旦那様には想い人がいるようなので、私は好きにさせていただきます
「俺には恋人がいる」
「はい、存じておりますわ」
初夜の閨にて、カルベスにそう告げられても、ミアは動じることがなかった。
この結婚は家同士が決めたものだし、カルベスが子爵令嬢マデリーンと恋仲であることをミアは承知している。
「愛人関係を続けてくださって構いません。その代わり、私も好きにさせていただきますわ」
「……好きに?」
「ええ。趣味とか、交友とか。束縛はお互いなしで」
あまりにさらりと言われて、カルベスは言葉を失う。
「ところで、子作りはいかがいたしましょうか?」
平然と訊ねるミアに、ワインを飲んでいたカルベスは盛大に吹いてしまった。
ミアは笑顔のままハンカチを差し出す。
「い、一応……跡継ぎは必要だが……」
「どうします? 私でもいいですが、想い人に作ってもらっても構いませんけど?」
「へ??」
カルベスが固まったので、ミアは拒否の意思だろうと思い、就寝することにした。
「では、おやすみなさいませ」
その夜、ミアはぐっすり眠りについた。
ちなみにカルベスは、一睡もできなかった。
宣言通り、翌日からミアは好き勝手なことをした。
のんびり本を読んだり、庭で土いじりをしたり、川で釣りをしたり、竈でパンを焼いたり。
「わあ、このパン奥様が作られたんですか?」
「美味しいですね」
ミアはたちまち使用人たちのあいだで人気になった。
料理人と一緒にデザート作りをしたり、庭師と楽しく植木をしたり、病で伏せっている義父とおしゃべりした。
数日間外泊していたカルベスが帰宅すると、邸宅内がやけに明るいことに驚く。
使用人はにこにこしているし、寝たきりだった父はダイニングでミアとともに食事をしていた。
「あら、旦那様。おかえりだったのですね。ご一緒にお食事はいかがですか? ちょうどパンが焼けましたの」
そのパンを使用人ではなくミアが運んでいる。
そのことにカルベスは驚愕した。
「あなた、何してるんですか?」
「見ての通り、パンを焼いたのです。あ、今日のメイン料理のお魚の香草焼きも料理長と一緒に考案したんですよ。食べます?」
「あ、ああ……」
カルベスが席に着くと和やかに食事が始まった。
ミアと父が楽しげに会話している。
カルベスはひとり取り残されたような気持ちになり、複雑だった。
「そういえば旦那様、マデリーン様はお元気でしたか?」
カルベスは盛大にむせた。
使用人が慌ててハンカチを渡す。
「ごほっ、いや……外出は視察だった……マデリーンとは会ってない」
「そうですか。失礼しました」
ミアはまったく悪びれた様子もなく、再び食事を続けた。
カルベスは思う。
わざとやっているのだろうかと。
カルベスにとってミアの印象は、出会う前から最悪だった。
彼女の祖母は、かつて社交界で“悪女”と恐れられたユーベルト伯爵。
孫娘もさぞ傲慢で我儘に違いない。そう思っていた。
その噂はあながち間違ってはいないようだ。
自由気ままに過ごし、空気の読めない発言をする。
しかし、周囲が明るくなったので、悪い人ではないのだろう。
カルベスは執務机の引き出しから、一通の手紙を取り出す。
【愛するカルベスへ。早くお会いしたいわ】
マデリーンからの手紙だった。
カルベスは切なく目を伏せた。
一方、ミアは毎日が充実していた。
この日は自ら焼いたケーキを囲み、使用人たちとアフタヌーンティーを楽しんでいた。
使用人たちはカルベスの話題を持ち出す。
その話にミアは驚いて紅茶を飲む手を止めた。
「ええ? マデリーン様は文通相手なんですか?」
使用人たちの話によれば、カルベスとマデリーンは3年前、パーティで出会ったという。
マデリーンが庭園で泣いていたところを、カルベスがそっとハンカチを差し出し、ふたりは恋に落ちたらしい。
侯爵領と子爵領が遠く離れているため、実際に会うことはできず、文通だけで想いをつないでいたという。
カルベスが参加するパーティにはマデリーンが現れず、マデリーンが参加するパーティにはカルベスが行けない。
そんなすれ違いの中でふたりの恋はどんどん燃え上がったのだという。
その話を聞いたミアは神妙な面持ちになった。
その空気を察した使用人たちが目を見合わせる。
しかし、ミアの口から飛び出したのは、誰もが想像しなかった言葉だ。
「可哀想だわ。旦那様の恋がうまくいくよう、私たちが応援してあげましょう」
「はい!?」
使用人たちは絶句した。
そんなある日、ついにカルベスとマデリーンが再会することになった。
マデリーンの父が近くを訪れる機会があり、彼女は途中まで同行し、その後カルベスに会いにくるという旨が手紙に書かれていた。
マデリーンに会えるのは嬉しいが、妻のいる侯爵家に招き入れるべきかどうかとカルベスは迷った。
しかしミアはあっさりと認めた。
「マデリーン様に最高のおもてなしをしましょう。私はケーキを焼きますね」
来客に備えて料理の準備や部屋の掃除と飾り付け、そんな使用人がすることをミアも率先しておこなった。
カルベスはその様子をこっそり見ていた。
すると、使用人たちがミアと話す内容が耳に入った。
「奥様はなぜ、愛人のためにそこまでするんですか?」
「両想いの方々が幸せになることを願っているだけですわ」
「あのう……嫉妬とか、ないんですか?」
「ええ。だって私は旦那様に欠片も興味ありませんから」
ミアのさっぱりした発言に、カルベスは胸の奥でガラスが粉々に砕けたような気持ちになった。
興味ありませんから、のミアの言葉が頭の中を反響し、その夜カルベスは一睡もできなかった。
ついに、侯爵家にマデリーンが訪れた。
マデリーンはカルベスと目が合った瞬間、ほろほろと大粒の涙をこぼした。
カルベスもまた、切なげな表情で迎えた。
一方、ミアはその光景を見てにこにこ笑っている。
使用人たちは微妙な面持ちで3人の様子を見守る。
マデリーンは満面の笑みでミアに挨拶した。
「奥様、私たちの恋を許してくださってありがとうございます!」
使用人たちは思わずドン引き。
カルベスも、微笑むミアを見て複雑な表情を浮かべた。
いつもの明るい邸宅内とは違い、今日は妙に硬い空気が広がっていた。
食事の際、マデリーンは好き嫌いが激しく、出される料理のほとんどを口にしなかった。
ミアがマデリーンに声をかけた。
「口に合いませんでしたか? 料理長とこの日のために考案したメニューでしたが」
「え? あなたが作ったの?」
「ええ。私の実家の定番メニューを侯爵家用にアレンジしたのですが」
「どうりで味に深みがないと思ったわ」
「そうですか?」
ミアは目を丸くした。
マデリーンはそれ以上食事をせず、眠いから寝ると言って客室へ戻っていった。
ミアはカルベスに謝罪する。
「せっかくの晩餐を台無しにしてしまってすみません」
「いや、君が謝ることはないよ。俺はこの料理、美味いと思う」
「まあ、ありがとうございます」
ミアはたいして気にする様子もなく、満面の笑顔になった。
翌日、機嫌を直したマデリーンが庭を散歩したいとカルベスを誘った。
ふたりで庭園を歩くことが夢だったと涙ぐみながら語るマデリーン。
すると、彼女の帽子が風にふわっと舞いあがり、花壇に入ってしまった。
「あら、大変」
マデリーンはずかずかと花壇に侵入していく。
そこにはミアが植えた花の苗が育っていたが、マデリーンのヒールでぐちゃぐちゃに踏み潰されていく。
カルベスは慌ててマデリーンの腕を掴んで引きとめた。
しかし彼女はそれを手を繋ぎたいのだと勘違いし、カルベスにぴったりくっついた。
「いやだわ、ドレスの裾に土がついてしまったわ。着替えなくちゃ。お部屋まで送ってくださる?」
カルベスは眉をひそめたが、頷いて彼女を部屋まで送った。
部屋へ戻ったマデリーンは疲れたから昼寝をすると言ってベッドに横になった。
「カルベス、あなたも一緒にお昼寝しない?」
「いや、俺は少し用事があるから、ゆっくりするといいよ」
カルベスを誘ったつもりのマデリーンは不貞腐れて寝入ってしまった。
カルベスは花壇の苗が気になっていた。
シャベルを手に庭へ向かうと、そこにはすでにミアがいた。
彼女は潰された苗を取り除き、被害のないものだけ整えていく。
「申し訳ない」
「なぜ旦那様が謝るのですか? ヒールの跡がありますから、マデリーン様が間違って歩いたのでしょう」
「不注意だった俺にも責任がある。あなたが植えた花を知っていたのに……」
「謝らないでください。旦那様は気になって戻ってきてくださったのでしょう?」
カルベスはミアとともに花を植え替えた。
その頃、昼寝から起きたマデリーンはカルベスを探しまわっていた。
すると、ミアと笑顔で話すカルベスの姿を目にし、怒りを露わにする。
「何あれ? カルベスはあたしのものなのに!」
マデリーンは駆け寄り、カルベスの腕にしがみついた。
「まあカルベスったら。探しましたのよ」
驚いて固まるカルベス。ミアは申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい。おふたりの邪魔をしてしまって。旦那様、もうここはいいのでマデリーン様についててあげてくださいませ」
その言葉に、カルベスの表情はさらに強張った。
翌日、マデリーンは町へ出かけたいと言った。
ちょうど父の体調が優れないので気になったが、ミアが様子を見るから大丈夫と言った。
カルベスは罪悪感を抱きつつ、マデリーンと出かけた。
町の高級洋装店でドレスを試着するマデリーン。
カルベスは展示されるドレスを見て、ふとミアに似合いそうだと想像してしまう。
観劇では、数年ぶりに再会した恋人たちが愛を語り合う物語。
マデリーンは涙をこぼすが、カルベスの心は別のところにあった。
「まるであたしたちのことのようだったわ。ねえ、カルベス?」
訊かれても、カルベスは空返事。
父の体調やミアのことが気になって仕方ない。
「申し訳ない。父の具合が心配だ。今日は早めに帰ってもいいだろうか?」
マデリーンは瞬時に顔が強張って、声を荒げた。
「どうして? あたしたちは数年ぶりに再会したのよ。次はいつ会えるかわからないのよ。今日はあたしのことだけ考えて!」
結局、マデリーンに付き合い、宝石店での買い物、高級レストランでの食事、貴族御用達ロッジでの星空鑑賞タイムまでこなした。
「今夜はここに泊まりましょう。ふたりきりの夜だもの。あたしたちは愛し合うべきだわ」
しかし、階下には使用人がおり、カルベス自身にその気は全くない。
断ると、マデリーンは大泣きした。
カルベスは泣きつかれたマデリーンをなだめ、ぐったりと座り込む。
マデリーンが寝落ちした頃、彼は小さく呟いた。
「……帰りたい」
その日、カルベスはマデリーンと出かけたまま、侯爵家には帰宅しなかった。
使用人たちは小声でひそひそ話す。
ついに愛人と一線を越えてしまったのだと。
ミアはいつも通り朝食をとり、庭仕事に励んだ。
苗を植え直した花壇の周囲に小さな柵を張り巡らせる。
「ふう、これでマデリーン様が気づかずに足を踏み入れることはないでしょう」
「ふむ……柵がなくとも普通の人なら気遣えるはずなんだが……」
庭師は怪訝な顔でそんなことをぼやいた。
庭の作業を終えたあと、ミアは近くの川へ釣りに出かけた。
森の中は涼しい風が吹いて心地いい。
背後に使用人たちが数人、サンドイッチを手におしゃべりをしていた。
「やったわ! 今晩のおかずよ」
ミアが勢いよく魚を釣り上げ、背後から歓声が上がった。
そのとき、カルベスとマデリーンが通りかかった。
どうやら森の中を散歩していたようだ。
「あら、旦那様。おかえりなさいませ」
「君は何をやっているんだ?」
「見ての通り釣りですわ」
カルベスは呆気にとられる。
するとマデリーンが高らかに声を上げた。
「貴族の夫人のお姿とは到底思えませんわ。奥様はまるで平民のようですね」
「そうなんですよー。8歳まで平民として育ったので、なんでもできるんです」
「え?」
マデリーンは嫌味のつもりだったのに、普通に返されて唖然とした。
「両親を亡くしてから祖母に引き取られたので、そこから厳しい令嬢教育を受けて何とかマナーを学びました。でも、平民の癖は直りませんねえ」
ミアは平然と釣り竿に魚の餌を取りつける。
それを見たマデリーンは「ひっ」と気持ち悪そうに顔を歪めた。
「さすが奥様、動じませんね」
使用人たちは笑っている。
マデリーンが汚いものでも見るようにミアに目を向けていると、カルベスは横から口を挟んだ。
「実は俺も釣りが好きなんだ。子供の頃、父とよくこの川で釣ったものだ」
「まあ、そうなんですね」
「遠く異国の海で釣りをしたこともある」
「それは楽しそうですわ。ぜひそのお話をお聞きしたいものです」
ミアが目をきらきらさせると、カルベスも笑顔で答えた。
その様子を見てマデリーンは顔を引きつらせ、ぐいっとカルベスの腕を掴んで言い放った。
「子供の頃の話でしょ。どうでもいいじゃない。早く私をお屋敷に連れて帰って。疲れたから休みたいわ」
「あ、ああ。すまない、ミア」
カルベスは慌ててミアに謝罪すると、マデリーンに腕を引っ張られながら屋敷に戻っていった。
「あー、なんかスッキリしたわ」
使用人たちはそんなことを言ってお互いに笑い合った。
ミアはすでにふたりのことは忘れて釣りを再開していた。
その夜の晩餐は魚料理だった。
昼間にミアが釣った魚が使われていた。
マデリーンはあからさまに表情を引きつらせた。
「魚は嫌いなのよ。肉料理に替えてくださる?」
「マデリーン、魚は大丈夫だと言っていたじゃないか」
「今日から嫌いになったの!」
「はあ?」
さすがにカルベスもうんざりして声を荒らげる。
すると、ミアが料理長に頼んだ。
「明日に使う私のお肉を分けてあげてくださる?」
「しかし、それでは奥様の明日の分が……」
「明日も魚を釣ってくるわ」
ミアは笑顔でそう言って、美味しそうに魚料理を食べた。
マデリーンはじろりとミアを睨みつけると、席を立った。
「疲れたから寝るわ」
そう言ってマデリーンはさっさと客室へ戻ってしまった。
カルベスはミアに謝罪する。
「本当に申し訳ない」
「大丈夫ですよ。私だって魚を食べたくないときがありますから」
「明日の食事の肉は俺の分を分けて使ってもらっていい」
「必要ありませんわ。私、じゃがいもを揚げて塩を振りかけた料理でも満足ですから」
カルベスは一瞬思考が固まったものの、頭の中でミアがじゃがいもを揚げて塩を振りかける様子を想像してしまった。
そして、マデリーンが侯爵家を去る日がやって来た。
出発の準備を終えたマデリーンは、エントランスでカルベスのもとへ駆け寄り、涙を浮かべながら懇願した。
「ああ、カルベス。もう離れるなんて寂しいわ。お願い、キスをして」
その言葉に、使用人たちは思わず顔を背けてドン引き。
カルベスも狼狽え、戸惑いの色を隠せない。
一方、ミアは冷静なまま静かにその光景を見守っている。
「キスをしてくれなきゃ帰らないわ」
マデリーンはさらに強気に言い、周囲を困惑させた。
すると、突然ミアが後ろを向き、周囲に命じた。
「旦那様、これで恥ずかしくありませんわ。さあ、みんなも後ろを向いて」
ミアの指示で、使用人たちも後ろを向く。
マデリーンは目を閉じて、カルベスの口づけを待つ。
困惑するカルベスはしばらく立ち尽くしたが、結局マデリーンの額にそっとキスをした。
不満そうな表情を見せるマデリーンに、カルベスは落ち着いた声で告げる。
「会えてよかった。ありがとう」
さっぱりとした挨拶だった。
マデリーンは涙を堪えきれず、カルベスに抱きついた。
「愛しているわ、カルベス。私たちの愛は不滅よ!」
使用人たちは呆れ顔をしていた。
マデリーンを乗せた馬車が遠く見えなくなるまで、カルベスとミアは見送った。
カルベスはふとミアに顔を向けた。
「迷惑をかけてすまなかった」
ミアは微笑みながら優しく答える。
「旦那様は何も悪いことをしていないでしょう? 謝る必要などありませんわ」
カルベスはその笑顔に、胸の奥で重い罪悪感を抱きながら、ふと考える。
自分は何かとんでもない勘違いをしているのではないかと。
元の落ち着いた侯爵家に戻ると、ミアはいつものようにケーキやパンを作ったりして過ごした。
すると、なぜかカルベスがひょっこり現れ、興味深そうに見学した。
ミアはカルベスの好物であるレモンケーキを丁寧に作る。
作業を終えると、使用人たちがそれぞれ用事を告げて離れていき、なぜかふたりきりにされてしまった。
料理長も材料を調達すると言って出かけてしまった。
「食べます?」
「ああ、喜んで」
ミアはカルベスと庭のベンチでケーキを食べた。
貴族らしさはなく、手掴みで食べるという無作法だが、カルベスは特に何も言わずそうした。
そして話題はお互いの子供時代の話へ。
「君は平民だったと言っていたけど、どんな暮らしをしていたのか訊いてもいい?」
「はい、いいですよ」
ミアの父は平民で、貴族の母は駈け落ち同然で家を出て彼と一緒になったという。
荷物運びの仕事をしていた父はある日足を骨折してしばらく働けなくなった。
そのときは金がなく、パンを買う余裕がないので母と一緒に作っていたと。
馬車でとなりの町から帰還中に山岳の崖崩れによりふたりは命を落とした。
ふたりに守られたおかげで無傷で済んだミアはその後、祖母が迎えに来て、伯爵家に引き取られたのだと。
「結構、重い話だな……君は苦労したんだね」
「苦労と思ったことはありませんわ。けれど、両親のことは今でも思い出すと切なくなります」
「そうだろうな」
「ええ。ですから、旦那様もマデリーン様とご一緒になりたいときは、駈け落ちではなく私にまず相談なさってください」
「は!?」
「いつでも離婚に応じますから」
にっこりと笑ってそんなことを言うミアに、カルベスは酷く傷ついてしまった。
そして同時に思う。
自分は傷つくような立場ではないのにと。
カルベスは執務以外は空いた時間があればミアの花壇の手入れを手伝った。
庭師たちは遠慮して、ふたりをそっとしておくことにした。
また、ミアはカルベスの執務を手伝うようになり、財産管理の一部も任されるようになった。
使用人たちのあいだでは「このまま平穏な日々が続けばいいのに」という声も聞こえた。
だが、ミアの胸中は複雑だった。
こう毎日カルベスがそばにいると自由な時間が減ってしまう。
カルベスがいようがいまいが、自由にするつもりはあるが、やはり多少相手を気遣わなければならない。
それに、一番の懸念はマデリーンのことだった。
お飾り妻なのに本命の愛人より仲良くするのはどうなのかと危惧した。
なので、ミアは少しずつカルベスと距離を置くことにした。
一方、カルベスはその変化に違和感を抱いていた。
邸宅内で偶然出くわしても、話しかけようとすると、ミアはさらりとかわしてしまう。
ある日、庭でミアが庭師と楽しそうに話している姿を目にして、カルベスの胸に焦りが走った。
つい割り込みたくなったが、すぐに足を止めた。
ミアがこの屋敷で自由に過ごすことを条件に、自分の恋路を認めてもらったのだ。
無理に干渉する権利などないのだ。
数日後、カルベスのもとにマデリーンから手紙が届く。
これまでは心を躍らせながら開封していたが、今はどこか憂鬱で重苦しい。
中身はいつものように香水の振りかけられた手紙が入っていた。
【愛しているわ、カルベス】
まったく心に響かなかった。
今まで手紙でやりとりしていたときと、実際に会ってみたマデリーンはずいぶん印象が違った。
初めてパーティで会ったときは、手紙のように可愛らしい人だった。
たしかに可愛かったが、我が強すぎた。
「君が愛しているのは……自分なのではないか?」
カルベスは静かに呟いた。
王宮のパーティに出席するため、カルベスとミアは遠方の侯爵領から王都へ向かうことになった。
滞在は数日間の予定である。
カルベスはミアのために衣装屋と宝石商を屋敷に呼びよせた。
もったいないと遠慮するミアに、カルベスは静かに告げる。
「俺の妻として相応しい格好でいてほしい」
その言葉に、ミアは素直に頷いた。
しかし、カルベスの胸中は微妙に違った。
以前、衣装屋で目にしたあるドレスがミアに似合うと思っていたのだ。
案の定、ミアがそのドレスを身にまとった姿は、美しく、思わずカルベスは見惚れてしまう。
にやにやと含み笑いする使用人たちの視線を感じつつも、カルベスは目を離せなかった。
王都への移動中、宿屋に泊まることになる。
予約していた部屋は二つのはずだったが、なぜか一室しか空いておらず、他の宿も満室だったため、仕方なく同じ部屋で寝ることになった。
食事中にカルベスはそわそわと落ち着かず、何度もミアの様子をうかがった。
一方、ミアはまったく気にすることなく食事を楽しんでいた。
「それではお休みなさいませ、旦那様」
ベッドに横たわると、ミアはすぐに背中を向けてしまった。
その姿を見たカルベスは、呆れと落胆が入り混じった感情に胸を締めつけられた。
眠れないままミアの寝顔を見つめ、しばらく経っても動かない彼女を諦めて自身も横になるが、結局寝つけずにいた。
カルベスは小さくため息をつく。
「……あのとき子作りをすると言っていたら、君は応じてくれたのだろうか」
その疑問をうっかり口にしてしまった。
どうせ聞こえていないだろうと思ったのに、突然ミアが体を起こし、カルベスに問いかけた。
「旦那様、子作りがしたいのですか?」
「うわっ!」
カルベスは驚愕のあまりベッドから落ちそうになった。
実はぎりぎり端っこに寝そべっていたからだ。
ミアは冷静にカルベスのシャツを引っ張って落ちないようにしてあげた。
「お、起きていたのか」
「王都のグルメが楽しみで眠れなくて」
「君のそれはわざとなのか?」
「何がですか?」
「いや、いい。強メンタルがうらやましいよ」
「よくわかりませんが、褒めてくださりありがとうございます」
カルベスはもう呆れを通り越して笑いたくなった。
だが、マデリーンと一緒にいたときは心が疲弊するばかりだったのに、ミアと一緒にいると悩みがどうでもよくなってくる。
「ああ、子作りをしてもいいかなと思ってる」
「いいですよ」
「は!?」
カルベスはあんぐり口を開けて固まった。
「ですから、子作りをしてもよろしいですよ」
「い、や……しかし……でも、君は、困るんじゃ」
「なぜ私が困るのですか? 私は旦那様の妻です。跡継ぎを作るのは当然です」
「うん、まあ、そうなんだが……」
カルベスは急に恥ずかしくなって顔を背けた。
ミアはただの使命感で話しているだけで、そこに愛情は欠片もないのだろう。
わかっているのに、カルベスはものすごく落胆した。
「どうしますか?」
訊かれて、カルベスは頭のてっぺんまで真っ赤になった。
「いや、俺は…… 」
カルベスは返答に迷った。
ミアの提案は至極当然のことなのだが、マデリーンのことも脳裏をよぎる。
いくら愛人を持ってもいいという前提の結婚とはいえ、猛烈な罪悪感を抱いてしまった。
「俺は……このままでは、マデリーンのことも君のことも、傷つけてしまう」
「マデリーン様が嫌でしたらやめておきましょうか」
「……そうではなくてだな」
カルベスが歯切れの悪い言い方をするので、ミアは首を傾げた。
「やはり、俺が間違っていたんだ」
「何がでしょう?」
「すべて終わったら話すよ。今日は寝よう。明日も早い」
「わかりました。ではおやすみなさいませ」
ミアはにっこり笑って、再び布団にもぐり込んだ。
今度はすぐに寝息が聞こえてきて、カルベスは小さくため息をついた。
そして自身もそれほど時間が経たないうちに眠りについた。
パーティ当日、カルベスとミアが会場に到着すると、周囲はざわめいた。
ミアを初めて目にする人々は、感嘆のため息を洩らす。
「あれがユーベルト伯爵のお孫さんなの?」
「まあ、お美しいわ」
「でもあの伯爵家の血筋でしょう。性格に難ありでは?」
「ええ、聞いたことがあるわ。伯爵に似て我が道を行くタイプらしいわよ」
「可愛らしい顔をして夫に強い女って感じね」
周囲の言葉はカルベスの耳にもしっかり入ってきた。
たしかにミアは我が道を行くタイプだが、他人から言われると複雑な胸中になる。
「ミアは明るくて素直で、裏表のない子なのに」
ぼそりと呟くと、飲み物のグラスを手にしたミアが声をかけてきた。
「旦那様、飲み物をもらってきましたわ」
「ああ、ありがとう」
カルベスはグラスを受けとりながら、改めてミアを見つめた。
自分が選んだドレスだが、やはりミアによく似合っている。
カルベスは思わず笑みを浮かべた。
「何か嬉しいことでもありましたか?」
「ああ。君がそこにいるだけで嬉し……」
言いかけて、黙る。
カルベスはうっかり本音を口にしてしまっていた。
「私が……何ですか?」
「いや、なんでもないよ」
カルベスは手にしたグラスの飲み物を一気に飲み干した。
「旦那様、それお酒ですよ」
かなり強めのアルコールで、カルベスは瞬く間に上気した。
パーティ会場にはマデリーンもいた。
これまで幾度となくすれ違っていたふたりは、ついにパーティで再会することとなった。
マデリーンはカルベスを見つけると、駆け寄って抱きついた。
「ああ、愛しいカルベス! 会いたかったわ!」
わざと周囲に聞こえるように声を張るマデリーン。
カルベスは狼狽え、ミアは目を丸くした。
そして、周囲には驚きと呆れといったさまざまな表情が交錯する。
「ひ、人前で抱きつくのは……控えたほうが」
「どうして? あたしのことを愛しているんじゃないの? 堂々としていればいいでしょ。みんな知っているわよ。あたしがあなたの恋人だってこと」
「い、いや、しかしだな……」
カルベスが背後を振り返ると、そこにミアの姿はなかった。
代わりに周囲の目線だけはしっかり集中している。
そして時折聞こえる非難の声。
「まあ、第二夫人を迎えたという話は本当でしたのね」
「妾を持つ殿方はめずらしくないですが」
「あの真面目なカルベス様までそんなことをなさるなんて……」
カルベスは複雑な気持ちだったが、自業自得なので何も言えなかった。
一方、ミアは飲み物を片手に他の令嬢たちと話していた。
質問攻めにされるので、笑顔で答える。
「最初から想い人がいらっしゃる前提での結婚ですので、話し合って問題は解決済みですわ」
令嬢たちは唖然とした。
そこへミアの祖母であるユーベルト伯爵が現れる。
伯爵の険しい表情と気迫に圧倒され、令嬢たちは自然と通り道を開けた。
「どうだ? 旦那は相変わらず恋人に執心か?」
「おふたりで仲睦まじくパーティを楽しんでいらっしゃいますわ」
「お前は不自由していないか?」
「はい、毎日楽しく暮らしております」
伯爵とミアのやりとりを見ていた令嬢たちは、その異様な空気を察して息を呑んだ。
「やっぱり、あの伯爵の孫だわ」
「肝が据わっているわね」
「あたしはあんな強い心を持っていないわ」
「強いというより鈍感か天然? もしくはおバカさんかしら」
ミアが祖母と話していると、とある貴族の令息がダンスを申し込んできた。
「夫がおりますので」
ミアはそう言って丁重に断ったが、祖母があっさりと肯定した。
「よいのではないか? 旦那は想い人と仲良くしているのだから」
視線の先には、カルベスとマデリーンがダンスを楽しむ様子があった。
特にマデリーンは生き生きとしている。
ミアはふと、うらやましくなってしまった。
「では、私もダンスを楽しみますわ」
ミアは誘ってきた令息の手を取り、中央へ躍り出た。
音楽に乗せて軽やかにステップを踏む。
「お上手ですね」
「ありがとうございます。祖母にみっちり仕込まれましたので」
「もしよければ、このあとふたりでお茶でも?」
「申し訳ございません。既婚の身ですから」
ミアはどれほど楽しんでいても、カルベスの妻であるということだけは忘れなかった。
音楽が緩やかになり、令息がミアを抱きかかえるような形になる。
彼はミアに顔を近づけて、そっと言った。
「あなたの夫は愛人がいる。それなら、あなたも自由にすればいいではないか」
ミアは目を丸くしたが、すぐににっこり笑って返した。
「私は殿方に興味はございませんので。他のことで自由にします」
すっと令息の手を放すミア。
その動きはごく自然で、何も言わずとも終了の合図だと彼も悟った。
ミアがダンスを終えて祖母のいるところへ戻ろうとすると、別の令息が声をかけてきた。
「ご婦人、次は私のお相手をしていただけませんか?」
「あ、はい。では……」
ダンスの誘いは断らないミアは、次の令息の手を取ろうとしたが、別の手に遮られた。
「申し訳ないが、次に彼女と踊るのは俺だ」
カルベスがミアの前に立ちはだかった。
ミアは驚いて目を見開く。
令息は舌打ちし、ぼそりと毒づく。
「愛人がいるくせに偉そうに」
令息が立ち去ると、カルベスはミアに頭を下げた。
「君を放置して悪かった」
「謝罪は必要ありませんわ。旦那様、マデリーン様とのダンスは楽しかったですか?」
ぎくりとするカルベス。
周囲から冷笑が聞こえてくる。
「最大の嫌味だわ」
「あの奥様、結構言うわね」
「あれ悪気なく言ってるらしいわよ」
複雑な表情のまま、カルベスはミアとともにダンスを踊ることになった。
カルベスとミアのダンスを遠目で見ていたマデリーンは気に食わないという顔をしている。
「やっぱり愛人の立場なんて嫌よ。絶対にカルベスの正妻の座を手にしてやるわ」
その後、マデリーンはミアに惚れ込んだ令息にこっそり耳打ちした。
「ミアもあなたのことが気に入ったみたいよ。今夜のお誘いを待っていると言っていたわ」
こうしたパーティでは、夜の相手をひそかに探す者もいる。
令息はその気になり、ミアを誘い出すことにした。
その頃、貴族の令嬢がカルベスに声をかけていた。
「マデリーン様があなたをお探しでしたわ」
戸惑うカルベスに、ミアは落ち着いた声で言った。
「私は構いませんので、行ってきてください」
カルベスは意を決してミアに告げる。
「マデリーンときちんと話をする」
「はい」
「戻ったら君とも話をしたい」
「わかりました」
深刻な表情のカルベスに、ミアは笑顔で見送った。
カルベスが去ったあと、ミアは気分転換に庭園を散歩することにした。
夜風が気持ちよく、外灯にぼんやり照らされる薔薇の花が幻想的で美しい。
ミアはその光景を眺めて楽しんだ。
パーティはやはり苦手で、こうしてひとりでのんびりしているほうが好きだった。
「おや、ご婦人。こんなところで奇遇ですね」
「あら、先ほどのダンスのお方。お散歩ですか?」
「パーティ会場はどうも苦手なので」
「あら、私もですよ。少しお話します?」
ミアはまったく他意もなくそう言った。
令息は口角を上げ、ミアに薔薇の話題を振った。
「そうだ。この先にもっと素晴らしい薔薇園があるんですよ。ご案内しましょうか」
「まあ、素敵ですわ」
令息に案内された場所には薔薇のアーチがあり、そこを通り抜けると屋根付きのテラスがあった。
周囲は薔薇に囲まれており、赤の外灯に照らされ、情熱的な雰囲気を作りだしている。
「ここでキスを交わした男女は永遠に結ばれるそうですよ」
「へえ、そうなんですか」
「試してみます?」
「え……?」
ミアは意味がわからず首を傾げた。
令息はミアの両手を握りしめ、間近でじっと見つめる。
「あのう……」
「僕は君に一目惚れしました。あんな男とは別れて、僕と結婚してください」
「ええっと、酔っていらっしゃいます?」
「酔ってなどいません。本気ですよ。君はあの男に酷い目に遭わされているんでしょう? 僕が君を救ってあげますよ」
「大丈夫です。特に酷い目には遭っていませんから」
「君のような寛大な女性と結婚したいんです。僕なら愛人がいても君を放置したりはしません!」
「はぁ……」
どう返事をすればよいかわからず、ミアは困惑する。
一方、カルベスはマデリーンと会って自分の本心を打ち明けることにした。
すると、マデリーンは別の場所で話したいと言って、カルベスを夜の庭園へと誘い出した。
「どこへ行くんだ? マデリーン」
「こっちよ。素敵な場所があるの」
「俺は話がしたいだけなんだが……」
「あっ、待って。あそこに奥様がいるわよ」
「え?」
薔薇のアーチの向こうのテラスに、ミアと男が向かい合っている様子が目に入った。
カルベスは目を見開き、表情が強張る。
「こんなところでふたりきりなんて、奥様もやるわね。きっと愛人を見つけたのよ」
次の瞬間、男がミアを抱きしめた。
カルベスは衝撃を受け、マデリーンは歓喜の笑みで声を上げた。
「まあ、奥様ったらこんなところで!」
しかし次の瞬間、ミアが男を引っ叩いた。
その衝撃で男は大きくのけ反り、尻餅をついてしまう。
マデリーンは口角を上げたまま硬直した。
カルベスが慌てて駆け寄ると、ミアは焦りながら謝罪を口にした。
「すみません。急に抱きつかれたので、思わず引っ叩いてしまいました」
「なんだこの暴力女は! こっちの誘いに乗ったくせに!」
男が怒声を上げると、カルベスは眉をひそめ、ミアを守るように割って入った。
マデリーンはチャンスとばかりに声を張り上げる。
「いやだわ、奥様ったら。こんなところで逢瀬をなさるなんて! もっとひと目を気にするべきだわ」
マデリーンは口が裂けるほど口角を上げ、さらに声高に続ける。
「まあ、奥様も愛人を見つけられたのね! よかったわ! さあ、カルベス。あたしたちも行きましょう。愛を育むために!」
マデリーンがカルベスの腕を掴む。
しかしカルベスはその手を振りほどき、ミアの手を握った。
そして、男に向かって強い口調で告げる。
「妻に触るな。声をかけるな。目も合わせるな」
あまりに威圧的な目で見られたせいか、男は急に震え上がり「すいませんごめんなさーい」と言って逃げ去った。
驚いて目を丸くするミアに、カルベスが声をかける。
「ひとりにしてすまなかった」
「いいえ。私が勝手に庭を散歩していただけですので」
「だが、俺が一緒にいれば妙な男に絡まれることはなかっただろう」
「まあ、そうですね」
ふたりが話している最中に、突如マデリーンが口を挟んだ。
「ちょっと! あたしを無視しないでちょうだいよ!」
ふたりが同時にマデリーンに目を向ける。
するとマデリーンはぎりっと歯を食いしばって声を荒らげた。
「奥様はこそこそ男遊びをしていたのよ。愛人を持つならあたしたちみたいに堂々とすべきだわ。卑怯なのよ!」
ミアは真顔、カルベスは困惑の表情をしている。
「なんなのよ! あたしはカルベスの恋人よ。あたしよりお飾り妻のほうを優先するカルベスも最低だわ!」
するとカルベスが静かに告げた。
「俺がすべて悪かったよ。マデリーン、俺は勘違いしていたんだ。俺たちは別れたほうがいい」
「何を言っているの? 意味がわからないわ。カルベスはそこのお飾り妻に何か吹き込まれたんでしょ。人畜無害な顔して悪女なのよ」
「ミアは何もしていないし、何も言っていない。むしろ、俺のことなど興味もない。これは俺自身の問題なんだ」
「いやよ、絶対に別れないわ。別れるなら死んでやるううっ!」
マデリーンは泣き叫びながら走り去った。
しかしその口もとには笑みが浮かんでいた。
マデリーンにはわかっていた。
こうして泣いて同情を引けば、カルベスは追いかけてくる。
カルベスを手に入れると決めたときから、彼の性格を利用して恋人になったのだから。
マデリーンが振り返ると、そこには誰もいなかった。
「へ? なんで追いかけてこないの?」
その頃、誰もいなくなった庭園で、カルベスはミアに向き直っていた。
ミアは冷静に、カルベスに問う。
「よろしいのですか? マデリーン様が死ぬと言っています」
「いや、彼女はそんなことしないよ」
「では嘘をついたのでしょうか」
「俺を脅しただけだよ。今までもそうだった。パーティで会えないと返事をすると死んでやると何度も手紙に書かれていた。本当に死なれると困るからマデリーンのご機嫌取りをしていた。でも、それは間違っていたんだ。俺が彼女に抱いていたのは愛ではなく、同情と哀れみだった」
「そうですか……私にはよくわかりませんが」
ミアが冷静な顔でそう言うと、カルベスは困惑の表情で笑った。
「君といると本当にすべての悩みがどうでもよくなるよ」
カルベスが目線を落とすと、ミアの手が腫れているのがわかった。
そっとミアの手を握り、訊ねる。
「怪我をしたのか?」
「あ、さっき叩いてしまった衝撃ですね。平気ですわ」
するとカルベスはミアの手に口づけをした。
ミアは驚いた顔で絶句し、カルベスを見上げて言った。
「この場所でキスをすると永遠に結ばれるそうですよ。先ほどのお方がおっしゃって……」
するとカルベスはミアの手を引いて、その勢いで彼女に口づけをした。
少しのあいだキスを交わし、顔を離すと、カルベスはミアに告げた。
「これが俺の気持ちだ。卑怯かもしれないが、きちんとけじめをつけるから」
「……卑怯です。これでは私は一生あなたと離れられないではないですか」
「俺の目が届く場所にいてくれればいいから」
ミアはカルベスから目をそらし、ぼそりと呟く。
「……庭仕事とパン作り、それから川で釣りをすることをお許しください。それが条件です」
「はははっ……君は好きなことをしていいよ。なんなら、俺も一緒に釣りをしよう」
「まあ、それは楽しそうですわ!」
ミアはぱっと明るい笑顔になり、カルベスは安堵したように微笑んだ。
翌日、貴族の婦人たちの茶会が催された。
その場にはマデリーンもいた。
「全員の前で恥をかかせてやるわ」
マデリーンはミアが来る前にその席のカップに塗り薬をたっぷり塗っておいた。
飲んだ瞬間吐き出すほどの苦味のある薬だ。
当然口に入れてはいけないものだ。
ミアがその席に着くと、使用人によって紅茶が淹れられた。
令嬢たちは全員、ミアがその茶を口にするところを固唾を呑んで見守った。
というのも、ここにいる令嬢たちのほとんどがマデリーンの取り巻きだったからだ。
令嬢たちはマデリーンからミアの悪行を聞き「最低の悪女だわ」と嫌悪した。
もちろん、すべてマデリーンの虚言だ。
ミアは紅茶を口にする。
少し手が止まったが、彼女はまったく動じることなく茶を飲んだ。
眉をひそめるマデリーン。
周囲も目線だけ合わせながら怪訝な表情をしている。
令嬢のひとりが訊ねる。
「お茶の味はいかがかしら?」
するとミアは笑顔で答えた。
「とても美味しいですわ」
「そ、そう?」
「はい。お菓子も大変美味しくて、どのようなレシピか教えていただきたいくらいです」
ミアはお菓子を食べながら、美味しそうに紅茶を飲む。
その茶会が終わるまでミアは終始笑顔で、令嬢たちは首を傾げた。
マデリーンは悔しそうに歯噛みした。
茶会が終わり、それぞれが席を立ったとき、ミアが突然床に倒れた。
令嬢たちは驚き、マデリーンも目を見開く。
茶会の席は騒然となった。
使用人たちは慌てふためき、令嬢たちも狼狽えている。
マデリーンは放心状態だった。
状況を知ったカルベスはすぐさま駆けつけ、医師が応急処置を施す。
診断によれば、大量の薬で気絶していただけで、命に別状はないといった。
カルベスは安堵の表情を浮かべると同時に、こうなった原因を突きとめようとした。
マデリーンがこっそりミアのカップを隠そうとすると、カルベスに腕を掴まれた。
「何をしているんだ? マデリーン」
「へ? いやその、カップが汚れているから……」
「使用人が片付けるだろう? それとも、そうされたくない理由でも?」
マデリーンが固まっていると、カルベスがカップを取り上げ、医師に見せた。
匂いを嗅いだ医師が間違いなくこのカップに薬が含まれていたことを断言した。
カルベスが全員を問い詰めると、令嬢たちはあろうことか使用人がやったと言い出した。
すると事情を知っていた使用人は、ここにいる令嬢たちが全員で画策したと暴露した。
すると今度は令嬢たちがすべての責任をマデリーンに押しつけた。
「あたくしたちはこんな悪戯はやめましょうと言いましたわ」
「そうですわ。けれどマデリーン様がどうしてもと言うので」
早々と裏切られたマデリーンは激昂した。
「何よ! あんたたちだって面白がってたじゃない。この女がお茶を吹いてドレスが台無しになるところを見たいって。この女が慌てているところと見たいって言ったでしょ」
「で、でも、塗り薬を入れるのはどうかしらって思ったわ」
ひとりの令嬢の言葉に、カルベスが表情を強張らせた。
「塗り薬だって? そんなものをミアに飲ませたのか。塗り薬によっては服用すると死に至るほどの強い作用もあるんだぞ」
「すぐに吐き出すと思ったのよ。まさか、全部飲んでしまうなんて思わないもの!」
「マデリーン!」
カルベスが激しい怒りを顔に滲ませている。
「恨むなら俺を恨めばいい。だが、妻を傷つけるなら許さない」
「どうして? カルベスは頭がおかしくなったの? どうして愛するあたしよりお飾り妻の味方をするのよ!」
「それとこれとは別だ。これはすべて俺の弱さと判断の間違いが招いたこと。君が怒りをぶつける相手は俺であって妻ではない」
「違うわ。カルベスは何も間違ってないわ。すべてこの女が悪いのよ! この女が現れてからあたしたちの愛が邪魔されたのよ! こんな女、死ねばいいんだわ!」
すると、突如ユーベルト伯爵が現れて、声を上げた。
「私の孫を暗殺しようとしたのはお前か?」
伯爵はずかずかとマデリーンに近づき、恐ろしい形相で見下ろした。
その威圧感に怯え、後ずさりするマデリーン。
しかし、次の瞬間、伯爵はマデリーンの頬を引っ叩いた。
パーンッと激しい音がして、マデリーンの頬は真っ赤に腫れる。
放心状態のマデリーンに向かって、伯爵が強い口調で告げる。
「今度、私の孫に何かしたら、お前の家門を潰すつもりで報復する」
マデリーンは恐ろしさに声も出ず、ただぼろぼろと涙を流した。
その後、ミアは浄化作用のある薬を飲ませられ客室で眠っていた。
ミアが目を覚ますと、カルベスは静かに訊ねた。
「無事でよかった。しかし、なぜあのお茶を全部飲んだんだ? 医師によると、ひと口でも強烈な苦みで到底耐えられないと」
「旦那様に恥をかかせるわけにはいきませんから」
「俺のために?」
「はい。私は妻ですから。あの場で苦いお茶を吐き出してドレスを汚し、笑い者になってしまうと侯爵家に傷をつけてしまいますもの」
「君はそこまで考えて、耐えたのか」
「当然ですわ。我慢ではなく、貴族の妻としての責任です」
「ミア、そんなに真面目にならなくていいんだ。君はもっと自分を大切にしてほしい。もし本当に致死量の毒が含まれていたら、君は死んでいたんだ」
「……それは、運命ですので受け入れるしかありませんね」
カルベスは何か言おうとしたが、黙り込んだ。
ミアの性格だと、死をもすんなり受け入れてしまうだろう。
誰かがどれほど否定しても、彼女の価値観は変えられないのだろうと。
すると、ミアが少しためらいがちに、カルベスから目をそらして言った。
「……旦那様がそう言われるのでしたら、私はもう少し自分を大切にしようと思います」
「ミア……!」
「私は馬車事故のときに、自分は両親とともに死んだのだと思っていました。この命はたまたま生かされているだけ。いつ死んでも構わないと思って生きてきました。死ねば両親に会えるので怖いと思ったこともありません」
ミアはカルベスに視線を戻し、じっと見つめて言った。
「けれど、今はなんだか少し、怖い気もします。旦那様と会えなくなってしまうのが」
「ああ、俺もそうだ。ミアと会えなくなるのは嫌だから、君に死んでほしくない」
「……わかりました。今度から、自分の命を大切にします」
カルベスは微笑んで、ミアの手を握った。
すると、ミアは黙って微笑み返し、カルベスの手を握り返した。
王都から帰還後、侯爵家には平穏な日々が訪れていた。
風の噂によれば、マデリーンは男爵家に嫁ぐらしい。
あのパーティのあと、しばらくは家で泣きわめいていたそうだが、マデリーンに好意を寄せていた男爵から求婚されると、彼女はあっさりと機嫌を直し、カルベスのことはすっかり忘れて楽しく過ごしているようだ。
「本当にご自分が大好きな人だったのね」
使用人たちは呆れかえっていた。
あれからミアとカルベスに大きな変化はなかった。
ミアは相変わらず好きなことをしながら過ごし、たまにカルベスの執務を手伝った。
ふたりで川へ行き、釣りをするときは、使用人たちが肉と野菜を持ち寄って、釣った魚とともにその場で焼いて食べた。
みんなで豪快に食べる食事は貴族らしからぬ光景だが、侯爵家ではこれが日常となっていた。
ミアとカルベスの仲睦まじい姿を見守る使用人たちのあいだでは、ふたりが本当の夫婦になったことを喜んでいた。
けれど、カルベスの胸中は複雑だった。
「もしかしたら、俺は一生片想いのままなのかもしれないな」
そんなふうに、ふと呟くこともあった。
それでも、ミアとともに穏やかに暮らせるならそれでもいいと思った。
彼女は自分の言ったことを曲げるようなことはしない。一生侯爵家にいると言ったからには、必ずそれを守り通すだろう。
贅沢を言ってはならない。
そもそも愛人を持つ男のところへ嫁ぐ令嬢など稀有なのだから。
しかし、ある日ふたりがいつもの釣りを楽しんでいるときに、何気なくミアが口にした言葉にカルベスは驚いた。
「実は王宮のパーティのとき、旦那様がマデリーン様とダンスをしている姿を見て、心が曇ったような暗い気持ちになりました。不思議ですね」
「え? それって……もしかして俺のこと好っ……」
「あ! 旦那様、来ましたわ! 結構大きいです」
ミアが竿を持ったまま立ち上がると、カルベスは慌てて自分もミアの竿を握った。
ふたりで踏ん張って釣り上げると、艶やかな銀の魚が川から跳ね上がり、太陽の光にぎらりと輝いた。
その頃、侯爵家の庭園では、ミアの祖母とカルベスの父が茶を傾けながら談笑していた。
「体調が落ち着いているようで何より」
「ああ、君の孫娘のおかげですっかり元気だ。あの子は不思議だ。まわりを笑顔にしてくれる。やはり君の読み通りだったな」
「愚息の目を覚まさせてほしい。あなたの頼みだ。これで昔の借りは返したつもりだ」
マデリーンの評判は、知っている者のあいだでは芳しくなかった。
カルベスはマデリーンに押し切られる形で恋仲になり、そのままずるずると彼女の思惑にはまっていった。
困った父がミアの祖母に相談すると、彼女はミアとの縁談話を持ちかけたのだった。
貴族の娘はいずれ家同士の縁談で嫁ぐことになる。
ミアもそれを承知していた。
「あなたの息子は本来、心優しく誠実だ。目が覚めれば何が大切なものか判断できるだろうと思った」
それでもカルベスの目が覚めないときは離婚することになっていた。
ミア自身はすべてを知らず、彼女はただ令嬢の役目として嫁いだだけだった。
「しかし、ミアがまさか一生離婚しないと言ったときは驚いたな」
ミアの祖母は茶を飲みながらそんなことを言った。
カルベスの父は微笑んで返す。
「愚息を好いてくれたのだろうか? ありがたいな」
「うーむ……あの子にそんな感情があるとは思えないんだが」
「人の気持ちは他人が測れるものではないよ。最近そう思うんだ」
ふたりが視線を向けた先には、カルベスとミアが服に泥をつけた格好で、笑いながら帰ってくる光景があった。
「まあ、いいだろう。あとはふたりの問題だ」
ミアがこちらを向いて、無邪気に手を振ってきた。
ミアの祖母は静かに微笑み、カルベスの父は手を振り返し、カルベスは満面の笑顔だった。
読んでいただき、ありがとうございました。




