私の日常
私は、何故生まれたのか。生まれたことを後悔し続けている。
私の名前は、藤宮葵。27歳。地方公務員である。
私は、生まれつき、両足に脳性麻痺という病気をもっており、自力での歩行は困難。そのため、車椅子を使用している。
私は3つ子だ。でも歩けないのは、私だけ。
保育園の時は、まだ良かった。みんな出来ないことが同じくらいだったから。
私は、小学校5年生までは、姉弟たちと同じ学校に通っていた。最初、中学校は養護学校にしようと親に言われた。その一番の理由は、中学校の校舎が古く、車椅子ではとても通えないこと。周りの子たちは、自分の事は自分でやれる。でも私は、誰かに手伝って貰わないと出来ないことが必ず出てくる。小学校低学年の時点で親からもそう言われていた。私も幼いながらにそれを理解し、友達を作り、いっぱい遊んだ。とても楽しかった。
その状況が変わってきたのが、小学校4年生の時。
この学年から私は体育の授業を見学する時間が増えていく。小学校1年〜3年まではサポートの先生が居てくれたからみんなとメニューは違うけれど、先生と2人で体育の授業をやっていた。それが4年生からは、サポートの先生が居なくなった。授業の内容も縄跳びや跳び箱など車椅子では出来ないことが増えていった。
1番辛かったのは、冬の時期。私の住んでいる場所は北国なので、冬の体育の授業は、「雪遊び」というものが出てくる。これが、私にとって辛くて、悲しい時間だった。
私は、車椅子だからもちろん一人で外には行けない。
スキーウェアに一人で着替えるのもかなり時間がかかる。外に行けたとしても、みんながスキーを楽しんでるのをただ一人、寒空の下で遠くから眺めるだけ。
それでも、最初は置いていかれたくなくて、頑張って体育の授業に参加した。けれど、すぐに後悔した。
ただ、見ているだけなのは、こんなに退屈で、悲しくて、辛いことなんだって。
目の前の友達は、楽しそうに笑いあってスキーを楽しんでるのに、私は一人で雪玉を作るだけ。
それから、私は体育の授業には参加せず、体育の時間は、外から時々聞こえてくる友達の笑い声を聞きながら、ひとりぼっちの教室でひたすら計算ドリルや漢字ドリルをやっていた。今思い出しても、胸が苦しくなるような時間で、私が初めて、「健常者」と「障がい者」の違いを目の当たりにした瞬間だった。




