プロローグ:雨宿りのバーにて
「この街は、常に多くのものを飲み込み、そして吐き出しています。欲望、歓喜、絶望、そして…記憶。特に、夜の帳が降り、雨が降り出すと、街の底に沈んだはずの様々な感情が、まるで泡のように浮き上がってくるのを感じます。新宿、歌舞伎町。この喧騒の坩堝の片隅に、ひっそりと佇むバー『アクアリウム』。そこは、私にとって、水にまつわる記憶を吐き出すための、小さな水槽のような場所です。今宵もまた、雨が降っています。私の存在を呼び覚ます、静かな、しかし確かな雨音が…。」
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梅雨のじめつく空気が、歌舞伎町の裏通りに澱んでいた。アスファルトは昼間の熱気を吸い込み、吐き出すように湿気を纏っている。けたたましいゲリラ豪雨が、ビルの谷間を叩きつけていた。滝のように降り注ぐ雨が、ネオンの光を水たまりにぼやかし、車のヘッドライトは白い壁のように雨を切り裂いていく。こんな悪天候の中、バー「アクアリウム」の重い扉を開ける客は、そう多くはない。それでも、マスターである俺は、いつものようにカウンターのグラスを拭きながら、ぼんやりと窓の外の雨を眺めていた。
「アクアリウム」という名の通り、店内は淡い青色の照明に包まれ、壁には大小様々な水槽が埋め込まれている。熱帯魚がゆらゆらと泳ぎ、水草が静かに揺れる。水のせせらぎと、時折響くエアーポンプの小さなモーター音が、喧騒に満ちた歌舞伎町の真ん中にありながら、どこか隔絶された、静謐な空間を作り出していた。客はほとんどが常連だ。一日の終わりに、喧騒から逃れてこの静かな水槽の中でグラスを傾ける。そんな、どこか疲れた顔をした人々が、俺の店にはよく似合った。
午後8時を少し回った頃、店のドアの開く音がした。風が吹き込み、雨の匂いが鼻腔をくすぐる。思わず顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、場末の喧騒とはまるで無縁のような、清潔感と透明感をまとった若い女性だった。
彼女の纏う空気は、湿気と排気ガスにまみれたこの街のそれとは全く異質で、まるで深海の底のように澄んでいた。真っ黒なロングヘアは雨に濡れて細く長く、露が滴る枝垂れ柳のように首筋に張り付いている。濃紺のワンピースは、濡れて肌に張り付いていたが、奇妙なことに、彼女の足元、俺の店の床には水たまりが一つもできていない。まるで、彼女の身体から滴り落ちる水が、床に触れる寸前で蒸発しているかのようだった。
彼女は濡れた前髪を人差し指で軽く払い、カウンター席の隅に、まるで最初からそこに溶け込んでいたかのように静かに腰を下ろした。透けるように白い肌と、どこか遠い場所を見つめる瞳。まるで、この世のものではないような、儚げな美しさがあった。その存在自体が、店の水槽の中に閉じ込められた珍しい魚のようにも見えた。
「ひどい雨ですね」
俺は、いつもの通りの口調で、静かに声をかけた。内心ではこの珍しい客への好奇心が渦巻いていた。こんな夜に、こんな場所に、こんな女が。何か特別な理由があるのだろうか。
彼女は静かに頷き、俺が置いたグラスに注がれた水をじっと見つめる。まるで、そこに何かの秘密が隠されているかのように、食い入るように見つめている。その瞳の奥には、薄い水の膜が張られているかのようだった。
「ええ、まるで…遠い昔の、あの日のようだと…」
彼女の呟きは、ひどく耳に残った。それは、このバーに似つかわしくないほど、遠く、そして深い響きを持っていた。(「妙な女だ。この歌舞伎町で、こんなに透明感のある奴も珍しい。しかも、俺の店の水を見て、そんなこと言うなんて…何か、あるな。彼女の顔、なんだか輪郭がぼやけて見えるのは、気のせいか? 目を凝らしても、はっきりしない…」)
俺は、彼女の言葉の奥に隠された物語に、強く惹きつけられるのを感じた。彼女の存在自体が、何かを語りかけているように思えたのだ。グラスを拭く手が、自然と止まる。
「もし差し支えなければ、その『あの日のよう』な出来事とやらを、聞かせてもらえませんか?」
俺は、無意識のうちに、そう問いかけていた。彼女が口を開くのを、じっと待つ。彼女は一瞬、迷うような素振りを見せたが、やがて透き通るような瞳を上げ、ゆっくりと語り始めた。その声は、水が岩を滑り落ちるように、静かに、しかし確かな響きを伴っていた。
彼女が語り始めたのは、一人の女学生の物語だった。それは、言葉が水に乗り移り、人を狂わせるという、古の呪いのような話。俺は、彼女がグラスの水を一口も飲まないことに、この時はまだ気づいていなかった。そして、彼女が店に入ってきた直前の記憶が少しぼやけているのも、単なる疲労のせいだとしか思っていなかった。その夜から、俺の店で、水にまつわる恐ろしい怪談夜話が始まることになるとは、知る由もなかった。
ーーー
「私の物語は、水と共に始まります。そして、水と共に終わるでしょう。今宵、このバーで、私の記憶の残響が、また一つ、語り継がれるのです。あなたが、その物語の語り部となることを、願って…。」