死んだはずのアリス
短編を投稿します よろしくお願いします
「残念だが、婚約は破棄するしかないだろうな……」
廃屋で、私は目の前にいる婚約者を見下ろしながらそうつぶやいた。
……もっとも、もうそれどころでは無いとは思うが。
私の婚約者、アリス・シルヴェイン伯爵令嬢は犯罪者。それは王国中の誰もが知る確かな事実だった。ヴィオラ・メイオール男爵令嬢の侍女にひどいやけどを負わせ、さらに彼女の愛犬を焼き殺した精神異常者。
アリスは床に膝をつき、柔らかな栗色の髪は乱れ、小さな体を震わせながら真っ直ぐに私を見上げている。幼なじみで婚約者の愛らしい顔だけは昔から変わらない。
だが、もうその顔には騙されない。その天使のような顔には。
あのアリスが。私の知っている、誰よりも優しかったアリスが、どうしてこんなことに。
「エドワード様、これは何かの間違いです。私は嵌められて……」
「うるさい!! 誤解だというのなら、なぜこの国の人間のほとんどがお前を犯人だと信じているのだ!!」
いずれ父の爵位を継げば、私は伯爵、アリスは伯爵夫人として、夢にまで見た新婚生活が待っていたというのに……。
こうなっては仕方が無い。
「……時が来ればお前の家は裁かれる。賠償を命じられ、財産を失い、家そのものを取り潰されることもあるかもしれない。お前自身も、危険人物と見なされ追放されるだろう」
アリスが傷つけたのはヴィオラ本人ではない。あくまでその所有物である犬と侍女なのだ。だから、危害を与えたという扱いにはならないかもしれない。
王家とて、一人の貴族令嬢に身体罰を科すのは難しい。他の貴族たちが、自分たちの身分や特権まで脅かされると反発し、王家との政治的な対立に発展する恐れがあるからだ。
王家の決定に懐疑的な慎重派の影響もあり、結局は誰もが納得できるような当たり障りのない結論に落ち着くのかもしれない。
だが、それでいいのだろうか。
私は暖炉に差し込まれていた、鉄の火かき棒を引き抜いた。ずしりと重く、先端が赤く熱気を放っている。
「……だが、その程度で、お前に痛めつけられたものたちの心が晴れると思うか?」
目には目を、歯には歯を。
私はアリスを憎んでいるだけではない。私はヴィオラの、そして傷つけられたものたちに代わって裁きを下すものなのだ。
「な、何を……」
震えているアリスの元へと私は一歩踏み出した。
「え、エドワード……やめて……、そんなものを向けないで……」
彼女の瞳が、手にした火かき棒へと向けられていく。
「ああ、怖いだろう。そうだろうとも。これは死ぬほど熱い。こんなものを当てられれば、死んでしまうだろうな、死ななくてもひどいやけどにはなるだろうさ。お前が人様の侍女や犬にしたのは……そういうものなんだよ……!!」
「ひっ……」
私は目の前のアリスに近づいていく。
必死の抵抗をするアリス。手元にあるものを手当たり次第に投げつけてくる。
「嫌だ!! 嫌だ!! やめてぇええええええ!!!」
「ええい、アリス!! こんなことをしてただで済むと思っているのか!!」
ついに、左手で押さえつけた。私の手をつかんで、ジタバタと暴れるアリス。
だが、私の力にはかなわない。
そして、赤く燃えさかるそれをついにその柔らかな顔面に押しつけた。
しっかりと。
「熱い、やめて、熱いぃいいいいいい!!!」
じゅうううううと焼ける音が聞こえる。
焼けていくアリスの顔面を見ながら、私はどんな顔をしていただろうか。
可哀想だとか、非情だとか、他の人から見ればそう思うかもしれない。だが私は、これが当然の仕打ちのように感じた。
それは憎いからだろう。信じていたアリスに裏切られて憎いから。きっとそうに違いない。結局私は誰よりも早くアリスの元にたどり着いた。それも、その憎さからだろう。
何かを覆い隠すように、そういった感情が一気にあふれ出た。
だが、それが何なのかは、最後まで分からなかった。
死なれては私の責任問題になる。気絶したアリスを廃屋から引きずり出して、外の雨水で冷やしていると、私を追いかけてきた役人の影が見えてきた。
「エドワード様!!」
「ちょうどよかった、アリスなら捕まえたよ」
そしてアリスは彼らに連れられていった。
◇
「エドワード・ヴァリエール伯爵殿。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「ああ、今日はよろしく」
今日は自宅にて、ある人物をお招きした。
異国の大商人、アリス女史。
流れるような黒髪に、顔の上半分を覆う銀の仮面が輝いている。
背は私くらいはあるだろうか。王家直属の近衛騎士長を兼任する私から見ても、肩や腕にはしっかりと筋肉が乗っている。長い航海で自然と鍛えられたのだろう。
異国で財を築いた謎の女商人。素性も、年齢も誰も知らない。ただ、彼女が扱う商品の量とその莫大な財力だけが知られていた。
「その仮面はどうされたのですか……?」
私は気になっていたことを率直に言った。
銀の仮面の下は長い船旅で病にかかったときにひどく醜悪な姿になってしまったらしい。見栄えもあり、いつもこうした姿で取引をするのだとか。
「なるほど……?」
私はそれを不審に感じた。
商売というのは人と人の信用が何より重要だ。知らないことが多い相手と取引をすることに私は少し抵抗感を感じたものの、大商人としての商会印と有力商人としての紹介状もある。
どうしたものか……。そんなことを考えていると、
「まあ、大変でしたのね」
横のヴィオラが首を突っ込んできた。
「それよりも、アリス様。南方の香料について取引はされているのですか?」
「ええ。興味がおありで?」
「もちろんですわ!!」
妻のヴィオラが鼻息を荒くしている。ここへ来たがっていたのはこれが目当てだったのか。
「王都では異国の香料が大人気ですのよ。料理はもちろん、香水も……」
「まあ、そんなに」
アリス氏は興味深そうに首を傾げた。
「ええ! 特に南方の香料は、まだ扱っている商会が少ないでしょう? でしたら、ぜひ私どもを王都での窓口にしていただけませんこと?」
ヴィオラの青い瞳がきらりと輝いた。
なるほど。どうやら妻は、香料そのものよりも、それによって得られる利益に興味があるらしい。
「はぁ……」
ヴィオラはもうけ話に目がない。金の話になるといつもこうだ。なんというか、もう少し節度を持ってほしいものだ。
「ヴィオラ、落ち着きなさい。こういうものには順序というものがだな……」
「あら、商談なんて少しくらい押しが強い方がうまくいくものですわ。それに、私どもが窓口になれば、アリス様にとっても王都の販路を広げる好機となるでしょう?」
ほう、我が家が独占する見返りとしてそれなりの分け前をもらおうとする算段か。商人らしい、抜け目のないやつだ。
ヴィオラは私の腕にそっと手を添え、微笑んだ。
「それに私は、あなたの陞爵の力添えになりたいのです。……もうすぐなのでしょう?」
「それはこの前陛下がほのめかすようなことを言っていただけだよ。まだ決まったわけじゃない」
……妻は地位も好物だ。
彼女の実家メイオール家は比較的歴史の浅い新興男爵家。そこの令嬢だった彼女は、入れた学園で一番地位のあった私に求婚したのだと言う。
もしあの学園に伯爵家以上の地位の令息や殿下がおられたのなら、きっと私ではなく、そちらに目をつけていたであろう。そういう意味では、運が良かったというべきだろうか……?
「他人様の前ではしたない。やめないか……」
アリス氏が、仮面の奥で笑っている。
「ふふ、いい奥様じゃないですか。もっともなお言葉です」
「じゃあ、うちを窓口に!?」
「ええ」
「本当に!? ほら見なさいエドワード! 言ってみるものよ!」
父から地位を継承し、正式に伯爵になった私は例のアリスの事件の功績を改めて認められ、国王陛下は私個人に近衛騎士団長の役職を授けられた。私は国王からの信頼も厚いという自負がある。
すべてが順風満帆だ。確かに今回の商談も成功させ、得られた利益を国にもたらせば、陞爵して私が侯爵位を授かるのだって、そう遠くはないのかもしれない。
ヴィオラは大きな青い瞳と整った顔立ちをほころばせ、屈託のない笑顔を見せている。
いつもの金色の髪も今日は艶が一段と増しているように見えた。
王都でも屈指の美人で私にとっても自慢の妻だ。
だが、その上昇志向にはいささか呆れてしまう。
「すみません、アリス様」
妻の代わりに私が深く頭を下げておいた。
「いえいえ。これくらいは付き合いですから」
とアリス氏は笑っていた。
アリス、か……。
先ほどから気の利く女性だ。
アリス、アリス……。
別段よくある名前なのだが、なぜだか彼女を見ていると思い出してしまう。
十年前のあの人を。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……。アリス、という名前に懐かしさを覚えましてね……」
「……取引は初めてのはずですが?」
彼女が首をかしげた。その姿に少し笑ってしまう。
「ああ、いや、気にしないでくれ。昔にそういう人がいた、というだけの話だよ」
「なんだか気になりますね。それはどのような方だったのでしょう。仲を深めるためにも是非お聞きしたいです」
私はその言葉に気後れした。こんなことを話してもいいのだろうか。仮にも罪人の話だ。
でも、もう十年も昔の話だ。それに、亡くなったと聞く。……もう終わった話だしな。
「そうですな……」
私は少しずつ、その閉ざされた扉を開き始めた。
アリスは目の前の黒髪で鍛えられたいかにも強そうな女性とは全く違う。
小柄で柔らかな栗色の髪をした誰かと争う力なんて無い無力な少女。
だが、誰よりも早く人を気遣える、優しい少女であった。
アリス・シルヴェイン伯爵令嬢はかつての私の婚約者。
幼い頃から家同士の付き合いもあってか、ずっと一緒だった。
「彼女とは、あの辺の木の周りを駆け回ったりして、よく遊んだものさ……」
私は窓の外に目を向ける。
そこには、今も変わらず大きな針葉樹が立っていた。
過去の幻影が浮かぶ。あの頃は、つらい記憶ばかりであった。ただ、あの少女だけが私の心の支えであった。
当時私は、「上に立つものは文武両道でなければならん」という父の教えから、私は伯爵令息の身であっても、勉強だけではなく、武道に置いても厳しい教育を受けていた。騎士長という身分に預かれているのも、この教育の賜物かもしれない。
今思えば、虐待同然だったような気もするが、小さい体で大人相手に必死にやったものだ。
当然怪我も絶えない。が、弱音など他のものに決して吐くわけにはいかなかった。だからいつものように袖を下ろし、何事もなかったかのように私はしていた。
だが……。
「エドワード!」
木陰の奥から、彼女の微笑む姿が鮮明に思い浮かぶ。私はその声でいつも観念する。隠そうとするものの、必ずばれてしまう。
「また怪我をしてるでしょう?」
そう言って、彼女は私の袖をまくり、いつもの白いハンカチを当ててくれる。怒るでもなく、責めるでもなく、いつも心配そうに私を見る。あの頃の私はそれが少しだけ恥ずかしくて、それでも嫌ではなかった。
誕生日だってそうだ。よその家は、両親から豪華な贈り物をもらっていると聞く。
新しい服や玩具、珍しい菓子……。
それを父上にねだったりなどすれば、決まって叱られる。わがままを言うな。と。だから私は何も持たなかったし、欲しいものを口にすれば父上の耳に入るから決して言わなかった。
なのに……。
「エドワード……」
針葉樹の向こうから私を手引きをする声が聞こえる。
顔を覗かせているのは、柔らかな栗色の髪の少女。行ってみるとそこにはやはり、アリスがいつものように小さな包みを抱えているのだ。
「誕生日でしょう?」
包み紙を開けると、中には私が欲しくてやまなかった、最新の時計。なぜ気づかれてしまうのか全く分からなかった。
「妻の手前、こんな話するのもあれなんですが、本当に何もかも見抜かれていた、といいますか……」
「ふふ、そんなに素敵な方だったのですか?」
アリス氏の低い声が、どこか柔らかく聞こえた。
「ああ。少なくとも、私にとっては大切な女性でしたよ」
そう答えた直後だった。
「あれ、でもエドワード様、お怪我されてますよね」
「え……?」
言われて初めて気づいた。
指の付け根に小さな傷がある。
数日前、王都の裏路地で荒くれ者を取り押さえた際についたのだろう。
「化膿して悪化したら大変です。とりあえず……」
アリス氏はそういって何かを取り出す仕草をした。
そのとき、私に落雷が走った。
彼女が取り出したのは純白の白いハンカチ。
だが、その様子に何か既視感を覚えた。
これではまるで、あの春の……。
『また傷、隠してるでしょ。いいから見せなさい』
『大丈夫だよ、このぐらい……』
一瞬、目の前の女性と、遠い昔の少女が重なった。
「いえ、ほっとけば治りますから……」
とりあえずハンカチは遠慮しておいた。だが、なんだかこの人といるとどうにも調子を狂わされる。
「もう、嫉妬しちゃうわね」
ふと横を見ると妻の姿。いかん。妻もいるのだ。私は何を考えているのだ。
「な、何を言ってるんだ、君が一番に決まってるじゃないか」
私は妻に抱き寄せる。しばらく髪を撫でてやると、妻も機嫌を取り戻したようだ。
妻、ヴィオラはそんな私たちの前に現れた。中等部に上がったくらいの頃に転入してきた彼女。
男爵令嬢ヴィオラ・メイオール。商売によって急速に勢力を伸ばしてきた新興の家であり、その功績によって特例で男爵位を得たのだそう。
社交界ではまだ名の知られていない家の娘。
それがヴィオラだった。
「初めまして、エドワード様」
そう言って微笑んだ彼女の顔を、私はしばらく忘れることができなかった。
アリスとは、まるで違う。
艶やかな金髪に透き通るような白い肌。
容姿だけなら学園、いや王都でも一、二を争うほどだろう。
歩いているだけで自然と人目を引き、彼女の周囲にはいつも人が集まった。
男女を問わず誰からも好かれる、華やかな娘。
それにヴィオラはとても社交的であった。
初めて会った相手にも臆することなく話しかけ、あっという間にその場になじんでしまう。身分や年齢に関係なく、誰とでも打ち解けられる。それが彼女の魅力だった。
そんなヴィオラに、次第に惹かれていくのが自分でも分かってしまう。
だが、私はアリスと結婚すると決めたのだ。
そう考え、私はいつも自分を制していた。アリスはずっと私のそばにいてくれた。彼女を今更裏切るなど、決して許されることではない。
ヴィオラとは私は距離をとった。彼女とは二人になるべきではない。
挨拶をされても私は素っ気なく返した。
大丈夫、ヴィオラはヴィオラでいい相手を見つけるだろう。
そうしていれば、いずれこの気持ちも過ぎ去っていく。
だが、そのとき起きたのが、例の事件だった。
婚約を間近に控えた冬の日。私が生徒会室の掃除をしていた頃、ヴィオラが慌てた様子で駆け込んできた。彼女の傍らには、一人の侍女。
「ヴィオラ君か。どうした? 今、他の者は出払っていてね。要件なら後ででも……」
私は極力近づかず、彼女の姿を見ないようにしていたので、最初はあまり異変に気づかなかった。
だが、彼女の声が震えていた。その大粒の瞳から、涙がこぼれ落ちていたのだ。
「ど、どうしたんだ……?」
私は女性の扱いにはあまり慣れていなかった。だが、震える彼女を見て、どうにか助けてあげなければという気に駆られた。彼女が美人だったからというのもあるのかもしれないが。
ヴィオラは答えなかった。
ただ、震える手で、自分のそばにいた侍女の袖を引いた。
私はその光景に、思わず息を飲んだ。白い肌の下に赤黒く変色した異様な痕が痛々しく残っている。
ひどいやけどの跡だ。これほどのは見たことがない。
「アリス様が、アリス様が……!!」
彼女に泣きつかれてしまった。あのおとなしいアリスが? 冗談だろう。
「そんな馬鹿な。何を言ってるんだ……」
だが、目の前にある傷は紛れもない事実だった。腕に残された火傷の痕は、ひと目見ただけでも尋常なものではない。それだけではなかった。乱れた衣服の隙間から、背中にも赤黒い痕が覗いている。
私は息を詰め、恐る恐る彼女の背中に目を向けた。衣服から見えるのは一つや二つではきかないほどの大きな傷が広がっていた。
「これでは、まるで拷問ではないか……」
どれも同じような痛々しいやけどの跡。
これほどの傷を負えば、どれほどの痛みがあっただろう。とても想像できないが、背筋が冷たくなる。
先ほど入ってきたとき、この娘はどんな顔をしていた?
こんな傷を抱えながら、今まで何事もなかったかのように振る舞っていたというのか?
私が詳しい事情を耳にした頃には、その話はすでに学園中に広まり、誰もが知る噂となっていた。大問題になり、すぐさまアリスの家に捜査が入った。
数日後、
さらに追い打ちをかけるかのように、耳を疑う話が明らかになった。ヴィオラが大切にしていた愛犬が少し前から行方不明になっていたという。
焼け残った首輪とわずかな骨。その死骸は他でもないアリスの敷地の焼却炉から見つかったのだ。
確かにアリスは内向的で家と学校の往復だったから、他の家の者はあまりアリスを見ることがない。否定するのも難しいだろう。
その日からアリスは学園に来なくなった。家族ですらその行方が分からないらしい。
悪事がばれ国外へ逃げるつもりなのだろうか。だが、罪がないのであれば堂々と証言すればいいものを。
「見損なったぞ……アリス……」
拳を強く握りしめる。
私の十数年のアリスはもう崩壊していた。
だが、ほんの一瞬だけ、胸の奥に小さな疑問がよぎった。
本当にアリスがやったのだろうか。いつも私のそばにいたはずだ。外出だってそんなにしていないはずだ。
そういえば、侍女はなんと言っていた? 何も言ってないのではないか?
彼女はいつもヴィオラの言葉に首を縦に振るばかり。そもそもヴィオラの侍女なのだから、接点が少ないのでは?
焼却炉の犬にしたってそうだ。どうやってヴィオラの家から連れてきたのだろうか。領地と領地の間には相当な距離がある。他人の家の犬を引いているとしたら、誰かが見ているはずだ。領地間を通るなら記録だってあるはずではないのか?
何かがおかしい。
何か決定的に見落としているような……。
「エドワード様……どうかなされましたか?」
その声に顔を上げた。私に助けを乞うその美しい瞳に、その疑問は霧のように消えていった。
そうだ。私は悩んでいる暇があるんだ。まずこの子を助けることからだろう。考えている場合ではない。
「もう大丈夫だ……、君の大事なものは誰にも奪わせはしない」
長い仲だ。アリスの行動パターンは誰よりも知っている。
隠れるならきっとあの場所だ。二人で隠れ家にしていた裏山の廃屋。雨ざらしのボロ家を改造した、あの廃屋だ。
逃がすわけにはいかない。準備を進められる前に捕まえなくては!!
私は同行した役人も置き去りにするほどの速さで、野山を駆け上がった。
「エドワード……」
やはり、彼女はいた。アリスは私の姿を見るなり、驚いた顔をしてから、ただ震えていた。
言い訳を呟きながら、震えるだけのアリスを見て私は怒りが湧いた。
あんなに優しかったのに。あんなにアリスのために頑張ったのに……。
どうして。
そして、幼い頃二人で作った秘密基地を逃げ場所に使うとは。
怒りが収まらなかった私は、暖炉にあった火かき棒を取り……。
アリスの顔に押しつけた。
そのあと、気を失ったアリスを引きずるようにして廃屋から連れ出し、遅れて到着した役人に引き渡した。
それが十年前の話。
忌まわしい、アリスの記憶だった。
当然、彼女とは婚約も破棄した。
あの後裁判を経て、彼女は国から追放されたそうだ。それ以来、彼女の消息は聞いていない。野盗に襲われ、亡くなったとも聞いている。
その後、行き過ぎた暴力から問題となり、私は父からひどく叱責を受けた。学園も少しの間謹慎となった。
アリスを発見した功績も考慮され子供の正義感の暴走ということで一応は片付けられたものの、確かに今思えば少々やり過ぎだったかもしれない。
私はこの話を思い出して、なぜだか涙が出てきてしまった。
なぜだろう、悲しかったからだろうか。アリスがそんな人間だったのが。
「どうしたの……?」
「いや。なんだか、今日は調子が悪くてね……」
この後の会議の内容は、昔のことばかり考えていたせいで、あまりよく覚えていない。
やたらと妻とアリス氏が意気投合していたのだけは覚えている。まあ、結果として、妻の機嫌がいいのならそれも悪くはないのだが。
「では、失礼いたします」
そうしてアリス氏は去って行った。
◇
それから一ヶ月。
アリス氏との取引は驚くほど順調に進んだ。
南方から届いた香料は王都でも評判となり、瞬く間に売り切れてしまった。
これまで扱っていなかった品を一つ加えただけなのに、我が家の商取引は目に見えて活気づいている。
ヴィオラの指には以前よりも大きな宝石がくっついていた。今日はそれを自慢しにいくらしい。今日も夜会へ意気揚々と出かけていった。
それはいいのだが。
ヴィオラはまるで別人になってしまった。昔からと言えばそうなのだが、ここまでの執着だっただろうか。
私はある違和感に気づく。
これほどの元手を一体ヴィオラはどうやって集めているのだろうか。
実家であるメイオール家も元は商家とはいえ、自由につかえる資産など少ないだろう。ヴィオラに関する資料をあさったところ、彼女は隠し事をしているみたいだ。
結果として彼女は私に黙って少々借金をしているらしい。
そんなことだろうと思った。
これは、少し説教をしてやる必要があるな。
「まったく……」
そう思いつつ、私は書斎の椅子に深く腰をかけ、煙草に火をつけた。一仕事終えたところで、少し休憩しようと思ったのだ。
紫煙をくゆらせながら、私はぼんやりと資料を眺めていた。
そのときふと、メイオール家の資料の端から、古びた紙がわずかに覗いているのが目に入った。
「十年前……?」
十年前と言えば、アリスを断罪した頃。想像するのも嫌なあの時ではないか。そこにはメイオール家からある人物へ支払われた金額が記されていた。
金貨百枚。平民なら一生遊んで暮らせるような額だ。ただの商取引にしてはあまりにも大きい。私は眉をひそめ、書類を裏返した。
その印を見たとき、私の額に一筋の冷たいものが流れた。それは王都でも悪名高い犯罪組織の印。メイオール家は犯罪組織と関わっていたのか? 何のために?支払日はアリスの事件が起こる数日前。偶然にしては出来すぎている。
「嘘だろ……?」
もし、万が一。あの事件に関わっているとしたら、相当まずいのではないか?
そこに、コンコン……という音がした。
「ご主人様、よろしいですか?」
私は反射的に書類を伏せた。
「なんだ?」
「お客様がお見えになっております」
客人?もう、時間は夕刻を過ぎている。こんな時間に客人など招いただろうか。
「アリス様がお越しになっております」
「妻は出かけているはずだが……?」
「いえ、ご主人様にご用とのことで……」
アリス。その名前を聞いた瞬間、胸の奥がまたざわついた。
◇
私は、思考が整理できないまま、応接室の扉を開けた。
そこには、先日と同じ女が座っていた。
流れるような黒髪。銀色の仮面。背筋はまっすぐで、こちらへ向けられた姿には隙がない。
彼女は私を見ると、静かに立ち上がった。
「急な訪問、失礼いたしました」
「構わない。何か急ぎの用事でも?」
「こちらをご覧下さい」
彼女はそう言ってから、ゆっくりと腰を下ろすと、手持ちの書類を鞄から取り出した。
そこには、これまでの取引内容が細かく記されていた。納入した香料の品目や数量。それに対する代金。そして利益の内訳。
ヴァリエール家の納入量に対して、利益率が高すぎる。
「問題なのは、その利益の流れでございます」
書類を眺めていくと、その利益が借入先に流れている。
なるほどな、借金を返済するために、少々暴利を取っているということか。
「ははは。奇遇ですな。先ほど私も妻の借金を見つけましてね。確かにこれはよくないな」
借金を返済するために次々に別の投資に手を出している。これではまるで火の車だ。
取引をする方からしても信用が出来ないのだろう。
「では、取引量を絞らせてもらっても?」
「構わない。妻にはよく言い聞かせておきますので」
アリス氏は取引先の金銭事情にまで気を配っているらしい。
商人としてなかなかの調査力だ。少なくとも、仕事に関しては信用に足る人物なのかもしれないな。そう考えながら、私が立ち上がろうとしたその時。
「それから、十年前の事件についても調べさせていただきましたよ」
「十年前?」
「アリス・シルヴェイン伯爵令嬢の事件ですよ」
また、嫌な記憶がこじ開けられる。この辺では有名な事件だ。彼女であれば、調査は容易いのかもしれない。だが、あの日のことなど、出来ることなら二度と思い出したくない。
「……なぜ、今になってそんな話を?」
努めて平静を装いながら、私は尋ねた。
「取引相手について調べておりますと、少々気になることが見つかりまして」
「十年前の事件が、今の取引に何か関係があると?」
「直接の関係はございません」
彼女はそう答えた。
「ですが、あの事件について、いくつか不自然な点がございました」
「不自然な点?」
私は眉をひそめた。まさか。
あの事件について、今さら私に何を言うつもりなのだ。
「あの事件については、正式な捜査が行われたのだ。今更何を……」
アリス氏は机の上に書類を置いた。
「事件発生からアリス・シルヴェイン嬢の拘束までが、あまりにも早すぎます。暴行を受けたという侍女からの事情聴取も曖昧です」
「そ、それは……」
確かに私も急いでいた。まともな話もあまり聞かずに捕まえてしまったかもしれない。
それは確かに違和感があった。
「あなたは、いや。この国はこの事件を正当に扱ったのですか?」
あの日見て見ぬふりをしていたその代償が、今になってまとめて返ってきたような気がした。私は、逃げるように立ち上がった。
「もういいではないか。終わった話だ。君も疲れているのだろう」
ドアを開けると、目の前に見覚えのある人物が塞ぐように立っていた。
「貴女は……」
見覚えがあった。十年前、ヴィオラの隣にいた侍女。
首を縦にしか振らない、無口な侍女。
「商人ともなるとね。顔が利くんですよ」
この人は事件で心を病んで、故郷へ帰されたと聞いている。その後王都で彼女の姿を見かけたことは一度も無い。
確かに心のどこかでおかしいとは思っていた。
だがいったいどうして今になって……?
アリスとか言う女商人。一体、何を考えている……?
「さあ、貴女の口から教えてください。十年前、この地で何があったのですか?」
静かな声が仮面の奥から響いた。私は侍女を見つめる。
そんなはずはない。
あの時確かにヴィオラの言葉にうなずいていたではないか。
アリスが罪を犯した。そういうことになっていたはずだ。ほぼ全ての人間がその決定で納得していたはずだ。
やがて、その頬を一筋の涙が伝った。
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
「私、ずっと謝りたくて……アリス様は……」
気づくと、私の足は震えていた。
やめろ。謝るんじゃない。お前が謝ったら、私はどうしたらいいんだ。
ヴィオラは? あの事件は一体どうなってしまう。無理矢理縦に首を振らせ、嘘の証言をさせていたということになってしまうではないか。
そうすれば、アリスの顔を焼いた私は?
決して言ってはならん。その言葉だけは、言わないでくれ。
だが、その願いは通るはずもなく、その言葉が口から飛び出てしまった。
「悪いことなんかしていなくて……」
当時はついに一言も発さなかった侍女から、証拠を覆す衝撃の言葉だった。
アリスは悪いことなんかしていない。そうだ。そのはずなんだ。
「ヴィオラ様が私の所に来て、火傷を負わせたんです!!しゃべったら家族がどうなるか分からないって……!!」
「まさか……」
私の脳裏に浮かんだのは、先ほど見つけた書類の奥の犯罪組織との契り。
崩壊していく。あのヴィオラの美しい涙が。疑う余地など無いと思っていた、あの青い瞳が。では、それを信じた私は何なんだ? ただの馬鹿じゃないか。
「怪しい人たちがいつも家に来ていました!! そのうち犬の世話もさせてもらえなくなって、気づいたら死んじゃってて……。 色んな領地の偉い人が総出で馬車で来て、私に黙れって言うから、もう私には何が何やら!!」
侍女の声が遠く感じる。だが、なぜだろう。
別にその言葉に驚きはなかった。むしろしっくりくるぐらいだった。
これで全部つじつまが合う。
犬はどうやって運ばれたのか。なぜ捜査はあんなにも早かったのか。
なぜ侍女は何を聞いてもヴィオラの言葉にうなずいていたのか。
「アリス殿……、あなたはこれを知っていて?」
「もちろんでございます。証言もここに」
彼女が複数の書類をとりだした。ヴィオラは日常的に暴行を働いていたらしい。
怪しい人物が犬を運んでいたという複数人の証言。運搬の記録まで揃っていた。
なんだ……。なんなんだ……。
では、本当にヴィオラの仕業ということになってしまうではないか。
それに王家が関わっているのか?一体どういうことなんだ?
なぜ学生のもめ事に王家が関わる必要があるというのだ?
「私はどうなってしまうんですか……」
「ご安心ください、あなたとその縁のある人物の命はアリス商会が責任をもって守りましょう」
「そうですか……」
元侍女はぐったりとした、しかし、憑き物が落ちたような顔をしていた。その顔からは嘘偽りがないように感じる。
丁度、窓の外から、ヴィオラの乗る馬車が見えた。
十年前の真実は、とりあえずヴィオラから始めることにしよう。
◇
夜会から帰ってきた妻はなにやら上機嫌であった。
「あなた、待ってくれていたの?ねえ、聞いて。あなたの陞爵の話、かなりいいところまで進んだのよ」
「そうか……」
ヴィオラはこちらに近づいてきた。いつものきれいな顔を浮かべて。王都でも有数の美人の顔も、今の私には醜悪な表情に見える。
「陛下もあなたのことを気に入ってくださっているみたいでね。今夜、何人かの有力な方にもお話ししておいたの……」
「そうか……」
やめろ……。もうこちらへ来ないでくれ……。
「きっとそう遠くないうちに……」
いつものように、ヴィオラは私の胸のそばまでやってくる。
そしていつものように私へ触れようと手を伸ばしたその瞬間。
『熱い、熱ぃぃいいいいいいい!!』
あの声が耳元でよみがえった。
「……待て」
気づくと私は手を前に突き出し、ヴィオラを拒絶していた。
「お前、何か私に隠していることがあるんじゃないのか……?」
ヴィオラは怪訝な顔をしていた。
「もう、なんですか?私がせっかく土産話を……」
「何か隠しているだろう」
いつになく真剣な顔をしている私に驚いたようだ。
「え?……あ、ああ。融資のことでございますか? 隠していたことは申し訳ありません。ですが、私が全額責任を持って……」
「そうではない」
そのとき、脇から出てきた例の侍女に気がつくと、ヴィオラは目を見開いた。
「その様子だと、察しているようだな。もう話は聞かせてもらった。だが、俺はお前の口から聞きたいのだ」
私は、ヴィオラを見据えた。
「十年前の話でございますか……」
「そうだ。十年前、侍女はアリスではなく、お前に傷を負わされたといっている。クビにされたくなければ黙っていろと言ったらしいな」
私は粛々と、証拠を積み上げていく。
「犬の件もそうだ。お前の家から犯罪組織に金が流れ、秘密裏に運ばせていたらしいじゃないか」
十年前の真実を語らせたい。何があったのか、知らなくては。
「すっかり私はお前に騙されていたようだ」
「……っ」
ヴィオラの唇がわずかに震えた。ぽろり、と大粒の涙が一粒。次いで二粒、三粒。
まるで堰を切ったように、頬を涙が伝っていく。
「ひどい……」
ヴィオラは震える声で呟いた。
「そんな……私は、あなたにそんなふうに疑われるようなことをしたの……?」
「ヴィオラ」
「違う……違います……!」
彼女は首を激しく横に振った。
「私は、ただ……あなたのために……」
「俺のため?」
「そうよ……!」
ヴィオラは泣きながら私の胸元に手を伸ばした。
「ずっとあなたのために頑張ってきたの。あなたがもっと高い地位に行けるように、少しでもあなたのお力になれるように……!」
「寄るな!!」
伸ばされた手を、私は払いのけた。ヴィオラがよろめく。
「あ……」
その目から、また涙がこぼれた。
「どうして……?」
涙でぬれた青い瞳と、長い金色の髪。泣きはらした顔でさえも、昔と変わらず、いや、昔以上に美しかった。その顔を見て、胸が痛んだ。昔の私なら、ここでもう騙されて絆されていただろう。
『熱い、あついぃいいいいいい!!!!』
かわいそうなアリス。私は、こいつに、この悪魔に騙されてしまったんだ。
どうか許してくれ。こんな馬鹿な私を。
「アリス、アリス……」
「何を言っているの……?」
私はふらふらと暖炉に近づいていた。
そして、あの日のように、暖炉の中から焼けた鉄の棒を手に取った。
「そうだよな……許せないよな……痛かっただろう。アリス」
ヴィオラをにらみつけてやると、その視線だけで腰が抜けてしまったようだ。
「エドワード……やめて、そんなの昔のことでしょう……!?」
「お前は……!!お前は……!!」
憎い、憎い。アリスを奪ったヴィオラ。
私にあんなことをさせた……。
「来ないで!」
ヴィオラの手から何かが飛んできた。私はとっさに手に持っていたもので受けた。
皮肉にも、その反応もあの日のアリスと同じであった。
投げつけられたのは、白い布地。火の棒に触れた瞬間から、燃え朽ちていった。それは、私の青春のように。それが、死んでいったアリスのようで……。
「私は何も悪くない! あなたが勝手に勘違いしただけでしょう!?」
「何を……」
よそ見をした瞬間であった。
「熱っ!!」
足下からものすごい熱気を感じる。
先ほど払った布地がカーペットに燃え移っている。
その火はカーペットから広がり、木の柱へ。しまった。今は冬、この家は建造から百年は下らない伝統の館。
引火なんかしてしまったら。
「あ。あああ……!!」
天井や柱がバキバキと嫌な音を立てて燃えていく。
「私は悪くない!!」
「ま、待て!!」
ヴィオラは走り去ってしまった。
落ち着け、この火事をどうにかする方が先だ。
だが、バケツを探すが、水などどこにもない。そうこうしてるうちに、思い出のタンスや、先祖の遺影たちが燃えていく。
伯爵家の歴史が終わるのか……。今日、ここで……?
「……様、ご主人様!!」
「はっ……」
使用人に肩を揺さぶられ、正気に返った。逃げなくては。
この館はもう故郷でも何でも無い。もう、私の命を脅かす怪物でしかないのだから。
悲しいが仕方が無い。一刻も早く逃れなくては。
私は手に持っていた棒を投げ捨て、焼ける館の中を急いで駆けていった。
出口まで近づいたとき、炎の向こうから小さな声が聞こえた。
私は声のする方を見た。すさまじい炎の奥に、ヴィオラの姿がある。
「えどわーど……たすけて……」
彼女は床を這い、こちらへ手を伸ばしていた。
「ヴィオラ!? ヴィオラなのか!?」
燃えさかる廊下には、宝石が散らばっていた。大粒の青い宝石。金の装飾品。首飾り。
「取りに戻ったのか……!?」
「すみません……」
だが、今はそんなことを叱っている場合ではない。十年前の真実など今はどうでもいい。人命が優先だ。私は炎の向こうに目を凝らした。
ヴィオラの姿が見える。
彼女は倒れた柱の向こう側で、こちらへ手を伸ばしていた。
「たすけて……エドワード……!」
「待っていろ! 今、行く!」
私は廊下へと踏み出した。
熱気が顔を打つ。息を吸うたび、喉の奥が焼けるように痛んだ。
それでも、進まなければ。彼女を見捨てるわけにはいかない。今は罰どころではない。
私は燃えかけた柱を避け、ヴィオラのもとへ向かった。
その瞬間だった。
ミシミシ、と頭上で嫌な音がした。
「なっ!!」
壁際に置かれていた大きなタンスが、炎に炙られていたのだろうか。黒く焦げた木材が軋み、ゆっくりとこちらへ傾いてくる。
逃げる間もなかった。
「うわっ!」
私はとっさに腕を掲げた。ドンッ、と凄まじい衝撃が腕に走る。
倒れてきたタンスを、反射的に腕で受け止めてしまった。
「ぐああっ!!」
次の瞬間、焼けるような熱が腕を襲った。
タンスの表面は炎に炙られ、真っ赤に熱せられた部分さえあった。そんな木肌が、服越しに私の腕へと押しつけられていた。
熱い。熱い、熱い!!
「う、うおおおおおおお!!!」
他の場所で触れれば、さらに怪我を増やしてしまう。
火事場の馬鹿力というやつだろうか。私は悲鳴を上げながら、どうにか腕だけでタンスを押し返した。重い家具が床に倒れ、耳障りな音を立てる。
その場に転がり込むようにして、私は腕を抱えた。
「はぁ、はぁ……くっ……そ……!」
袖が焦げている。布地の隙間から覗く肌は赤くなり、ひりひりとした激痛が腕を走っていた。
大丈夫、まだやれる。そう思おうとしても、痛いものは痛かった。
私は顔をしかめ、焼けた腕を押さえた。
アリスもこんな風に痛かったのだろうか。
だが、私がなぜこんな目に遭わなければならないんだ。
私は被害者のはずだ。私の家が燃えているんだ。先祖代々受け継いできた屋敷も、財産も、思い出も、すべてが炎に呑まれようとしている。
そのうえ、自分まで火傷を負った。何が嬉しくてこんな罰を受けなければいけないのか。
「えどわーど……」
揺らめく炎の向こうに、ヴィオラの影が見える。かつて王都で一、二を争うと謳われた美貌。
艶やかな金髪。透き通るような白い肌。誰もが振り返る美しい顔。私が妻として誇らしく思っていた女。
「お前は誰だ……?」
それが今では、見る影もなかった。焼け焦げた髪。赤くただれた肌。歪んだ唇。
かつての面影など、どこにもない。
「……っ」
思わず、顔を背けた。見ていられなかった。いや、違う。見たくなかったのだ。
こんな顔になったヴィオラを、助けたとてどうなるのだろうか。医者を呼び、治療を受けさせ、身の回りの世話をしてやるのか。
社交界に戻ることだって難しいだろう。今までのように美しい妻を連れて夜会へ出ることもできない。それどころか、彼女の罪が明らかになれば、私自身の立場まで危うくなる。
そうだ。そもそも私は、奴に罰を与えるつもりだったんじゃないのか?
災害の中だからつい助けるつもりになってしまったが、奴はアリスの仇ではないか。なぜわざわざ危険な炎の中へ戻り、命を懸けてまで彼女を助ける必要があるのだろうか。
「……すまない」
私は小さくつぶやいた。ヴィオラの目が見開かれる。
「……え?」
「助けを呼んでくる。だから、もう少しだけ待っていてくれ」
嘘だった。助けを呼ぶつもりなど、もうなかった。
私は踵を返した。
「えど、わーど…… まって……。 まってぇえええええええ!!!!」
悲鳴が背中に突き刺さる。
それでも、私は振り返らなかった。
助けに戻るつもりだったのだと、自分に言い聞かせた。火傷がひどかったのだ。炎が激しすぎたのだ。私まで命を落とせば、誰も助けられないのだから、仕方がなかったのだ。
私は燃え盛る屋敷から逃げ出した。
もう、自分にとって利益のない女だと思ってしまったからではないか?
「違う……」
その言葉を胸の奥へ押し込み、私は走った。背後から聞こえる声が、やがて炎の音に呑まれていく。
私は一度も振り返らなかった。
◇
「痛ぅ……」
私は左腕を水で冷やしながら、地面に座り込んでいた。
館から逃げ出した直後は、興奮状態だったせいか、痛みなどほとんど感じていなかった。だが、こうして落ち着いてみると、腕がずきずきと痛み始めている。
炎に炙られたタンスを腕で受け止めてしまったのだ。
「くそっ……なんてことだ……」
ひどい火傷だ。跡が残るかもしれないし、しばらくは左腕をまともに使えそうにない。私は顔をしかめながら、腕を水に浸し続けた。
家が燃えている。小さな頃から暮らし、父から受け継いだ実家。先祖代々守り続けてきた館だ。その屋敷が、今まさに炎に呑まれようとしている。
悲しい気持ちも山々だったが、今は起きている現状を受け止めるだけで精一杯だった。
どうにか使用人は全員無事だったようだ。
ヴィオラは……。
「いや、あんな悪魔のこと、どうでもいいじゃないか……」
アリスを陥れ、私を騙していた女だ。しかるべき報いを受けたのだ。
私はそう自分に言い聞かせ、無理やり思考を振り払った。
「桶を回せ!! 医者はまだか!!」
私は必死に動いた。木材の焼け落ちる激しい音と、消火を指示する声が飛び交う。
そして、私は火傷を負った腕を押さえながら、燃え盛る館を見つめていた。
その時、燃え盛る針葉樹の向こうから、誰かの声が聞こえてきた。
「エドワード」
私を呼ぶ声。女性にしては低い声だった。
「ひっ……!」
木陰から現れた人物を見て、私は思わず声を漏らした。
ヴィオラの亡霊……かと思った。
だが、そこにいたのは、アリス氏だった。
そして、その大きな肩に担がれている人間を見て、私は息を呑んだ。
焦げたドレス。焼けただれた皮膚。間違いない。
先ほど、私が見捨てた女だった。
アリスは彼女を静かに地面へ下ろすと、駆け寄ってきた救助隊の者たちに引き渡した。
「さて……」
こちらを振り返った。
驚く私を見て、彼女はほんの少しだけ頬を緩ませた。
「だめじゃないですか。愛する人を見捨てたりなんかしたら」
その言葉に、私は何も答えられなかった。
アリス女史はゆっくりと仮面に手を伸ばした。
さらり、と黒い髪が滑り落ちる。どうやら、かつらだったらしい。
その下から現れたのは、柔らかな栗色の髪だった。
「な……」
その姿を見た瞬間、脳裏に懐かしい記憶があふれ出した。
庭を二人で駆け回り、笑い合った日々。
裏山に抜け出し、誰にも見つからない場所に秘密基地を作ったこと。
寒い日には暖炉の前に並んで座り、互いの手を温め合ったこと。
私が怪我をすれば、どれほど隠そうとしても、彼女はすぐに気づいてしまった。
誕生日には、私が欲しくてたまらなかった時計を贈ってくれた。
……あの頃の私は、彼女がそばにいてくれることを疑いもしなかった。父から厳しい言葉を浴びせられ、つらい日々を送っていた私にとって、彼女だけが心の支えだった。
彼女のために頑張ろうと思えた。いつか、彼女の隣に堂々と立てる人間になろうと思っていた。
忘れるはずがない。
「……アリス」
ようやく、その名前が口から漏れた。顔立ちも背丈も、あの頃とはまるで違う。
だが、それでも面影は確かに残っていた。
「久しぶりですね」
彼女の声は、異国の大商人アリスとして振る舞っていた時の愛想とはまるで違っていた。
冷たく、無感情な声。それが、伯爵令嬢アリス・シルヴェインとしての彼女なのだと分かった。
そして、その顔には痛々しい火傷の跡が残っていた。
十年前。
私は彼女の言い分もまともに聞かず、感情のままに傷つけた。それをやったのは、紛れもなく私自身だ。何と言えばいいのか分からなかった。彼女は、どれほど私を恨んでいるのだろう。今さら謝ったところで、気が済むはずもない。傷も、苦しみも、失われた十年も。決して元には戻らないのだから。
それでも私は、気づけばその言葉を口にしていた。
「申し訳ない……」
遅すぎる謝罪だった。私はようやく、自分が犯した過ちの大きさを理解した。あの日、アリスは何を言っていたのだろう。必死に何かを訴えていたはずだ。だが、もう思い出せない。
私はヴィオラに心を奪われ、本当に守るべきだった人を守れなかった。
「お前はいつだって、私のそばにいたのに……」
アリスは、いつだって私のそばにいてくれた。
私の傷に気づき、心配してくれた。
私の欲しいものを覚え、ささやかな贈り物をしてくれた。
私が苦しい時には、何も言わずに寄り添ってくれた。
それなのに私は、その大切さを当たり前のものだと思っていた。本当は守らなければいけなかった。世界中の誰がアリスを犯人だと言おうとも、私だけは彼女を信じてやらなければいけなかったのだ。
「なぜ、私はお前を傷つけてしまったんだろうな……」
アリスは驚くほど無機質な顔をしていた。怒るでもなく、笑うでもなく。ただ、そこに立っていた。
「そこまでおっしゃるのであれば……」
彼女は、先ほどの書類を私の足元へばらまいた。メイオール家と犯罪組織のつながりを示す、あの証拠だった。
「……せめて、これをあなたの口からこれを告発してください」
あまりにも冷たい言葉だった。それも当然なのだろう。彼女を裏切ったのは、私なのだから。
「……分かった」
私がそう答えると、アリスは小さくうなずいた。そして、それ以上何も言わず、踵を返した。
彼女はもう、私に何も期待していないのかもしれない。投げ捨てるあたり、この書類だって、別にいらないものなのかもしれない。十年前のことなどもうどうでもよくて、別の目的で動いていたのかもしれない。私が証言してくれば、多少の儲けくらいのものなのだろうか。
足元には書類が散らばっている。
それを拾い集めながら、私は思った。書類を突きつけ、告発を求める。彼女にとって、私との関係はもう、それだけのものなのだろう。
かつて、あれほど近くにいたというのに。
今では、私が何を言おうと、彼女の心を動かすことすらできない。
燃え盛る館に怒号が飛び交う。辺りは騒然としていた。
なのに私だけが、何もない空間に一人取り残されたようだった。
……あまりにも多くのものを失ってしまった。
アリスを失った。ヴィオラも、そして、自分の家も。私だってひどいやけどを負った。
「なんで……」
ぽつり、ぽつり、と地面に小さな染みができた。雨が降り始めたのだろうか。
それとも……。
もう、どうでもよかった。
どうしようもなく感情があふれてくる。
「なんでだよ……」
精一杯やってきたはずなのに。
どうして、いつもこうなってしまうのか。
大体、私に何を守れというのだ。
あれほど大勢から非難されていたアリスを、当時まだ学生だった私に守れというのか。
それとも、真実から目を背け、ヴィオラを庇っていれば、家も妻も失わずに済んだのだろうか。
……いや、もう考えるのはよそう。
何を考えたところで、過去は戻らない。アリスの傷は消えない。私が犯した罪も、なかったことにはならない。
すべて、終わったことなのだから。
私はただ黙って、燃え盛る実家を見つめることにした。
◆
私が重厚なドアを開くと、その向こうにいるレオンハルト公爵は、窓辺で月夜の空を眺めていた。
彼は大きな体を月光に照らされながら、静かに立っている。
「アリスです。ただいま戻りました」
その声に気づいた公爵は、書き物棚に置いていたワインを置いた。
私のもとへ歩み寄ってくる。その足取りは喜びと焦りをまといながら、一歩一歩と進んでくる。
そして、その大きな腕で私を抱き寄せた。
「……よく戻ってきた」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと暖かくなった。
「エドワードのことは聞いたぞ。よくやってくれたな」
「はい……」
「十年もよく耐えた。お前がエドワードを潰してくれたおかげで、国の防衛指揮は機能不全に陥った。第二王子も今、王城を制圧したらしい。王位交代も時間の問題だ。お前もこの国を大手を振って歩けるだろう」
そう言って、公爵は私の頭に手を置いた。ああ、帰ってきたのだ。
ようやく私は、この国に帰ってきた。もう、顔を隠して生きる必要もない。自分の命がいつ奪われるのかと怯える必要もない。
「……ヴィオラは無事だそうだ」
「よかった。それなら、安心ですね」
「ああ。メイオール家には犯罪組織との関連性を吐かせ、家名は没収。一族郎党鉱山に送るつもりだ」
私がヴィオラを助けた理由も、エドワードが彼女を見捨てたことも、すでに報告が届いているのだろう。ヴィオラにはまだ反省させなければ。
彼女の顔は焼けただれていた。もう彼女が涙を流したところで誰も振り向く人間などいないだろう。
一生呪いながら、肉体労働に従事してもらおう。
「エドワードには、あの証拠を渡しました」
「……そうか。告発してくれるといいな」
「それは分かりません」
私は正直に答えた。
重い信用を置いているはずのエドワードが告発をすれば、王の一派はさらなる打撃を受ける。
だが、エドワードは正義を口にはするが、その実、自らの欲のために残酷なまでに動いていることに本人でも気づかないような男だ。これまで築いてきた地位や罪を認めれば、騎士長としての名誉も信頼も失うだろう。そうなれば告発の可能性は薄い。
「エドワードが言わなくても、第二王子殿下が改めて、第一王子や陛下の過ちを発表するそうだ。それを大義名分として、貴族たちを納得させる算段らしい」
「まあ。それなら別に考える必要はありませんね」
第二王子はレオンハルト様が十年かけて支援を伸ばした現体制に不満を持つ勢力。エドワードが言わないにせよ、彼が発表してくれるというのなら、何も言うことはない。
「ぜひともエドワードには反省してもらいたいものです」
「そうだな。あの男には、せいぜい自分で選ばせてやればいい」
公爵は静かに言った。
「自分の罪を認めるか。それとも、最後まで保身に走るか。どちらにせよ、いずれ自分の選択の結果を受け入れることになる」
「……はい」
私はうなずいた。エドワードがどうなろうと、もう私の人生は左右されない。十年前、彼は私にとって世界のすべてだった。彼に信じてもらいたかった。彼の隣に立ちたかった。彼と一緒に、幸せな人生を歩みたかった。
けれど、今は違う。
私は、彼のために生きているわけではない。私が帰ってきたのは、彼に愛してもらうためでも、彼に謝罪してもらうためでもない。この国に帰り、自分の人生を取り戻すためだ。
そして、私と同じように権力者の都合で人生を奪われる人間を、これ以上増やさないために。
「……アリス」
公爵の声に、私は顔を上げた。
「お前がこれまで何を耐え、何を成し遂げてきたのか。私はすべてを知っているつもりだ」
公爵は私の肩に手を置いた。
「だが、だからといって、お前がこれ以上傷つくことを望んでいるわけではない」
「レオンハルト様……」
「この計画が終われば、お前には自分の人生を生きてほしい。誰かを憎むためでも、誰かに
勝つためでもなく、お前自身のために」
私の人生とは何だろう。
もうそれすら分からなくなっていた。十年間の生活では、それすら考える暇も無かった。すべてはこの復讐のために。伯爵令嬢であった私を殺したこの王家に復讐をするために生きてきたのだから。
けれど今、目の前にいる人は、私にその先の人生を考えてもいいのだと言ってくれている。
「……ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
公爵は小さく息を吐くと、私の背中にそっと手を添えた。
「なら、もう少し横にいてもいいですか?」
「構わん。お前と会う日のために、いい酒を用意したんだ。飲むか?」
「ありがたくいただきます」
彼は戸棚からワインを取り出すと、嬉しそうにつぎ始めた。
「こんな日が来るなんてな……」
誰もいない空間で水入らず。初めてレオンハルト様の顔を見た日を思い出す。
◆
レオンハルト公爵に出会ったのは、十年前。あの事件の少し後だった。エドワードに裏切られ、顔を焼かれたあの日。私は着の身着のまま国境付近に投げ出され、顔が腫れ、目もまともに見えず、空腹と痛みで、立っていることさえ難しかった。
そんな私に、さらなる試練が襲いかかった。
「だ、誰なの……」
曖昧な視界の中、私の行く手を塞いだ男が、凶器を光らせているのだけは分かった。
「仕事なんだ。恨むんじゃねえぞ」
誰かに雇われた殺し屋だろう。当時の私は、ヴィオラが差し向けたのだと思った。あの女は用心深い。私が生きていれば、いつか真実が明らかになる可能性がある。そう考えて、口封じをしようとしたのだろう、と。
だが、今になって考えれば、ヴィオラ個人の思惑だけで説明できることではなかったのかもしれない。メイオール家と裏社会のつながり。そして、私を国外へ追いやった直後という、あまりにも間の良い話だ。
背後に誰がいたのか。当時の私には、考える余裕すらなかった。逃げることもままならない。私は死を覚悟したときだった。
馬の走る音が聞こえてきた。
「な、なんだ……!?」
殺し屋はその音にたじろぎ、舌打ちすると逃げていった。
複数の馬が、こちらへ近づいてくる。やがて、誰かが私の前で馬を止めた。
「大丈夫か?」
低く、落ち着いた声だった。私は返事をしようとしたが、うまく声が出なかった。
あれよあれよという間に馬車へ乗せられ、公爵は謎のつてで国境をくぐり抜け、私はそのまま公爵邸へと連れて行かれた。私は国を追い出されてから一瞬で王国領に帰国したことになる。思いもつかぬ展開だった。
馬から下りたのは、レオンハルトと名乗る人。目がかすんでいたため、顔はよく見えなかった。
声からして、年は二十代くらいだっただろうか。
「降りられるか?」
そっと手を差し伸べられた。触ってみて、大きな手だということが分かった。節が太く、剣を握り続けてきたのだろう。だが、その手は驚くほど静かに、私が手を伸ばすのを待っていた。私は恐る恐る、その手を取った。引かれるままに、私は公爵邸へと入っていった。
彼はまず、私の傷が落ち着くまで部屋を与えてくれた。
「ここにお前を貶めようとする者はいない。気の済むまで休むといい。傷が落ち着いたら、私のところへ来てくれ」
そう言って、彼は出て行った。
私は一人になった。ようやく張り詰めていたものが切れたのか、その場から動くこともできず、ベッドに身を預けた。
暖かい部屋だった。……この数日間、誰も信用できなかった。
友人も、エドワードも、そして両親でさえも。みんなが私に後ろ指を差した。
どうやったのかは分からない。
けれど、私が犯してもいない罪で追い詰められたのは、間違いなく何者かの仕業だった。
あの女は、私から何もかも奪った。
「……エドワード」
その名前をつぶやくと、涙があふれた。
どうして……。小さな頃から一緒だったのに。エドワードのために、何でもしてきた。
未来の夫が喜びそうなことを、いつも考えていた。
あの人はあんなにも頑張り屋なのに、父親から冷遇されている状況が不憫でならなかった。
だから私は必死に考えた。自分にできることを。あざとすぎず、押しつけがましくなく、それでいて、ささやかだけれど気の利いたことを。あの人は頑張っているのだから、自分も頑張ろうと思った。あの人の隣に立てる人間でありたかった。
だけど、結局、彼もヴィオラの思うがままになってしまった。
「どうして……」
誰も味方をしてくれなかった。あれほど長い時間を一緒に過ごした人でさえ、私を信じてくれなかった。私は泣いた。声を押し殺して、何度も泣いた。けれど、泣いたところで何も変わらなかった。
やがて涙も枯れ、疲れ果てて眠りについた。
◆
一日、二日と過ぎた。温かい料理が運ばれ、柔らかな布団で眠ることができた。
誰も私を責めなかったし、罪人扱いなどしなかった。
それだけで、少しずつ心が落ち着いていった。顔の腫れも引き始め、視界も徐々に戻ってきた。
そうだ。あの人は、落ち着いたら私の所に来てくれといっていたはずだ。
私は侍女に場所を聞き、レオンハルト様の書斎へ向かった。
重い扉を開けると、彼はそこにいた。目が見えるようになってから、初めてその姿をまともに見た。
雄々しい黒髪。隆起した筋肉。私を見下ろす、相当に高い背丈。真っ直ぐに私を見つめる赤い眼光。
ただそこに立っているだけなのに、まるで猛獣のような威圧感があった。
怖い。それが私の最初にレオンハルト様を見た感想だった。
「まずは、何があったのかを聞かせてほしい」
それが、彼の最初の言葉だった。
そこから私は、ありのままを話した。
自分でも何を話しているのか分からなくなるほど、要領を得ない話だったと思う。
エドワードとの関係。ヴィオラが転入してきてから、友人が一人、また一人と私から離れていったこと。そして突然、すべての罪を着せられ、顔を焼かれ、国境付近へ捨てられたこと。声はうわずり、緊張で涙も流れた。途中で何度も声が出なくなった。
だが、彼は決して急かさなかった。自分の仕事だってあるはずなのに、それすら脇に置いて、ただ黙ってうなずくばかりだった。
私が一部始終を話し終えると、公爵はしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「申し訳ない」
それが、最初に発した言葉だった。何に対する謝罪なのか、私には分からなかった。
なぜ、この人が謝る必要があるのだろう。
「私はこの件を知っていた」
「……え?」
「お前の事件が起きたことも、その後、ほとんどの者がお前を犯人だと決めつけたことも」
当初は、学園で起きた貴族同士の揉め事に過ぎないと考えていたらしい。しかし、事態は予想外の方向へ進んでいった。アリス・シルヴェインは危険な人物である。シルヴェイン家は娘の犯罪を隠蔽していた。だから、家そのものを取り潰すべきだ。そんな話が、あっという間に広がっていった。
公爵は、そこに違和感を覚えたのだという。
個人の犯罪疑惑が、なぜ家全体の財産没収にまで発展するのか。なぜ、これほど早く処分が決まり、反論する機会さえ与えられないのか。だが、私を犯人とする証拠が揃っているとされる状況で、うかつに公爵が味方をすれば、かえって私の立場を悪くする恐れがあった。
彼は慎重に調査を進めた。しかし、ようやく事件の背後に不審な金の流れを見つけたときには、私はすでに国外へ追いやられていたのだという。
「ようやく、それらしき尻尾をつかんだときには、お前はもう国境へ送られていた」
その声には、これまで聞いたことのないほどの悔恨がにじんでいた。
「私は、これからどうすればいいのでしょうか……」
公爵は目を閉じ、しばらく考えた。
「まずは遠くへ行け。王家も絡む問題となれば、ここでも、今のお前を守り切れるとは言い切れない」
彼は机の上に紙を広げた。海の向こうには、多くの国がある。この国の常識すら及ばない場所が、いくつも存在するのだという。確かに、そんな場所であれば、追っ手も容易には手を出せないだろう。
「しかし、お前をそのまま異国へ放り出すわけにもいかない」
公爵は私を見つめた。
「生きていくための力を身につけろ。誰かに守ってもらうだけでは、いつかまた同じことになる」
それから私は、半年の間、公爵の手伝いをしながら商売に必要な知識をたたき込まれた。
地理や外国語。基礎的な帳簿のつけ方。基礎体力から徹底的に。毎日が厳しい訓練の連続だった。
何度もくじけそうになった。それでも、諦めなかった。
半年後、私は公爵のつての商船に乗り込んだ。
「力をつけろ。別人となって、この国に帰ってこい」
「はい……!」
その言葉を胸に刻み、私は旅立った。
◆
私の旅は、波瀾万丈だった。身振り手振りで必死に会話した。食事だって、出されたものはどんなものでも食べた。道中、死にかけたこともあった。
何度も騙され、財産を失いかけたこともあった。
それでも、諦めなかった。
商売には、エドワードに好かれるために磨いた観察眼が役に立った。人が何を求めているのか。
何を隠しているのか。どこに利益があり、どこに危険が潜んでいるのか。
私は少しずつ、それを見極められるようになっていった。
商売を通じて人脈も広がった。
異国の商人たちと取引を重ねるうちに、私は多くの国の事情を知るようになった。
国によって法律は違う。商人の立場も違う。そして、権力者が民衆をどのように扱うのかも違っていた。
自分の国では当たり前だと思っていたことが、決して当たり前ではないと知った。
私は、自分で稼ぎ、自分で選び、自分で生きる一人の商人となった。
やがて、私の商会は大きくなった。
扱う商品が増え、取引先が増え、私の名前を知る者も増えていった。
気づけば、私はシルヴェイン家の伯爵令嬢ではなく、一人の商人アリスになっていた。
◆
それから十年。私は再び、この国へ帰ってきた。
しかし、帰国した私を待っていたのは、単なる復讐の機会ではなかった。
まず、私が国外へ追いやられた事件の背後には、国王一派の思惑があった。
私の実家のシルヴェイン家は、港や肥沃な農地を複数所有していた。商業と農業の両面で豊かな財源を持ち、同じ伯爵位の家々の中でも、大きな影響力を有していた。
その独立した経済力を、国王一派は虎視眈々と奪う機会をうかがっていたのだ。
そこへ現れたのが、裏社会とつながりのあるメイオール家。ヴィオラ個人の嫉妬や欲望が、どこまで家の思惑と重なっていたのか。彼女がどこまで計画の全容を知っていたのか。
今となっては、すべてを知ることはできない。
だが、少なくとも、私に罪を着せる計画が、単なる婚約者同士の揉め事で終わるものではなかったことは明らかだった。
最初はヴィオラの子供じみた作戦だったのかもしれない。だがそれに大人が便乗し、シルヴェイン家を取り潰す話に変わった。私はその本当の敵に人生を奪われたのだ。文字通り、何もかもを。家族も名誉も地位も。
真なる敵は王家だということ分かった。
この国では、王家に逆らうものが罪人にされ、財産が奪われる。
罪のない人間が犠牲になっても誰も責任をとらない。そんな仕組みそのものを変えなければならないということを知った。
私一人が復讐を果たしたところで、何も変わらない。ヴィオラが裁かれたとしても、王家がこれまでどおりの権力を握っているのなら、別の誰かが同じ目に遭うだけだ。
だからこそ、私は力をつけた。商人として財を築き、情報を集め、国内の反体制派とつながった。
そして、レオンハルト公爵もまた、十年かけて準備を進めていた。王の血族の中でも疎外され、不満を持っていた第二王子を支援し、密かに支持者を増やしてきたのだ。
国王一派の権力は、少しずつ弱まっていた。贅沢を極め、権力を独占し、民衆や貴族たちの不満を顧みなかった結果だ。そこにつけ入る隙が生まれた。
公爵はその機会を逃さなかった。私に招集の手紙をよこしたのも、その手はずが整ったからだろう。エドワードを足止めできれば、防衛機能は機能不全に陥る。そこに兵を出して王城を制圧。
……今、私はようやく背後にいる人間たちにまで影響を与えたのだ。これで私の復讐は完遂した。
「長かったが、ようやく終わりが見えてきたな」
「はい」
私はうなずいた。
その言葉を聞いて、私は少しだけ笑った。昔の私は、生き残るのに必死だった。明日のことなど考える暇もなかった。けれど、今は違う。ようやく、この国に帰ってこられた。
もう、命の心配をせずに、この国で暮らしていけるかもしれない。自分の名前を名乗り、自分の顔を隠さずに歩ける日が来るかもしれない。
「ありがとうございます」
私は心から感謝の言葉を述べた。レオンハルト様は、少しだけ笑った。
「……お前こそ、よく生きて帰ってきてくれた」
その言葉が、胸の奥に深く染み込んでいく。私に学びを与え、生きる場所をくれた人。すべてが敵になっても、私の話に耳を傾け、信じてくれた人。
私が心から尊敬できる人物。それが、レオンハルト様だ。
◆
しばらく、私とレオンハルト様はワインを片手に月を見ていた。
夢にまで見た、二人で落ち着ける時間。
それが今、目の前にある。
レオンハルト様は何かを考えるように、うつむいてから、私の方を見た。
「アリスよ。……これからは、私と共に歩んではくれないか」
不意にそう言われ、私は顔を上げた。
「え……? それって……」
「ああ。私と婚約してくれという意味だ」
それは、願ってもないことだった。自分を救ってくれた恩人であり、世界の誰よりも尊敬できる人。
そんな人が、私に婚約を申し込んでくれている。
だが、本当に、私なんかでいいのだろうか。
レオンハルト公爵が独身であることは、社交界でも有名だった。それだけに、彼のもとには日々、数え切れないほどの縁談が舞い込んでいる。
公爵様ほどのお方であれば、傾国の美女だって手に入れられるはずだ。それなのに、私なんかを選ぶというのか。顔もただれ、この国では地位どころか戸籍すらない私を。
「……なぜ、私なのですか?」
ようやく、それだけを尋ねた。
公爵は、少しだけうつむいた。赤く光る鋭い眼光が少しだけ曇ったような気がした。
「……かつて、私にも婚約者がいた」
「え……?」
初めて聞く話だった。レオンハルト様に婚約者がいたなんて。
「幼い頃から約束した人だった。長い時間をともに過ごし、いずれ夫婦になるものだと信じていた。……だが、彼女は、積み上げた時間も約束も、その時が来れば簡単に踏みにじるような人間だった」
その声には、長い年月を経ても消えない失望がにじんでいた。
「その騒動で、我が家の立場は揺らいだのだ。元より王家は我が家の力を快くは思っていなかったからな。まあ、そのおかげでお前を見つけることが出来たのだが」
公爵家は古くから続く名門でありながら、中央から遠ざけられた存在だと言うことは知っていた。だがそれが、元婚約者の裏切りに端を発していたものだとは知らなかった。
「だからあの日私を疑わなかったんですね……」
「まあな。なんだか、昔の私を見ているような気がしてな」
あの日、誰もが私を罪人だと信じて疑わなかった中で、彼だけが私の話に耳を傾け、疑いを抱いてくれた理由。
それが、なんとなく分かった気がした。
「それ以来、私は誰かを妻に迎えようとは思わなくなった。愛情も忠誠も、いくらでも口にできる。だが、人の心が変わらないという保証など、どこにもない」
公爵は私の目を真っすぐに見つめた。
「……だが、お前は違う」
「私はお前に、生き残ってこいと言った。お前はその言葉を守り、こうして帰ってきた。苦難を乗り越えて成功した今でも、お前はお前のままだ」
彼は、私の頬に残る傷を見つめた。
「人に裏切られることが、どれほどつらいか。お前は誰よりも知っているはずだ。だからこそ私は、お前が他人の信頼を踏みにじるような人間ではないと信じている」
そして、静かに続けた。
「お前であれば、信じて託すに足る。私はそう思ったのだ」
その言葉に、なぜだかうなずいてしまった。
「……私も、同じです」
私は大商人と呼ばれるようになってから、求婚を受けるようになった。けれど、あの日、エドワードに裏切られた時から、私の心は凍りついたままだった。
人を信じることが怖かった。誰かを好きになれば、また同じように裏切られるのではないか。自分のすべてを捧げても、最後には簡単に捨てられてしまうのではないか。
そんな思いが、ずっと心の奥にあった。
レオンハルト様も同じ痛みを知っているのだとすれば。この人となら、少しずつでも分かり合えるかもしれない。
「でも、いいんですか? 私、ほら、顔だってただれていますし……」
「何を言っている。それがお前ではないか。お前が苦労してきた証であり、お前が生きてきた証そのものではないか……」
彼は、私の肩にぽんと手を置いた。
「胸を張れ」
その言葉に、胸がじんわりと暖かくなっていくのが分かった。私は、自分を否定する理由ばかりを探していた。筋肉質すぎる体も。ただれた顔も。この国で失った地位も。
できることなら、すべて隠してしまいたかった。
けれど彼は、私が否定してきたものを、傷ついた過去さえも、すべて私なのだと言ってくれる。真っすぐな、曇りのない目で。その言葉を聞いて、私はようやく気づいた。
もう、自分を恥じる必要などないのだ。
誰かに愛されるために、昔の自分に戻る必要もない。美しい顔である必要も無い。失った十年を取り戻せなくてもいい。私は、私のままで生きていけばいいのだ。この人はそれを私に教えてくれた。
正直まだ信じられない。政争のために、レオンハルト様に利用されているのかもしれない。だがそれは、向こうも同じことではないか?
なら、もう一度信じてみよう。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
その手は、十年前に初めて握った時と同じように、驚くほど静かに私を待っていた。
静かに私は、その手を取った。復讐のためだけではなく。誰かを見返すためでもなく。
これから先の人生を、この人と歩んでいくために。
終
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