第8話 ふたりの影が交わる場所
庭の白いバラが、午後の光にやさしく揺れていた。
アリアは、咲き始めの蕾をそっと指で撫でながら、その場に立っていた。
どこか少しだけ儚げな背中。
リオは、遠くからその姿を見つめていた。声をかけようとして、ふと、その背後にもう一人の人影が現れた。
「アリア」
低く、穏やかな声。
リオの胸が、かすかに締めつけられた。
振り返ったアリアの顔が、ほんの少し緩む。
「エルヴィン」
彼女の婚約者──エルヴィン=ハルディア。
貴族家の生まれでありながら、政務にも精通し、王太子の側近を務める有能な人物。
外見も端整で、気品のある佇まいはアリアの“婚約者”という立場にまったく不足はない。
そして何より、アリアはその隣で、ごく自然に笑っていた。
(……これが、“選ばれた関係”か)
リオは木陰からその光景を見つめながら、初めて胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
エルヴィンは、アリアの前に立ち、その手にそっと白い手袋を差し出す。
「手が冷えていた。朝も気温が低かったから、念のために」
「ありがとう。気づいてくれて……」
ふたりの間には、何も語らなくても伝わる“呼吸”のような空気があった。
それは、リオには持ち得ないものだった。
「……おや、近衛のリオ殿もいらしていたのですね」
エルヴィンがようやくリオの存在に気づいたように振り返る。
その表情には柔らかい笑みがあったが、どこか測るような光もにじんでいた。
「アリア様が庭に出ると聞いたもので。お怪我などないよう、見守っておりました」
リオは形式的に一礼し、距離を保った。
「さすがは、忠義深い騎士だ」
エルヴィンは軽く頷いて、アリアの肩に手を添える。その仕草は自然で、そして確かに“親密”だった。
アリアが何も言わないことが、かえって重たかった。
(……いつからだろう。彼女の隣に立つこの男を、意識するようになったのは)
エルヴィンが、少しだけアリアに顔を近づけて何かを囁いた。
アリアは頷き、小さく笑う。
その笑顔が、リオには少しだけ遠く見えた。
自分の知らない、彼女の表情だった。
「それでは、私たちはこれで。失礼します、リオ殿」
「……お気をつけて」
リオの声は、ほんのわずかにかすれていた。
───
彼らが歩き去ったあと、リオは一人、庭の白バラの前に立っていた。
さっきアリアが触れていた蕾に、指を伸ばす。
指先が、ほんの少し震えていた。
彼女の隣に立つのは自分ではない。
──このまま、見送ることしかできないのか。
その問いが、胸の奥で、静かに、けれど確かに芽を出し始めていた。