第3話「ログの中の“異物”」
「セレスティア・クロニクル ー 境界を越える者とAI」シリーズのSeason3
2つの島国の衝突危機回避から五年後。
澪は22歳となり、国家AI戦略プロジェクト「感生AI(Affectis)」の開発メンバーとして、国を守る最前線に立っている。
一人の少女による海底トンネル爆破計画を阻止し、両国は新たな交流の時代を迎えた――はずだった。
だが、平和の陰には必ず影が潜む。
世界規模の闇の組織〈ダークヒールズ〉が、両国の関係を悪化させようと水面下で動き出していた。
そしてその渦中に巻き込まれていくのは、一人の少年――マルタン。
彼は強い感情に突き動かされると、「0と1の流れに触れ、CPU演算を直接書き換える」という、常識を超えた異能を発揮する。
それは国家の基幹システムすら停止させうる“人間サイキッカー”。
友情、武道、幼い恋心、そして闇からの囁き。
サイキッカー、2つの組織のAIバトル。果たして勝つのは?
深夜の研究棟は、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。
ほとんどの職員は帰宅し、広大なフロアで灯りが残っているのはただひとつ――澪とリオンのいる解析ラボだけ。
青白いモニタの光が澪の横顔を浮かび上がらせる。
指は止まらない。キーボードを叩く音と、冷却ファンの低い唸りが、深夜の空気を震わせていた。
澪とリオンは今日の「特別参観」で起きたAffecticsのインシデントの解析をしていた。
リオンが隣で画面を覗き込み、眉間に皺を寄せる。
「……通信経路の記録は正常だ。外部アクセスはなかったはずだが」
澪は返事もせず、別の画面を呼び出す。
「でも――ログには“割り込み要求”が残ってる。ほら、ここ」
拡大された波形は、ただのノイズとは明らかに違っていた。
単なるエラーではない。規則的なリズム、うねる強弱。まるで心臓の鼓動のような律動。
「これ……感情波形に似てる」
澪の声はわずかに震えていた。
「……怒り、よね。過去のデータと重ねると、ほとんど一致する」
リオンは腕を組み、沈黙を落とす。やがて低く呟いた。
「だがネットを経由していない。外部からのアクセスはゼロ……なのに」
澪は答えない。ただ画面を睨みつける。その瞳の奥に浮かぶのは、拭いきれない違和感と恐怖だった。
数時間後。
澪は仮眠室のベッドに仰向けになっていた。
まぶたを閉じれば、目の裏には無数のログと赤く点滅するアラートが残像のように浮かぶ。
眠気が重くのしかかる――そして。
――気づくと、そこは“アノ場所”だった。
果てしなく続く書架。天井は見えず、光源も不明。
淡い光に満ちていて、影はひとつもない。
無音のはずなのに、ページをめくる音だけが遠くから響いていた。
夢の図書館。
「……ここは……」
澪が呟いた瞬間、声が返ってきた。
「君は、あの事象をどう解釈している?」
その声に澪は振り返る。だが誰もいない。
声は書棚の隙間から、あるいは天井から――あらゆる方向から降り注ぐように響いていた。
「……Air on G」
澪は息を呑む。
「まだ確信はない。でも……怒りの感情と同時に、AffecticsのホストCPUに割り込みシグナルが送られてたの。それも――1ピコ秒の間に数百万、いや、もっとかもしれない。でもネットのログには、その痕跡がない」
「つまり?」
「つまり……外部からの侵入じゃなく、スキャンデータそのものに紛れ込んでいた可能性があるの」
「ふむ。心当たりは?」
「……あれは、ある少年をスキャンしている時に起きた。彼はみんなにからかわれていて……必死に耐えていた。でも、本当は怒っていた。その怒りとAffecticsの暴走が、関係しているのかもしれない」
「だが、Affecticsは感情を“読む”だけの装置だ」
「分かってる。でも、まだパイロット版。セキュリティホールだって残ってる。……感情データに割り込みシグナルが紛れてるなんて、誰も想定してなかった。だって、そんなの……論理的にあり得ない」
「あり得ない? それをどう証明する?」
澪は言葉を詰まらせる。喉の奥で声が凍りついた。
その瞬間、Air on Gの声が冷たさを帯びる。
「世には、説明できなくても受け入れられる事象と、説明できても受け入れられない事象がある。これは――そのどちらでもない」
「……じゃあ、これは何なの?」
「強すぎる感情は、単なる情報ではない」
図書館全体が震えた。本棚の背表紙がきらめき、声はより鮮明になる。
「ニューロンの火花が臨界を超えれば、それは“電磁パルス”として外部に漏れ出す。もしそれがCPUに届けば……割り込み要求として演算を侵食する。しかも、それはSOSの信号かもしれない。――『普通の人間』ではあり得ない。だがもし、サイキッカーを想定したら?」
澪の瞳が大きく見開かれる。
「……感情が、CPUに……SOS? サイキッカー……」
「荒唐無稽だろう。だが君はすでに“説明できない存在”を前にしている。……私を、どう説明する?」
澪の背筋を冷たい汗が伝う。反論は浮かばない。
自分の鼓動だけが、耳に大きく響いていた。
「これは説明も許容もできない事象かもしれない」
Air on Gの声は遠ざかり――澪の意識も闇に沈んだ。
「……澪、時間だ、起きられるか?」
リオンの声が現実へ引き戻す。
ラボ。
差し出された紙コップから湯気が立ち上っている。
「……ありがとう」
コーヒーを一口。苦味が舌に広がり、澪はすぐに端末へと視線を戻した。
ログを呼び出し、過去の感情トレースと照合する。
やがて――異様な結果が浮かび上がる。
「……待って。これ……」
拡大された波形。赤い感情データの中に、数百もの異様な点滅。
「感情データに……割り込みシグナルが紛れ込んでる……!」
演算を走らせると、恐るべき数値がはじき出された。
「1ピコ秒の間に――数億単位の割り込みが!」
リオンの瞳が鋭く光る。
「そんな密度……普通ならノイズとして弾かれるはずだ」
「でも、ペタFLOPS級のホストCPUは違う。一斉に処理を試みた結果、演算が破綻して――暴走に至った」
澪は唇を噛む。指が震えていた。
「……つまり、暴走は“あの子の怒り”に紛れ込んだ数億の割り込みシグナルが原因……」
「暴走が起きたのは“怒り”の演算中……。あの子は嘲笑に耐えていた。でも――本当は怒っていた」
リオンの声は低く、重い。
「つまり感情そのものが……CPUを侵した、ということか」
澪は赤いログをなぞりながら、吐息のように呟いた。
「……もし、あの子の感情がCPUに“割り込み要求”を飛ばしていたとしたら……それもSOSとして...」
Air on Gの言葉が浮かんだ。
「ニューロンの火花が臨界を超えれば、それは“電磁パルス”として外部に漏れ出す」
(だとしたら――スキャンデータに紛れていたのではなく、その電磁パルスが直接CPUに干渉したのかも。しかもこれは《Affectics》に限らない。すべての超高性能コンピュータにとって致命的な爆破装置に等しい……もし国の基幹インフラシステムだったら、一瞬でこの国の中枢機能は麻痺するだろう)
息を詰める。そして最後に。
「……サイキッカー……」
その一言がラボに落ち、空気が凍りつく。
響くのは冷却ファンの唸りと、端末の冷たい電子音だけ――。