拾った猫が毎夜抱いてくる
迷いの森の朝は、いつも霧から始まる。
白いもやが木々のあいだをゆっくりと流れ、小鳥のさえずりさえ、すこし遠く聞こえる。
アリスは小さな山小屋の扉を開け、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が胸の奥まで落ちていく。今日から、自分は「一人前の魔女」としてここに立つ。師匠はもういない。見送る背中すら、ない。
「……やっと、独り立ち、か」
吐いた息が白くほどけていく。その中に、不安と期待が入り交じっていた。
迷いの森は、森そのものが魔力を含んでいて、道を少しでも間違えると同じ場所をくるくると回ってしまう。そんな場所に一人で暮らす魔女は、必ず「使い魔」を持つのが掟だった。道案内であり、魔力を安定させる錨であり、ときには話し相手にもなる存在。
「でも、肝心の使い魔がいないんだよね……」
アリスはため息をつきながら杖をとり、黒いローブのすそを払って、森の小道へと踏み出した。
森の木漏れ日は、薄い金色の帯になって地面を照らしている。
湿った土の匂いと、どこからともなく香る薬草の気配が混ざり合って、アリスにはなじみ深い匂いだった。
「精霊でも、カラスでも、なんでもいいから、話が通じる子がいいなあ」
独り言をこぼしながら歩いていると、ふいに、足もとの影が揺れた。かすかな鳴き声が聞こえた気がする。アリスは立ち止まり、耳をすませた。
森の静けさの中に、か細い「……にゃあ」という声が溶け込んでいる。
「今の、猫……?」
アリスは草むらをかき分けて声のする方へ進んだ。露に濡れた葉がローブのすそに張りつき、ひんやりとした感触が肌に伝わる。
開けた場所の真ん中で、黒い塊が丸くなって震えていた。
つやのある黒い毛並み。だけど泥だらけで、片方の前足をかばうように体を縮めている。
「……ほんとに猫だ」
アリスがそっと近づくと、金色の瞳がぱっとこちらを睨んだ。威嚇するようにひげが震える。けれど、力が入っていないのは一目でわかった。
「大丈夫、大丈夫。食べたりしないから。魔女だけど」
「……にゃあ」
返事なのか、ただのうめき声なのか、よくわからない鳴き声がこぼれる。アリスはそっと両手を差し出した。
「ねえ、私、今日から一人前の魔女になるんだ。使い魔探してたの。よかったら――一緒に住まない?」
猫はじっとアリスを見上げた。金の瞳が、霧の中でも不思議な輝きを放っている。
「もちろん、怪しい儀式とか、変な料理にするとか、そういうのはしないからね。傷も治してあげる」
少しの沈黙ののち、猫は小さく尻尾を動かした。拒否ではない、ような気がした。アリスはそっと抱き上げる。ふわりと、驚くほど軽い。
「よし、じゃあ決まり。えっと……名前、どうしよう?」
森の奥から、さわさわと風が吹き抜ける。
木の葉がゆれ、こすれ合う音が、柔らかな囁きのように耳をなでた。
「今は冬のはじまりだから……ノエル。どう?」
「……にゃ」
先ほどより、少しだけ柔らかい鳴き声だった。アリスは思わず笑みをこぼす。
「ノエルね。じゃあノエル、帰ろう。うち、ちょっと散らかってるけど」
抱きかかえた猫の体温が、腕から胸元へじんわりと移ってくる。そのぬくもりに、アリスの固くなっていた肩の力が、少し抜けた。
山小屋の中は、乾いたハーブの匂いと、古い木材の温もりが満ちていた。
窓からは斜めに光が差し込み、棚に並ぶ瓶の中身をきらきらと輝かせている。
「ちょっと待ってね、治癒の準備するから」
アリスはノエルをふかふかの毛布の上にそっと乗せ、棚から瓶をいくつか取り出す。薬草を刻む音、乳鉢をこする音が、こじんまりとした部屋に小さく響いた。
作りたての軟膏を、ノエルの怪我した足に塗る。ノエルはむずかるようにひげをぴくぴくさせたが、別にひっかいたりはしなかった。
「偉い偉い。あとでごはん用意するから、今日はゆっくり休んでてね」
そう言うと、ノエルは毛布に顔を埋めて丸くなった。しばらくすると、かすかな寝息が聞こえてくる。
魔女の家の夜は、暖炉の火で赤く染まる。
窓の外には濃い闇がかかり、森の気配だけが静かに寄り添っている。
その晩、アリスは古い魔導書を引っ張り出していた。使い魔との契約について書かれた章を探し出し、ページをめくる。
「えっと、魂の結びつきがどうとか……うわ、難しい字」
指でなぞっていたアリスの目に、「番契約」という文字が飛び込んできた。
「ばん……? えーと、『一生を共にする存在として交わす契約。魔力の共有と、精神的結びつきが最も安定する』。ふむふむ」
難しい部分はだいたい読み飛ばしながら、アリスはうなずいた。
「一生を共に、って、長く仲良くできますよ、って意味だよね。安定、大事。魔力暴走とか絶対やだし」
ページの端には、簡略化した契約式が書かれている。魔方陣も小さくて済むし、準備するものも少ない。
「ちょうどいいじゃない。ノエルが起きたら、これで契約しよう」
アリスはそう決めて、眠っている黒猫をちらりと見やる。丸くなった背中が、ゆっくり上下している。見ているだけで、胸の中がほんのりあたたかくなる感覚がした。
夜の森は、深い闇の底で星だけが瞬いていた。
冷たい風が枝を揺らし、それでも小屋の中だけは、暖炉の火が揺れ、柔らかな光で守られている。
ノエルが目を覚ましたとき、部屋の真ん中には小さな魔方陣が描かれていた。アリスは膝をつき、緊張したように肩を強張らせている。
「ノエル、起きた? えっとね、使い魔の契約っていうのをしようと思うんだけど」
「……にゃ?」
「痛いことはしないから。ちょっとだけ、前足と私の指を合わせてね」
ノエルは首をかしげるようにして、ゆっくりとアリスの前に歩み寄った。怪我した足も、さきほどよりかなり楽そうだ。アリスはほっとしながら、小さく笑う。
「ありがと。じゃあ、始めるね」
アリスは魔導書を片手に、唱えるべき文言を読み上げていく。
石床に描かれた魔方陣が、淡い青白い光を帯び始めた。
「……我、迷いの森の魔女アリス。この魂、この魔力、この日常を、番として共に歩む者に捧ぐ――」
その言葉に、ノエルの耳がぴくりと動いた。
アリスは気づかないまま、儀式を続ける。指先と、ノエルの前足がそっと触れ合う。その瞬間、光がぱっと弾けた。
森の空気が、一瞬だけ震えたように感じられた。
小屋の外で、風鈴のような音がかすかに鳴り、すぐにまた静寂が戻る。
「……成功?」
アリスが目をぱちぱちさせると、ノエルの金色の瞳が、今までよりずっと澄んだ光を湛えていた。何かを理解しているような、そんな目。
「まあいいか。これで、ノエルは私の使い魔だね。よろしく」
アリスが差し出した手に、ノエルは自分から頭をこつんと押しつけた。
その夜、月は雲間から顔を出し、銀色の光が森を洗っていた。
静まり返った小屋の中では、アリスが布団にもぐりこみ、長い一日を思い返しながらまどろみに沈んでいく。
「ふあ……今日は疲れた……」
ベッドの足もとには、丸くなったノエルがいる。小さな背中が、窓から差し込む月明かりに照らされて、黒い影を床に落としていた。
アリスが半分眠りかけたとき――ふいに、布団がふわりと沈んだ。
「え……?」
半分夢の中にあった意識が、一気に現実へ引き戻される。温かい何かが、ぐいっと自分の体に巻きついてきた。
「……あったか」
思わずそう呟いてから、アリスははっと目を見開いた。
目の前にあったのは、猫ではない。
黒髪に、金色の瞳。どこか獣めいたしなやかさをまとった、若い男の顔が、ほんの数センチの距離にあった。
「……っっっっっ!?」
アリスの喉から、声にならない悲鳴が漏れる。けれど、その前に腕がぎゅっと締まって、逃げ道がふさがれた。
「うるさい。寝る」
低く、どこか不機嫌そうな声。けれど耳の先が、ほんの少し赤い気がした。
「ね、寝るって……ちょ、誰!? なんで私のベッドに!?」
「誰って……おまえが名前をくれた」
男はあたり前のように言い、アリスの髪に顔をうずめる。くすぐったくて、心臓が変なリズムで跳ね始める。
「ま、待って、えっと、ノエルは? うちの猫のノエル、知らない!?」
「ここ」
「どこ!?」
「ここだって」
男は面倒くさそうに、アリスの腕の中で片手をひらひらと振った。その指先に、黒い毛がふわりと浮かんでは消える。魔力の揺らぎが、猫の姿と人の姿の境界を示していた。
「……え、もしかして、ノエル?」
「ようやく気づいた。鈍い魔女」
「鈍くないもん! そんなの普通、誰も想像しないでしょ!?」
アリスがじたばたともがくと、ノエルはさらにきゅっと抱き寄せてくる。
「暴れるな。逃げたら迷子になる」
「どこから迷子になるのよ!」
「俺の腕の中から」
「意味わかんない!」
半泣きになりかけているアリスの耳元で、ノエルは小さく笑った。金色の瞳が、月明かりを反射してきらりと光る。
「番の契約、しただろ。俺の嫁」
「してないから!? あれはただの使い魔契約で――」
「番契約の文言、全部言った。『一生を共に』『番として共に歩む』。ちゃんと聞いてた」
「うっ……!」
痛いところを突かれ、アリスは言葉に詰まる。たしかに、魔導書に書いてあった文句を、そのまま読んだ。難しいところは飛ばしたけれど、そこはわかりやすかったから、逆にそのまま読み上げてしまったのだ。
「でも、番って、そういう意味だなんて……」
「知らずに契約したのはおまえだ。俺は止めてない」
「止めてよ!?」
「だって、ちょうどよかった」
ノエルはさらりと言い放ち、アリスの額に自分の額をこつんと当てる。近すぎる距離に、思わず息が詰まった。
「迷いの森で独り立ちする魔女。魔力もそこそこ。性格は……まあ、悪くない」
「最後、一言いらない!」
「俺は番がほしかった。おまえは使い魔がほしかった。利害一致」
「そんな雑な結論で一生決められたくないんだけど!?」
暖炉の火がぱちぱちと音を立ててはぜる。
静かな夜の中で、二人の声だけが、小さな小屋に満ちていく。
しばらく押し問答を続けた末、アリスはぐったりと力尽きた。
「……わかった。とりあえず、今夜だけはこのままでいていいから。明日、朝になったらちゃんと話し合いさせて……」
「今も話してる」
「そういう意味じゃなくて……!」
ぐずぐずと言いながらも、アリスのまぶたはだんだん重くなっていく。ノエルの体温が、あまりにも心地よかった。人の姿でも、猫のときと同じ、あの不思議に安心する匂いがした。
「……ほんとに、番とか、嫁とか、そういうの、私は、簡単に……」
「簡単じゃない。森で迷ってた俺を拾って、名前をつけて、命を繋げた魔女は、おまえだけ」
ノエルの声が、さっきまでより少しだけ柔らかくなる。
「おまえが一人で寂しくないように。おまえが迷子にならないように。俺はそばにいる。それだけ」
その言葉に、アリスの胸の奥で何かがふっとほどけた。
気づけば、彼の腕の中で、安心しきった子どものように深い眠りに落ちていた。
翌朝、迷いの森の空は、薄く曇っていた。
小屋の外では、鳥たちがひそひそと内緒話でもしているようにさえずっている。
アリスが目を覚ますと、隣には、いつものように黒い猫が丸くなっていた。
「あれ……夢、じゃないよね」
猫の耳をつつくと、金色の瞳がぱちりと開いた。
「おはよう、嫁」
「だから嫁じゃないってば!」
叫んだ声が、森の中へ明るく飛び出していった。
それからの日々、迷いの森の小さな小屋には、毎晩のように同じ光景がくり返された。
日中は黒猫のノエルが、棚の上からアリスの魔法実験をじろじろ眺め、危なそうなときだけ、尻尾で魔導書を押し戻して邪魔をする。
「今の、重要なページだったんだけど!?」
「爆発する呪文だった」
「え、そうなの?」
「読んでなかったのか、鈍い魔女」
「……ありがとう」
ぶつぶつ言いながらも、アリスはノエルの頭を撫でてしまう。すると、ノエルは気持ちよさそうに喉を鳴らすのだった。
夕暮れには、森の奥まで出かけて一緒に薬草を集めた。
猫の姿のノエルは、なぜかいつも最短距離で目的の草むらに案内してくれる。さすが迷いの森に選ばれた使い魔だけある、とアリスは内心感心していた。
「ノエル、これ、ほんとにこの草で合ってる?」
「合ってる」
「根っこごと抜いちゃっていい?」
「いい」
「……なんでそんなに適当なの?」
「俺は場所を教える係。何に使うかは魔女の仕事」
「はいはい」
森の木漏れ日の中で、二人のやりとりが、葉陰の風のようにささやかに続いていく。
そして夜になると、暖炉の火が落ち着いたころ合いを見計らって、ノエルは人の姿に変わる。
アリスが「今日はちゃんと距離を――」と言いかけるより早く、ぐいっと腕の中に引き寄せられる。
「ちょっ、ノエル!」
「今日もよく働いたな、俺の魔女」
「働いたのは私でしょ!?」
「俺も働いた。場所案内した」
「それは……まあ……」
抱き締められたまま、アリスはむくれた顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。最初のころほど、じたばたともがいたりはしない。
迷いの森の夜は長い。
その長さを、二人で分け合って過ごす時間にも、少しずつ慣れていった。
時々、アリスは思う。もしあの日、あの霧の朝に、あの草むらを覗かなかったら。もしノエルを見つけなかったら。
この森の静けさは、今よりずっと重かったに違いない。
「ねえ、ノエル」
ある晩、アリスは彼の腕の中でぽつりと呟いた。月の光が窓から差し込み、部屋をやわらかく照らしている。
「なに」
「番の契約ってさ……本当は、どういう意味なの?」
ノエルはしばらく黙ったまま、アリスの髪を指でとかしていた。黒猫のときと同じ仕草なのに、人の手だと妙にこそばゆい。
「そうだな」
ノエルはゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「番は、一緒に暮らす相手。迷っても、戻る場所。互いの魔力を繋いで、どっちかが倒れても、もう片方が引っ張り上げる」
「……ずいぶん、しっかりした説明だね」
「当たり前。俺は真面目だから」
「どこが!?」
思わず突っ込みを入れながらも、その説明は、アリスの心にすとんと落ちた。難しい専門用語より、ずっとわかりやすかった。
「じゃあ……私は、どこに戻ればいいの?」
小さな声でそう問いかけたアリスを、ノエルはきゅっと抱き寄せる。
「ここ。迷いの森の真ん中。おまえの小屋。そして俺の腕の中」
「最後のは、やっぱりいらない」
「一番大事」
「……ノエルって、ほんと、ずるい」
口では文句を言いながらも、アリスはもう逃げようとはしなかった。
彼の胸に耳を押し当てると、規則正しい鼓動が聞こえてくる。その音に、自分の心臓の音が少しずつ重なっていくのを感じた。
迷いの森は、相変わらず人を惑わせる。
道は突然ねじれ、同じ木が何度も目の前に現れる。冒険者たちは、何度も迷い、何度もあきらめて引き返していった。
けれど、森の奥の小さな小屋だけは、いつも同じ場所にあった。
窓からは暖かな光が漏れ、夜には笑い声と、時々アリスの悲鳴まじりの抗議が聞こえる。
「だから嫁じゃないって言ってるでしょー!?」
「はいはい、番の嫁」
「意味変わってないから!」
そんな二人のやりとりを、森の木々は、霧の向こうから静かに見守っていた。
やがて、森をさまよう者たちはこう噂するようになる。
迷いの森のどこかに、道に迷っても必ず帰れる家があるらしい。
その家には、黒い猫と、少しやかましい魔女がいるらしい。
そこへ辿り着いた者は、ふしぎと、心の迷いも少し軽くなって森を出ていくのだという。
今日もまた、霧の朝がやってくる。
アリスは扉を開け、深く息を吸い込む。その背後では、黒猫がしっぽをゆらし、当然のように彼女の足もとにまとわりついた。
「行くぞ、俺の魔女」
「はいはい。……行ってきます、ノエル」
迷いの森の中を歩く二つの影は、もう、どこかとても自然に並んでいた。




