第9話「武の道」
二つの島国――〈セレスティア〉と〈ヴァルガード〉。
かつて、海底プレートの移動により両国の領土が衝突し、戦争と崩壊の危機にさらされた。
その災厄を救ったのは、国家を越えて誕生した最強のAI《Air on G》、そして一人の少女・澪だった。
危機から五年後。
澪は22歳となり、国家AI戦略プロジェクト「感生AI(Affectis)」の開発メンバーとして、国を守る最前線に立っている。
海底トンネルの完成によって、両国は新たな交流の時代を迎えた――はずだった。
だが、平和の陰には必ず影が潜む。
世界規模の闇の組織〈ダークヒールズ〉が、両国の関係を悪化させようと水面下で動き出していた。
そしてその渦中に巻き込まれていくのは、一人の少年――マルタン。
彼は強い感情に突き動かされると、「0と1の流れに触れ、演算を直接書き換える」という、常識を超えた異能を発揮する。
それは国家の基幹システムすら停止させうる“人間サイキッカー”。
友情、武道、幼い恋心、そして闇からの囁き。
少年の選択が、国家の未来を揺るがす。
ラボのラウンジ。
マルタンは俯き、椅子の肘掛けを握りしめていた。ユナもハルカも、かけるべき言葉が見つからない。
その静寂を破ったのは、リオンの声だった。
「答えは一つじゃないと思うが...」
彼は腕を組み、真っ直ぐにマルタンを見据える。
「でもな……心を鍛えるには体を鍛えるのが一番だ。現実から逃げない強い心を持つんだ」
マルタンは驚いたように顔を上げた。
「心を……鍛える……?」
「そうだ。俺が武道を教えてやる」
リオンの声は揺るぎなく、迷いがなかった。
「武道なんて…無理だよ」
「ほら、それだ。現実から逃げようとしている。何故無理だと分かるんだ?」
マルタンはリオンを見つめ、言葉を探している。
「お前、カッコいい男になりたくないのか?俺みたいな」
一瞬空気が凍りついたかと思うと「ブファッ!」澪が吹き出し、ユナも釣られて笑い出す。
「リオンって武道をやってるんだ」
ハルカが目を丸くする。
リオンの一言は、重苦しい雰囲気を一掃した。
(さっすがリオンね)
澪はリオンにウインクする。
リオンはドヤ顔を澪に向けて頷いた。
(カッコいい男か...)
その一言は、マルタンの胸に新しい火を灯すようだった。
数日後。
リオンが通う道場。
分厚いマットが床一面に敷き詰められ、壁には「精神」「勇気」の標語が掲げられている。梁の太い天井が高く、窓から射し込む陽光が白い埃を浮かび上がらせていた。
片隅には木刀や防具が整然と並び、場を引き締めている。
マルタンは緊張した面持ちで道場の中央に立っていた。
「まずは礼だ」
リオンが言うと、彼自身が深く頭を下げる。
「すべてはここから始まる。自分にも相手にも敬意を払え」
ぎこちなくマルタンも頭を下げた。
その動きはまだ幼いが、心は真剣だった。
「構えろ」
リオンが姿勢を示す。
腰を落とし、両腕を前に出す。
マルタンは真似をするが、足がふらつき、すぐにバランスを崩して転がった。
マットに背中を打ちつけ、痛みに顔を歪める。
「立て」
リオンの声は冷たく淡々としている。
マルタンは唇を噛みしめ、震える足に力を込めて再び立ち上がった。
「拳は腕じゃない。腰で突け。体幹を意識しろ」
リオンが正拳突きを示す。空気を裂く音が響き、マルタンは思わず息を呑んだ。
震える拳を前に突き出す。
「はぁっ!」
しかし力が入らず、腕がぶれる。手のひらは赤く腫れ始めていた。
「もう一度だ!」
「はぁっ!」
「まだ弱い! 声を腹から出せ!」
「はぁぁっ!」
汗が額から流れ落ち、視界が滲む。
呼吸は荒く、膝は震え、足がもつれる。
ついに崩れ落ち、マットに膝をついた。
リオンがじっと見下ろす。
「……まだやるか?」
マルタンは息を切らしながら顔を上げる。
全身が悲鳴を上げているのに、唇は震えながらも動いた。
「……やります」
リオンの目が細まり、口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「――いい根性だ」
その一言が、マルタンの胸を突き動かした。
痛みも疲れも、不思議と遠のいていく気がした。
再び拳を握り、足を踏みしめる。
数週間。
夕暮れの道場に、鋭い気合いが響いた。
「はっ!」
マルタンの突きは、かつての彼とは別人のように力強い。
背筋はまっすぐに伸び、瞳には迷いがない。
額から汗が滴り落ち、足元に小さな水溜まりを作っていた。
リオンは黙って見ていたが、やがて小さく頷いた。
「……よくやったな」
その瞬間、マルタンの顔に笑みが広がった。
初めて「誇らしさ」という感情を知った気がした。
リオンのその言葉は、父にも兄にも言われたことのない「承認」だった。
道場から出てくる二人の姿を、ハルカは門の影から見ていた。
リオンと並んで歩くマルタンは、どこか誇らしげで、大人びて見えた。
(マルタンくん……)
胸がきゅっと痛む。
一緒に過ごす時間は減った。
でも、彼が確かに強くなっているのが分かる。
(……ううん。これでいいんだ。マルタンくんが強くなれるなら)
ハルカは寂しさをその小さな胸に押し込んだ。
数日後の授業中。
ユナは教壇に立ち、ヴァルガード語のテキストの一節を読み上げていた。
「では...マルタン、次読んでみて」
ユナがマルタンを指名する。
その時、小さな声が聞こえた。
「人形に読めるわけないじゃん」
「人形じゃなくて化け物だろ」
小さな笑いが起こる。
ユナの胸がざわつく。
これまでのマルタンなら、俯いてただ耐えていただろう。
だが今日は違った。
マルタンはゆっくりと顔を上げ、静かな声で言った。
「...やめてくれないか」
その瞳は落ち着き、わずかに鋭さを帯びていた。
マルタンが始めて示した"対抗"の意思表示だった。
教室が一瞬静まりかえる。
からかった生徒は瞬きを忘れ、口を半開きにして吸い込まれるようにマルタンを見入っていた。
ユナはタブレットを持ったままマルタンを見つめる。
(マルタン...あなた、変わろうとしているのね)
授業が終わり、ユナは澪にマルタンの変貌について報告した。
「マルタン、もう以前の彼じゃないわ、変わろうとしている」
澪は目を細め、それから小さく微笑んだ。
「そう……よかった」
二人は短く言葉を交わし、静かな安堵を共有した。
マルタンは確かにこれまでの自分を脱ぎ捨てようとしていた。