第8話「ラボへの誘い」
二つの島国――〈セレスティア〉と〈ヴァルガード〉。
かつて、海底プレートの移動により両国の領土が衝突し、戦争と崩壊の危機にさらされた。
その災厄を救ったのは、国家を越えて誕生した最強のAI《Air on G》、そして一人の少女・澪だった。
危機から五年後。
澪は22歳となり、国家AI戦略プロジェクト「感生AI(Affectis)」の開発メンバーとして、国を守る最前線に立っている。
海底トンネルの完成によって、両国は新たな交流の時代を迎えた――はずだった。
だが、平和の陰には必ず影が潜む。
世界規模の闇の組織〈ダークヒールズ〉が、両国の関係を悪化させようと水面下で動き出していた。
そしてその渦中に巻き込まれていくのは、一人の少年――マルタン。
彼は強い感情に突き動かされると、「0と1の流れに触れ、演算を直接書き換える」という、常識を超えた異能を発揮する。
それは国家の基幹システムすら停止させうる“人間サイキッカー”。
友情、武道、幼い恋心、そして闇からの囁き。
少年の選択が、国家の未来を揺るがす。
澪とユナはタカコのカフェにいる。
「……彼女、ハルカは本気でした。マルタンを助けたいと」
ユナは声を潜め、澪に打ち明けた。
澪はしばし黙り込み、奥の瞳を鋭く光らせる。
「……なら、ちょうどいい。ユナ、マルタンをラボに連れてきて」
「え?」
「確かめたいことがあるの。もし私の仮説が正しければ、彼を救えるかもしれない」
ユナの胸に迷いが生じた。生徒を研究に巻き込むなんて……。
だが、澪の真剣なまなざしを見て、言葉を飲み込む。
(もし本当に……マルタンを救えるなら)
翌日。校庭の隅。
ユナとハルカがマルタンを見つけた。
ユナはマルタンに歩み寄り声をかけた。
「ハルカがね、あなたの見る不思議な景色の事、話してくれたの」
マルタンはハルカを睨んだ。
「なんで他の人に話したんだ? やっぱり君も僕をからかいたかったんだろ」
「ち、違う!」
ハルカは胸を押さえ、必死に叫ぶ。
「私は……あなたを助けたいの! 辛そうで、苦しそうで……見ているだけなんてできなかった」
そして、小さな拳をぎゅっと握りしめて言い切る。
「私は……あなたの味方だよ!」
「マルタン。研究所に来てくれない?」
「……研究所?なぜ?…僕に何をするの?行きたくない」
即答だった。声には怒りと絶望が滲んでいた。
ユナはしゃがんでマルタンと視線を合わせた。
「マルタン。覚えているでしょ、特別参観の日。あの時ラボを説明してくれた澪という研究者が、あなたを助けたいって言ってるの」
マルタンは目を伏せた。
心臓が痛む。
ハルカに助けを求める様な視線を投げる。
ハルカは大きく頷いた。
(人を信じるなんて…無理だ)
(でも…ずっとこのままは嫌だ)
(ハルカの笑顔は本物に思えた)
(一度だけ…ハルカを信じてみよう)
小さく頷いた。
「……分かった」
休校日の午後。
ユナ、マルタン、ハルカは澪のラボにいた。
冷たい蛍光灯の下、澪とリオンが迎える。
「これからすることは、あなたにとって辛いことになる。でも必要なの」
澪の声は優しいが、研究者としての冷徹さも滲んでいた。
マルタンは小さく答える。
(辛いことなら……慣れている)
センサーがマルタンの身体に装着され、Affecticsが静かに立ち上がった。
「マルタン。腹立たしいことを思い出して」
澪の声。
――「人形」
――「化け物」
――「気持ち悪い」
生徒たちの嘲笑が、記憶の奥から蘇る。
胸が焼けるように熱く、呼吸が乱れる。
(やっぱりだめだ、耐えられない…)
センサーのモニターに異常な波形が走った。
電磁波が割り込み信号を模すかのように点滅を始める。
「マルタン! 今、何が見えている?」
澪が叫ぶ。
「……光の粒……数式の羅列……」
AffecticsのCPU使用率が跳ね上がる。
「今度は?」
「0と1が……川みたいに流れていく……触れるんだ」
マルタンが手を伸ばした。
――その瞬間、モニターが赤い“Emergency”の文字を点滅させると、Affecticsが停止した。
モニターが暗転し、空調の音すら止まった。
「マルタン!」
ユナが倒れかけた彼を抱き留める。
澪は三人をラウンジに連れて行くと、ここで待つように言い残してラボに戻って行った。
ラボには澪とリオンだけ。
二人は膨大なログを解析し、沈黙が支配していた。
「……私の仮説は間違っていたかも」
澪が息を詰める。
「最初は、マルタンが強烈な電磁波を発してキャパを上回る無数の割り込み信号をCPUに送り込み、システムをクラッシュさせたと思っていた。だけど…どうも違うみたい」
リオンが顔を上げる。
「じゃあ、何が原因なんだ?」
澪は複数のCPUログを並べて指差す。
「見て。このホストはマルチCPU構成。ひとつの演算を複数のCPUで同時に処理し、結果が一致するかを検証して精度を担保している」
「知ってる。EDIOSも同じ仕組みだ」
「なら分かるはずよ。スロット1と3のCPUの結果は完全に一致している。でも……スロット2だけ、この部分が違ってるの」
リオンは息を呑む。
「……ありえない。そんなの、ハード障害でしか起こらないだろう」
澪は強く首を振った。
「もし本当にハード障害なら、システムは復旧できなかったはず。でもAffecticsは正常にリブートした。だからこれは物理的故障じゃない」
言葉を選ぶように深呼吸し、震える声で続けた。
「つまり……マルタンがリンクして、CPUの中枢――レジスタを書き換えたの」
リオンは絶句した。
「……人間が……CPUに、直接……?」
澪は拳を握りしめた。
「あり得ない。常識では絶対に説明できない。けれど事実として……“彼はデジタル演算の流れに触れた”」
その声には、研究者としての驚嘆と、人としての恐怖が入り混じっていた。
「サイキック・インターフェース」
澪が遠い目をして呟いた。
二人の脳裏に、マルタンの言葉が蘇る。
――「0と1が川のように流れていく……触れるんだ」
一時間後。ラウンジ。
マルタンは椅子に座り、肩を震わせていた。
両隣にはユナとハルカが緊張感した面持ちで座っている。
澪とリオンが戻り、静かに彼を見つめる。
澪が口を開いた。
「マルタン。あなたは生まれながらに特別な力を持っている。でもね……怒りや悲しみから逃げようとすると、その力は暴れて、あなた自身を苦しめてしまうの」
マルタンは顔を上げた。
「特別な能力...それは...どういう事?」
「詳しい事はまだ言えないけど、あなたを別の世界に連れて行こうとする能力よ」
「あなたは怒りや悲しみを感じるとあの不思議な景色が見えるのよね。それはね、あなたが目の前の現実から逃げようとするからなの。逃げようとすると、あなたの特別な力があなたを別の世界に連れて行こうとするの。あなたが見た不思議な景色は別の世界の景色なの」
マルタンの唇が震えだす。
「やっぱり僕は普通じゃなかったんだ……僕は...どうしたらいいんだ」
涙が頬を伝い落ちる。
その手を、ハルカがぎゅっと握った。
「大丈夫。私は味方だから」
「僕は…どうしたらいいの?」
マルタンは顔を上げ澪を見つめる。
「まず、辛くても現実から逃げちゃだめ。その為には…」
ユナはただマルタンをじっと見つめ、澪は言葉を探していた。
リオンが口を開いた。
「……俺に考えがある」
その言葉は、小さな救いの火のように夜のラボを照らしていた。