第10話「忍び寄る影」
二つの島国――〈セレスティア〉と〈ヴァルガード〉。
かつて、海底プレートの移動により両国の領土が衝突し、戦争と崩壊の危機にさらされた。
その災厄を救ったのは、国家を越えて誕生した最強のAI《Air on G》、そして一人の少女・澪だった。
危機から五年後。
澪は22歳となり、国家AI戦略プロジェクト「感生AI(Affectis)」の開発メンバーとして、国を守る最前線に立っている。
海底トンネルの完成によって、両国は新たな交流の時代を迎えた――はずだった。
だが、平和の陰には必ず影が潜む。
世界規模の闇の組織〈ダークヒールズ〉が、両国の関係を悪化させようと水面下で動き出していた。
そしてその渦中に巻き込まれていくのは、一人の少年――マルタン。
彼は強い感情に突き動かされると、「0と1の流れに触れ、演算を直接書き換える」という、常識を超えた異能を発揮する。
それは国家の基幹システムすら停止させうる“人間サイキッカー”。
友情、武道、幼い恋心、そして闇からの囁き。
少年の選択が、国家の未来を揺るがす。
放課後の道場は、夕陽が窓から斜めに差し込み、青と赤のマットに長い影を落としていた。
マルタンは正面のラインに立ち、息を整える。拳を握る指先が、汗で少し滑る。けれど――
「――はっ!」
気合いとともに突き出された拳は、もう以前みたいにぶれていない。腰で打つ感覚が、身体の芯に通っていた。
「……よくやったな」
リオンの低い声。たったそれだけなのに、マルタンの胸の奥がじんわり温かくなる。
(できた……僕、できたんだ)
頬が、気づけば少しだけ緩んでいた。
帰り間際、リオンは扉のところで立ち止まり、ぽん、とマルタンの肩を叩いた。
「明日も来い。強くなるってのは、一日で終わりじゃない」
「……はい」
その「はい」には、小さな誇りが混じっていた。
同じ頃、ラボの暗い部屋で、澪は無言でモニターを見つめていた。
道場のカメラから送られてくる少年の姿。構え、呼吸、視線――混乱の波が引き、整っていく。
(よかった。ちゃんと、自分で“戻ってこられる”)
胸の底で、安堵が静かに広がる。だが、同時にもう一つの思いが顔をもたげた。
(……だからこそ。もしこの力が誰かの手に渡ったら――危険すぎる)
澪はそっとモニターを閉じ、額に触れる。冷たさが、考えすぎた頭を少しだけ落ち着かせた。
ジュニア・アカデミー。
歴史教師・ゴトウは、空き教室の窓際に立ち、校庭を見下ろしていた。夕焼けに染まるグラウンドでは、球技の声が小さく弾けている。
数週間前の、あの出来事――学校クラウドの謎のクラッシュ。職員会議では「サーバの老朽化」と一蹴された。しかし彼の胸には、小さな棘が引っかかったままだ。
(裏がある)
放課後、彼は生徒を一人ずつ呼び出し、事件当日の様子を淡々と尋ねていった。
「その時、教室はどうだった?」
「誰か、変わった様子の生徒は?」
最初は皆、「特に」と首を振る。だが、やがて――一人の男子生徒が、目を泳がせながら口を開いた。
「……僕が、マルタンをからかったんです」
声は蚊の鳴くように小さい。
「『お前は喋る人形だ、気持ち悪い』って。そしたら、アイツ……顔を真っ赤にして、身体を震わせて……その瞬間、教壇のスクリーンも、僕のタブレットも、急に真っ暗になったんです。僕……怖かった」
教室に、短い沈黙が降りた。
ゴトウは生徒を見つめ、ゆっくりと肩に手を置いた。
「……それはクラスの皆には言わない方がいい。誰かを傷つける言葉は、必ず自分に戻ってくる。分かったね」
「……はい」
生徒が出ていくと、教室には夕陽と埃の匂いだけが残った。
ゴトウは目を閉じる。(同時に“落ちた”か)
偶然――そう片付けるには、できすぎている。
(あの少年。何かを握っている)
その目は、もう教師のそれではなかった。
廊下を歩くユナに、柔らかな声がかかる。
「ユナ先生」
振り返ると、ゴトウが微笑んでいた。歴史の教師らしく、落ち着いた佇まい。
「最近、マルタン君の様子はどうだい? 気になってね。授業で、困っていることはないかな」
「……特に問題はありませんよ」
ユナは笑顔で答える。けれど、その笑みに、余計な情報は一滴も混ぜない。
ゴトウは頷いた。足音は軽い。去り際、わずかに振り返り――彼女の横顔を、静かに観察する。
(口が固い……か)
ユナは、彼の背中が角を曲がった瞬間に、そっと息を吐いた。胸の奥に、薄い氷が一枚落ちたような感覚。
夜。
狭いアパートの一室。壁には地図や歴史ポスター、机には教科書の山。ランプの光は黄色く、部屋の埃がゆっくり舞っている。
生活感を装ったアナログな部屋。しかし、引き出しから取り出された小さな黒い端末が、その仮面を剥ぎ取る。
スイッチを入れる。低い起動音。画面に、暗号化通信のインターフェースが現れる。
指先が、迷いなく文字を打ち込む。
――対象:PSSB
――内容:強い感情の高ぶりに伴い、周辺機器が同時にブラックアウト。潜在的なサイバー攻撃ベクトルの可能性。兵器化の余地。
送信。
「Complete」の小さな英字が、画面の隅で光って消えた。
遠く離れたどこか。
黒い部屋の巨大スクリーンに、ゴトウのメッセージが映し出される。
すかさずスクリーンの前の指がキーボードを叩く。
――教室内と学校周辺にスクリーンカメラを設置しろ。
通知を受けたゴトウは、机の引き出しから三センチ四方の透明シートを数枚取り出した。
無線機能を搭載したシート状のカメラ。撮影した映像をリアルタイムで伝送できる。
ゴトウはそれをバッグにしまい込んだ。
翌日。
ユナの授業で、マルタンは落ち着いた声で答えた。
「……ここはヴァルガード語で、“境目”を指します」
「正解」
一瞬、教室の空気が変わる。
からかいで笑っていた数人の顔に、戸惑いが走る。
(え……あいつ、普通に答えてる)
そのさざ波は、誰にも言葉にされないまま、静かに広がった。
窓側の席で、ハルカはそっと笑った。
(マルタンくん、かっこいい)
その笑顔に気づいたマルタンが、ほんの少しだけ視線を落として照れる。胸の鼓動が、以前よりゆっくりで、確かなリズムになっていた。
放課後。
校門の影が長く伸び、街路樹の葉が夕風に揺れる。
帰ろうとしたハルカの背に、落ち着いた声が届いた。
「ハルカさん。少し、いいかな」
振り向くと、ゴトウ先生が立っていた。優しそうな笑み。けれど、その目の奥に、どこか数字のような冷たさが見える。
「マルタン君、最近どう? 友達はできた? 放課後は、よく誰と一緒にいるのかな」
「え、えっと……」
ハルカは戸惑って視線を泳がせる。
「私……その、詳しくは……」
「そうか、うん。心配でね。クラスのためにも、彼のこと、知っておきたくて」
声色は柔らかい。質問は執拗。
ハルカの胸に、小さな針のような違和感が、ちくちく刺さる。
(先生っぽくない。なんか……監視、みたい)
「じゃあ、ありがとう」
ゴトウは軽く手を振って去っていった。ハルカはその背中を見送り――気がついたら、走り出していた。
「せ、先生っ!」
ユナが振り返る前に、ハルカは彼女の腕をつかんだ。
「ゴトウ先生が……マルタンくんのことばっかり、何度も聞いてきて……すごく、変で……!」
ユナの表情が、すっと緊張に変わる。
「――分かった。話してくれてありがとう、ハルカ」
彼女はすぐにタブレットを開き、澪へ連絡を取った。
ラボの会議スペースでは澪とリオンが向かいあって座っていた。
ユナの報告を聞いた後で、澪は黙ったまま両手を組み、視線を落とした。
短い沈黙。やがて、澪の低い声が漏れた。
「……ゴトウとかいう教師が、ただの教師じゃないとしたら」
澪は顔を上げる。瞳は冷たく澄んでいた。
「ダーク•ヒールズ。あの闇の組織は、平然と日常に入り込む。教師、医師、配達員――何にでも化ける。関係が“あるかもしれない”レベルでも、疑って動くべきよ」
「教師まで潜り込んでるってのか」
リオンが腕を組み、苦い声を漏らす。
「厄介だな」
澪は大きく息を吸い、決意を固めるように吐き出した。
「マルタンは、私たちが守る。――もし相手が誰であろうと」
夜。
数人の黒い人影が慣れた手付きでジュニア・アカデミー周辺の並木や公園にスクリーンカメラを設置していた。
マルタンの教室には、すでにゴトウが仕掛けを終えていた。
その頃、マルタンはベッドの上で、道場で教わった呼吸を繰り返していた。
吸って、吐く。
(僕は――大丈夫だ)
眠りの縁で、ふと胸がざわつく。理由は、まだ分からない。
窓の外で、風が小さく鳴った。
少年の背後まで、影は、もう来ている。




