第1夜:『水沫の言霊』① 水の記憶を宿す古書
「あれは、私がまだ学生だった頃の話です。古びた文学部の資料室で、奇妙な日記を見つけたんです。その日記には、まるで生きた水のように、人の心を飲み込む言葉が綴られていました。言葉は水に乗り、その形を変え、いつの間にか読む者の魂にまで深く浸透していくのです。彼女がその日記を見つけた時、すでにその運命は定められていたのかもしれません。水濡れのシミが、最初の予兆だったのです。」
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私の名前は佐倉詩織、文学部日本文学科の3年生。夏休みに入り、誰もいない大学の図書館で、私は古書に埋もれる日々を送っていた。特に、古びた文学部の資料室は私のお気に入りの場所だ。埃っぽい空気と、紙の独特の匂い。そこにいると、外界から隔絶されたような、奇妙な安心感があった。普段は明るく社交的な私だけど、本当は、外界の喧騒から逃れて、自分だけの世界に閉じこもりたい。文学に傾倒するのは、現実からの逃避であり、そして、私自身が思い出せない「何か」への手がかりを無意識に求めているからかもしれない。
(「今日も一日、ここに籠もろう。誰も来ないから落ち着くし、この独特の匂い、なんだか私の心臓の音まで吸い込んでくれるみたいで…現実から切り離されてる感じがいい。私だけの世界。ずっとここにいられたらいいのに」)
そんな思いで、私は薄暗い資料室の奥へと進んだ。ひんやりとした空気が、肌を撫でる。陽の光さえ届かない棚の隅に、他の本とは明らかに違う、異様なオーラを放つ一冊が目に留まった。背表紙は色褪せた墨色で、タイトルらしきものはなく、ただ達筆な筆遣いで「水沫集」とだけ書かれている。書棚に並ぶ他の本が乾燥しきっているのに対し、その本だけが、妙に湿気を帯びていた。
(「何これ、大正時代のもの? こんなところに眠ってたなんて…変な匂い、古くて湿っぽい。カビの匂いじゃない…もっと、生臭いような、それでいて甘いような、妙な匂い。触りたくないのに、手が離れない。まるで、つい最近まで水に浸かっていたかのように、嫌な感触なのに、なぜか惹かれる…誰かがずっと触っていたみたいに、手に馴染む…誰が、これを…?」)
私の指が、吸い寄せられるようにその本に触れる。ひんやりとした紙の感触が、指先から全身に広がる。思わず手を引っ込めようとしたけれど、なぜか指が離れない。まるで、本が私の手を掴んでいるかのように。私はその本を、震える手でゆっくりと書棚から引き抜いた。本が抜けた空間から、冷たい空気が、まるで何かの息吹のように噴き出した気がした。
閲覧机に運び、おそるおそる表紙を捲った。最初の数ページは、古風な仮名遣いの歌が並んでいる。どれも水にまつわるものばかりだった。「水沫に消える言霊よ、我を呼ぶ」「水底は安息の地、泡沫に還る魂」……。読むにつれて、全身の毛穴が開くような、ゾクゾクとした感覚に襲われる。皮膚の下を冷たいものが這い上がる感覚。
(「この歌…『水沫に消える言霊よ、我を呼ぶ』…なんかゾクゾクする。皮膚の下を冷たいものが這い上がる感覚。この女流歌人、一体何を見たんだろう? 何を体験したから、こんな歌が書けるの? もしかして、私も同じものを…? 何か、知ってるような気がする…」)
さらにページを捲ると、その歌の間に乱雑な走り書きが挟まっていた。筆跡は激しく、書き手の感情がそのまま乗り移ったかのように、文字が歪んでいる。それは、日記のようでもあり、まるで狂気の独白のようでもあった。記述は、次第に水にまつわる奇妙なものに傾倒し、狂気を帯びていく。水が話しかけてくる、水の中に何かが見える、水に引きずり込まれる…そんな内容が、繰り返し現れる。
(「怖い。この歌、頭の中で響く…水音まで聞こえる気がする。外は晴れてるのに、どこかで水が流れる音が…? いや、違う、これは私の頭の中だ。彼女の狂気が、私に乗り移ろうとしてる…? だめ、やめて…! 私の頭の中に、誰かが入り込もうとしてる…!」)
私の頭の中で、微かな水音が常に響いている。それは、幼い頃に経験した、曖昧な水難事故の記憶と、どこか重なる音だった。私はあの時、湖で家族を失った。その時の記憶は曖昧で、家族の最後の顔さえ思い出せない。それが、私の中に密かな罪悪感として残っている。そして、水面に自分の顔が映ることを、人一倍忌み嫌っていた。水面に映る自分が、いつか歪んで、あの日の家族の顔になってしまうのではないかという、漠然とした恐怖があったからだ。
日記を読み進めるほどに、幼い頃の曖昧な水難事故の記憶が、鮮明な映像として脳裏をよぎるようになった。冷たい水、暗い底、そして、誰かの手が私を掴もうとする感触…。図書館の資料室は、まるで水の中にいるかのように湿気が増し、空気が重く感じられた。私の肌には、細かい水滴がまとわりつくような、嫌な感覚があった。
(「息が詰まる…まるで、水の中にいるみたい。この本が、私を水の中に引きずり込もうとしてる? いやだ…でも、知りたい…この日記の先に何があるのか…この歌人が、最後に何に行き着いたのか…」)
私は、その日記にのめり込んでいった。読み進めれば読み進めるほど、頭の中で響く水音は大きくなり、その声が、まるで私を呼んでいるかのように聞こえる。それは、静かな囁き声でありながら、抗いがたい引力を持って、私の心を深淵へと引きずり込んでいくようだった。
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「彼女は、無意識のうちに水に囚われた言葉の糸に絡め取られていました。そして、その糸は、彼女を、水底に眠る真実へと導くことになります。まるで、水が彼女の過去と未来を結びつけようとしているかのように。彼女の心臓の鼓動は、水音と混ざり合い、すでに新たな物語の序章を奏で始めていたのです。」