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第1夜:『水沫の言霊』③ 深淵への溶融

「囁き声は、次第に甘美な誘惑へと変わっていきます。水底に囚われた無数の魂が、彼女を新たな仲間として迎え入れようとしているのです。もはや、抗う術はありません。水が彼女を飲み込み、その存在を溶解させていく時、そこにはただ、深い安堵と、抗えない絶望だけが残されるのです。彼女の魂は、今、水沫となって輝いています。」


ーーー


囁き声は、次第に明確な言葉となり、私を水底へと誘う。「オイデ…ココハ…キモチイイ…アナタモ…ワガモノトナレ…」。その声は、甘く、そして抗いがたい魅力に満ちていた。まるで、母親が子供を寝かしつける子守唄のように優しく、しかし確実に私の意識を蝕んでいく。私の足元からは、冷たい水が、まるで生き物のように這い上がってくる感覚があった。足首から、膝へ、そして太ももへと、冷たいものがまとわりつく。


(「やめて! 来ないで! 冷たい…水が、私の足首を掴んでる…! 引きずり込まれる! このままじゃ、あの日の私みたいに…! 助けて! 誰か、助けて! 誰かの手が、私の足首を掴んでいる…! あの時と同じだ…!」)


日記の最後のページには、狂気に満ちた一首が記されていた。「水底は我を呼ぶ、魂の安息の地、泡沫に消えゆく定め…」。その言葉が、私の頭の中で呪文のように繰り返される。池の淵から離れようともがくが、足が鉛のように重く、泥の中に深く埋まっていくようだった。全身の毛穴が開き、冷気が私の全身を包み込み、まるで水が肌に吸い付くようだ。まるで、私の体が水と一体になろうとしているかのようだった。その冷たさは、痛みを伴いながら、なぜか心地よく感じられた。


(「寒い…冷たい…なのに、なんでこんなに心地いいの? 頭がぼーっとする。意識が、水の中に溶けていくみたい。この水、私を眠らせようとしてる? 抵抗する力が、もう残ってない…私が私でなくなる…私が、誰かになっていく…」)


囁き声はさらに大きくなり、私以外の何かの声が混じり合っているように聞こえる。男の声、女の声、子供の声…無数の声が、私の名前を呼んでいる。彼らは、皆、水の中で苦しみ、そして、安らぎを得たように聞こえた。その声は、私に「仲間になれ」と誘いかけている。


(「違う、これは私だけの声じゃない。たくさんの声が、私を呼んでる…私を、水の中に…仲間に入れようとしてるの? 私は、あの時、水に消えた家族の顔を、思い出せない…でも、今、彼らが私を呼んでいる? 私も、彼らのように、水に還るの? この声は、もしかして…お父さん…お母さん…?」)


私の視界が、水に歪んだように揺れ始める。池の水面に映る私の顔が、まるで別人のように、青白く、目が虚ろになっていく。その顔は、私が思い出せない家族の誰かに、そっくりだった。私が見たことのない、けれど確かに知っているような、深い悲しみを湛えた顔。その顔が、私を水底へと誘うように、ゆっくりと微笑んだ。


(「私の顔…誰、これ? 私じゃない! でも、この顔、どこかで見たような…幼い頃の、あの湖で…あの、私が思い出せない家族の顔…! 私の家族…? 彼らが、私を呼んでるの? もう、私は、戻れない…」)


体中の水分が、まるで水面に引きずり出されるかのように、皮膚がひび割れていくような感覚に襲われる。喉がカラカラに乾き、息をするのも苦しい。皮膚の下で、何かが蠢いているような、ぞっとする感覚があった。私はもう、抵抗する力も残っていなかった。体は水に引き寄せられ、抗うことができない。水底へと沈む感覚が、私を包み込む。水面が、ゆっくりと私の顔を覆い隠していく。


(「ああ…もうダメだ。この冷たさ、知ってる。あの日の、冷たさだ。お父さん、お母さん…私も、そっちに行くね…」)


意識が遠のく中、水面に映る自分自身の顔が、歪んだ笑顔を浮かべていた。それは、水に囚われた者たちの、絶望と安堵が混じり合った、最後の顔だった。そして、私の視界は、深い水の底の暗闇に包まれた。


ーーー


「言葉は、時に水を媒介にして、生者と死者の境界を曖昧にします。彼女が最後に見たものは、水面に映る、もう一人の自分だったのかもしれません。それは、彼女が過去に失ったものの、恐ろしい再来であり、水底からの、決して逃れられない誘いだったのです。彼女の記憶は、今、私の中で、泡沫となって輝いています。」


ーーー


エピソードを語り終えると、外の激しかった雨は、いつの間にか止んでいた。窓の外には、都会の光が濡れたアスファルトにぼんやりと反射して輝いている。女性はグラスを置き、静かに立ち上がる。「では、これで…」とだけ言い残し、彼女は店の扉を開け、夜の歌舞伎町の闇へと消えていった。マスターは、女性の残した余韻にしばらく浸っていた。彼女の語る物語は、あまりにも生々しく、まるで自分が体験したかのような錯覚に陥るほどだった。その日以降、雨の降る夕方には必ず彼女が現れるようになった。まるで、雨が彼女を呼び覚ますトリガーであるかのように、彼女は常に、水と共に現れた。マスターの耳の奥には、彼女が語った水音が、今も微かに響き続けている。

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