第3夜:『船上の閉鎖空間』① 楽園の崩壊
「大型の台風が街を襲う夜、彼女は再び現れました。次に語られたのは、水に囲まれた閉鎖空間で起きた、人間の狂気と、見えない恐怖の話です。荒れ狂う大海原の真ん中で、人々は本当の自分を晒し、互いに牙を剥くことになります。そこには、助けを求める声も、届くことはありませんでした。そして、水は、ただ静かに、その全てを飲み込んでいったのです。閉鎖された空間は、人間の心を剥き出しにする舞台となるのです。」
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大型の台風が関東に接近し、激しい風雨が歌舞伎町を叩きつける夕方だった。店の窓は雨と風でガタガタと音を立て、外の景色は水で霞んでいた。街の騒音も、雨と風の音にかき消され、不気味なほど静まり返っている。まるで、世界から隔絶されたかのようだ。そんな嵐の中、予想通り、あの女性が「アクアリウム」の扉を開けた。
彼女の髪は、まるで水気を吸いすぎた海藻のように、普段よりも黒く、重く見えた。体から水が滴るが、やはり床には水たまりができない。そのたびに、彼女の存在が現実のものではないかのような、奇妙な感覚に襲われる。彼女はいつものようにカウンターの隅に腰を下ろし、俺が差し出すグラスの水を一口も飲まず、じっと見つめていた。その瞳は、まるで荒れ狂う大海を映しているかのように、深くて底が見えない。そして、その表情は、どこか遠く、物悲しく、全てを諦めたかのように響いた。
彼女は、静かに語り始めた。彼女の声は、時折、複数の声が重なり合ったように聞こえる錯覚をマスターに与えた。それは、まるで、荒れる海に飲み込まれた無数の叫び声が、彼女の口を通して響いているかのようだった。その声が、俺の背筋を冷たい水が這い上がるように震わせた。
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私の名前は白石玲奈。大学3年生。友人が多くて、いつもグループの中心にいるムードメーカー的存在だ。みんなを笑わせて、楽しい雰囲気を作るのが得意。正直、常に誰かに必要とされたいという承認欲求が強くて、仲間からの評価に過度に依存している部分がある。だから、みんなといる時は、ずっと最高の私でいたかった。
今年の夏休みは、大学の友人グループと豪華なクルージングを楽しんでいた。豪華な小型クルーザーを貸し切り、青い空、広がる海! 最高の夏になるはずだった。クルーザーのデッキに立ち、潮風を浴びながら、開放感に浸っていた。
(「最高の夏! こんな贅沢、他にある? みんなと一緒なら、怖いものなんてない! この仲間と、ずっと一緒にいたいな。私がいなきゃ、このグループは成り立たないんだから、私がみんなを引っ張っていかなきゃ…! 私が、この楽しい時間の中心でいなきゃ…!」)
私たちはデッキで音楽をかけ、酒を飲み、笑い合った。みんなの笑顔を見ていると、私の存在意義が確認されるようで、心から満たされた気持ちになった。このままずっと、この時間が続けばいいのに、と心から願った。私の周りには、いつもたくさんの笑顔があった。
しかし、そんな楽園のような時間は、突然の嵐によって一変した。数時間前まで青く澄んでいた空は、みるみるうちに黒ずみ、稲光が海を裂く。まるで巨大な怪物が、私たちを飲み込もうとしているかのように、怒り狂った波がクルーザーに襲いかかった。クルーザーは沖合で故障し、通信機器もダメになって、私たちは大海原の真ん中で漂流してしまったのだ。無線も通じず、食料も底を尽きかける。
(「嘘でしょ…助けが来ない! 電波も通じないなんて。まさか、このまま…? 船が揺れるたびに、胃がひっくり返る。気持ち悪い…体が勝手に震える。この狭い船に閉じ込められるなんて…息が詰まる。嫌だ、息ができない…! あの物置小屋みたいだ…土砂降りの雨で、水がどんどん入ってきて、天井まで迫ってくる幻覚…あの時の、閉じ込められた恐怖が蘇る…!」)
私は重度の閉所恐怖症だ。普段は快活な性格で隠しているけれど、エレベーターや満員電車でも息苦しさを感じる。それが、この見渡す限りの海に囲まれた、閉じ込められた船の中で、一気に襲いかかってきた。全身に冷や汗が噴き出す。
閉鎖された船内で、私の神経は研ぎ澄まされていく。食料が尽きるにつれ、皆の顔から笑顔が消え、イライラが募っていくのがわかる。最初は冗談めかしていた小競り合いが、次第に本気の口論へと発展していった。互いを見る目が、獲物を探す獣のようになっていく。誰もが、自分のことしか考えていない。
(「みんな、ピリピリしてる。私だけじゃない。私も、イライラする…喉が渇く…でも、私がしっかりしなきゃ。私がリーダーなんだから…ここで私が崩れたら、このグループは終わりだ。私の居場所がなくなる…! 誰も私を見てくれなくなる…!」)
外の荒れる海が、まるで私たちの狂気を煽っているかのようだった。波が船体を叩きつけるたびに、軋むような音が船全体に響き渡る。その音は、まるで船自体が悲鳴を上げているかのようだった。私も、心の奥底で、小さな悲鳴を上げていた。
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「水に囲まれた閉鎖空間は、人間の本性を剥き出しにする舞台となります。彼女が築き上げてきた『楽園』は、波に揉まれ、船が揺れるたびに、音を立てて崩れ去っていく。仲間からの承認という拠り所を失い、彼女は、自身の閉所恐怖症という、最も深い闇と対峙せざるを得なくなるのです。荒れる海は、彼女の心の嵐を、さらに大きくしていくのです。」