第3夜:『船上の閉鎖空間』② 船内の異変
「水に囲まれた閉鎖空間は、人間の本性を剥き出しにする舞台となります。彼女が築き上げてきた『楽園』は、波に揉まれ、船が揺れるたびに、音を立てて崩れ去っていく。仲間からの承認という拠り所を失い、彼女は、自身の閉所恐怖症という、最も深い闇と対峙せざるを得なくなるのです。荒れる海は、彼女の心の嵐を、さらに大きくしていくのです。そして、船内には、水が呼び寄せた、見えない何かが蠢き始めていました。」
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閉鎖された船内で、不可解な出来事が起こり始めた。食料と水の残りが日に日に減っていくにつれて、皆の顔から笑顔が完全に消え失せた。互いに疑いの目を向け、小さなことで言い争いが起こるようになった。私は、この状況をなんとかしようと、必死で明るく振る舞い、ムードメーカーであろうとした。しかし、私の言葉は誰にも届かず、虚しく響くだけだった。
夜、寝苦しさで目を覚ますと、隣で寝ていたはずの和也がいない。船室の薄暗闇の中で、彼の寝息が聞こえないことに気づき、心臓が跳ね上がった。私は懐中電灯を手に、船内を探した。すると、彼は船室の隅で、虚ろな目で宙を見つめ、突然、意味不明な言葉を呟きながら笑い出したのだ。その笑い声は、私を嘲笑うかのように甲高く、私の背筋を凍らせた。
(「和也、どうしたの? 目が変だよ。まさか、ストレスで…? いや、もっと何かおかしい。私、あんな目、見たことない…得体の知れない恐怖が、じわじわと這い上がってくる。彼の目が、私たちを監視してるみたいで、私のことまで見透かしているみたい…! 私が閉所恐怖症だってことまで、見抜かれてるんじゃないか…?」)
彼の瞳は、暗い海の色をしていた。まるで、彼の魂が、すでに海の底に引きずり込まれてしまったかのようだった。私は、彼に近づくことも、声をかけることもできなかった。ただ、その場に立ち尽くし、震えることしかできなかった。
船内からは、夜ごとに異様な物音が聞こえるようになった。ドタンと何かが倒れる音、何かを引きずるような音、そして、船底から響く、水が不規則に跳ねるような音。まるで、船の底に何かが潜んでいるかのように、水が生き物のように蠢いている。その音は、私の閉所恐怖症をさらに悪化させた。船全体が、私を閉じ込める巨大な棺のように感じられた。
(「何の音? みんな寝てるはずなのに。誰かが隠してる? でも何を? あいつら、私のことを見てる…私も、誰かのことを見てる。この船の中、もう誰も信用できない! この閉鎖された空間が、私を窒息させる…幼い頃の、あの水浸しになった物置小屋の…天井が、水で、迫ってくる…! 息ができない…!」)
助けを呼んでも応答はなく、無線は沈黙したままだ。水に囲まれた密室で、疑心暗鬼が渦巻き、極限状態に陥った私たちは、互いに牙を剥き始めた。小さな言い争いが、次第に激しい罵り合いへと発展していく。誰もが、自分のことしか考えていない。私の存在すら、もはや意味をなさなくなっていた。私がグループの中心にいることで保たれていたはずのバランスは、完全に崩壊した。誰も私を必要としていない。私の居場所が、この船の中には、もうどこにもない。
私は、船室の隅で膝を抱え、震えていた。外の嵐の音と、船内から響く不気味な物音が、私の心を深く蝕んでいく。頭の中で、幼い頃、物置小屋に閉じ込められた時の記憶が、鮮明に蘇る。土砂降りの雨で、物置小屋の床には水が溜まり、その水面が、ゆっくりと、しかし確実に天井へと迫ってくる幻覚を見た。あの時の、息苦しさと、水に飲み込まれる恐怖が、今、この船の中で、現実のものとなろうとしていた。
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「水に囲まれた閉鎖空間は、人間の心を剥き出しにする舞台となります。彼女は、自身の内なる恐怖と、仲間の狂気に直面し、その存在意義を失っていきます。船内から響く異音は、単なる船の軋みではありません。それは、水に囚われた魂が、新たな犠牲者を求めて蠢く音。そして、彼女は、その音に、次第に引きずり込まれていくのです。」