第6話 夜を裂くもの
その夜は、不思議なほど静かだった。
月は雲に隠れ、風もなく、城の石壁すら音を立てずに佇んでいた。
そんな夜だったからこそ、小さな違和感が、妙に際立って感じられたのかもしれない。
リオは、部屋の窓辺に立ち、何の気なしに外を眺めていた。
いつものはずの景色が、どこか軋んで見える。
その理由がはっきりとわからなくて、けれど胸の奥に、重たいものが残っていた。
アリアの顔が浮かぶ。
昼間、ふとよろめいた彼女の姿。指先を隠すようにそっと組んだ仕草。
笑っていた。彼女はいつもどおり、気丈に振る舞っていた。
──でも、あれは“演技”だった。
そう感じたのは、初めてだった。
“どこか違う”
それは言葉ではなく、肌で感じる不協和だった。
彼女の中に、触れてはならな底暗い深淵があるような、そんな気配。
(アリア様……)
何かが、起きている。
けれど彼女はそれを決して語らない。
知りたくて、でも、知ってしまえば彼女がどこかへ行ってしまうような怖さもあった。
彼女を守りたい。ただ、それだけなのに。
目を閉じた。
夜の静けさが、心のざわめきを際立たせていく。
───
その頃、アリアはひとり、中庭の奥に立っていた。
誰にも気づかれないように、誰とも視線を交わさぬように。
深く息を吸う。空気は冷えて、胸の奥に澄んだ刃のように突き刺さる。
「来ているのでしょう?」
囁くような声に、風が応えた。
気配が揺れる。
「……相変わらず、見つけるのが早いな」
どこからともなく現れた黒衣の影──魔術師が、音もなく彼女の前に現れた。
その顔は朧で、年齢も性別も定かでない。けれどその声だけが、いつも変わらず、冷たく湿っていた。
「兆候が出始めたようだね」
魔術師が言う。
アリアは何も答えず、ただ静かに頷いた。
「指先の感覚が少しずつ遠のいてる。風の匂いも……なんだか、膜を隔てて届いてくるような感覚」
「順当な進行だよ。君の魂は、少しずつ摩耗していく。すり減った“時”の跡に、今の君の命が染み込んでいってる」
「知ってる」
淡く答えるその声には、もう怯えも迷いもなかった。
「──次の“戻り”の条件は?」
魔術師の目がすうっと細まる。アリアは視線を逸らさない。
「君の命の残りを秤にかけて、いま決めるのか?」
「迷ってる時間はないわ。……私は彼を救うためにここにいる。それが、すべてだから」
「……その覚悟だけは、何度見ても変わらないな」
魔術師はそう言うと、懐から小さな砂時計を取り出した。
その中には、金でも銀でもない、淡く光る“時の粒”が舞っている。
「次に戻れば、君は“残り三度”だ」
「──わかった」
その瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
ひとつ、確かに灯りが消えるような感覚だった。
けれどアリアは、それをただ受け入れるように静かに瞼を閉じた。
風が吹き抜ける。誰もいない中庭に、夜が深く降りていく。
あと三度。
あと三度しか、時間は巻き戻せない。
でも、たったそれだけあれば──きっと辿り着ける。
彼と、生きる未来へ。
(リオ……)
その名を心の中で呼びながら、アリアはそっと、ひとすじの涙を飲み込んだ。
この涙だけは、まだ彼に知られたくなかった。