第二章 十年の果て
テレビの画面越しに、かつての師・久世の華やかな笑みが流れていた。その男が手にしているのは、建築界で最も権威ある国際的な賞のトロフィーだ。
「この設計には、私のこれまでの人生のすべてを注ぎ込みました」
久世が吐いたその言葉は、篠田にとって鋭利な刃物と同じだった。画面の中で称賛されているその流麗な曲線も、計算され尽くした光の取り込み方も、すべては篠田が業務とは無関係に、自宅で十年の歳月を費やして研鑽を重ねてきた「理想の建築」そのものだった。
コンペのためでも、依頼のためでもない。深夜、机の上で、ただ一人の建築士として引き続けた線だ。
「君の理想を、一度私に見せてくれないか」
それは無名の自分を拾い上げ、十年間そばで育ててくれた男の言葉だった。その言葉を疑う理由など、篠田には何一つなかった。
だが——心からの信頼を込めて預けた設計図が、今、厚顔無恥な盗作として世界に発表されている。
設計図の端々には、自分にしか引けない特有の「癖」が、剥がしきれない執念のように残っていた。ただ一点、署名だけが——久世の名前に無造作に書き換えられていることを除いて。
「あれは、僕の設計図だ……。僕の、十年間だぞ……!」
久世が岬にある別邸に滞在していることは知っていた。人目のない場所なら、あの男も素顔を晒すはずだ。
篠田は震える手でスマートフォンの録音ボタンを確認した。今夜、あの別邸で、すべてを突きつける——盗作の証拠、そして、施工中の死亡事故さえ揉み消した数々の不正の記録。それらを手に、本人の口から直接言わせるのだ。
「あれは君の設計図だ」と——
その録音が公開されれば、久世が築いた名声は、一夜で崩れ去る。それだけが、奪われた十年を取り戻す方法だった。
篠田はスマートフォンをポケットにねじ込み、車を走らせる。ヘッドライトが闇を裂き、岬へ続く細い道を白く照らし出して行く。
だが、光の届く先は数メートルがせいぜいで、その外側は雨を含んだ潮風が視界を塗り潰すように渦巻いていた。篠田はアクセルを緩め、路肩に車を止めた。
そのとき道の脇の闇に、何かが動いた気配がした。
「——篠田さんよぉ。あんた、少し賢くなりすぎたようだな」
聞こえたのは、聞き慣れた久世の声ではなかった。
代わりに現れたのは、威圧感のある風貌の男たちだった。隠しきれない凶暴な眼光、首筋に覗く派手な彫り物、暴力の匂い。久世が秘かに繋がっている裏社会の者たちだ。
篠田が逃げようとしたときには、すでに遅かった。背中を蹴り飛ばされ、雨でぬかるんだ地面を這いずる。爪の間に泥が入り込み、必死で掴もうとした十年の成果——黒い図面筒が、男の手によって軽々と奪い去られた。
「やめろ、それを返せ……!それは、僕の……!」
「あんたのものは何もないよ。この世にあるのは、久世先生の作品だけだ」
男の一人が、篠田の胸ぐらを掴み上げた。背後には、荒れ狂う夜の海。あの「掟」の岬の崖が、口を広げて待っている。
「先生からの伝言だ。……海に返せ、だとよ」
鈍い衝撃が腹部を走った。視界が上下に反転する。重力から解き放たれた感覚のあと、篠田の体は冷たい夜気に包まれた。
(ああ、僕はここで消えるのか)
崖の上で、自分の設計図が入った黒い筒を持つ男たちのシルエットが遠ざかっていく。
その直後、冷徹な海が、篠田のすべてを飲み込んだ。
全身を打ち砕く衝撃。逃れようのない冷たい何かが、口と鼻から一気に流れ込んできた。息ができない。肺が、灼ける。
暗闇が視界の端からではなく、自分自身の内側からどろりと滲み出してくる。十年の歳月も、建築への執念も、このまま黒い水圧に溶けて消えていく。その崩壊していく意識の淵で、篠田は最後に聞いた。
ざわり、ざわりと、海が「新しい拾い物」を歓迎するような、不気味な潮騒の音を。




