
「私は、生きたいよ」
美智子はうなずいた。
「だったら、守らせて」
真由は顔を伏せた。
しばらくして、かすれた声で聞いた。
「会社には何も言わない?」
「約束を守ってくれるなら」
真由は条件を飲んだ。
入社までの3か月、教団と接触しない。
実家にいる。
一人暮らしもしばらく延期する。
美智子は、娘を守れたと思った。
8 正常な生活
4月。
真由は無事に入社した。
美智子は内定を潰さなかった。
入社式の日には早起きし、朝食を作り、玄関で写真を撮った。
あの夜のことを、2人とも口にしなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
夕方、真由は帰ってきた。
それだけで、美智子は嬉しかった。
宗教なんかなくても生きていける。
そう思った。
だが、会社で真由はうまく馴染めなかった。
いじめられたわけではない。
皆、普通に親切だった。
ただ、昼食へ行く輪に入り損ねた。
雑談のタイミングが分からなかった。
飲み会にも2度参加したが、ほとんど喋れなかった。
資料の曖昧な表現を細かく指摘すると、
「高瀬さんって細かいね」
と笑われた。
悪意はなかった。
真由も笑った。
ナマズの証人では、
「そこ、真由さんに聞けば分かる」
と言われた。
会社では、
「そこまで気にしなくてもいいよ」
と言われた。
どちらも間違ってはいなかった。
仕事はできた。
遅刻もしなかった。
研修の成績も悪くなかった。
それでも昼休みには、1人でスマートフォンを見ていることが増えた。
かつて毎日のように鳴っていた教団のグループ通知は、もうなかった。
教団との約束は3月までだった。
だから4月になれば、真由は自分から連絡することもできた。
しかし、しなかった。
母との約束をまた壊すこと。
あの夜に言った言葉。
会社に慣れる前に、再び家でも争うこと。
いくつもの理由が積み重なった。
美智子は、それを娘自身が宗教を必要としなくなった証拠だと思った。
「会社どう?」
「普通」
「友達できた?」
「会社って、友達作るところじゃないでしょう」
その通りだった。
だから、美智子はそれ以上聞かなかった。
土曜日、真由は眠った。
日曜日も眠った。
ある日、美智子が尋ねた。
「今日、何かしたいことない?」
真由は少し考えた。
「……別に」
美智子は、暑いからね、と答えた。
9 居場所
真由は、自ら命を絶った。
方法について、美智子は人に話さなかった。
机の上に、小さな紙が1枚だけあった。
遺書と呼べるのかどうかも分からなかった。
書かれていたのは、1行だけだった。
私には居場所がない。
美智子は何度も読んだ。
会社で何かあったのか。
宗教をやめた反動だったのか。
まだ洗脳が残っていたのか。
答えはなかった。
会社の人たちは葬儀に来た。
真由について、
「真面目でした」
「分からないところを、そのままにしない人でした」
「もっと話しかければよかったです」
と言った。
その言葉を聞くたび、美智子は胸の奥で何かが動くのを感じた。
けれど、それが何なのかは分からなかった。
ナマズの証人からも花が届いた。
紗季の名前もあった。
小さなカードが添えられていた。
次の踏鳴会では、真由さんの分まで1回多く地面を踏みます。
美智子はカードを握り潰した。
「死んでもまだ、この子を利用するの」
花だけは捨てられなかった。
夜。
真由の遺影の前に座った。
隣には修一の写真があった。
夫も守れなかった。
娘だけは守るつもりだった。
嫌われてもよかった。
自分が殺されても構わないと思った。
娘が生きているなら、それでよかった。
美智子は写真に向かって言った。
「ごめんね」
声が震えた。
「今度こそ、守ろうと思ったのに」
そして、遺書を握ったまま言った。
「最後まで、洗脳を解いてあげられなかったね」
そのとき。
食器棚が、
カタ。
と鳴った。
美智子は顔を上げた。
もう1度、小さく揺れた。
やがて収まった。
「これも人工地震かも」
そう言う人は、もういなかった。
了




