第5話 ひび割れは、音もなく
最初に違和感を覚えたのは、指先だった。
噴水の縁にそっと手を置いたとき、石の感触が、どこか遠くのもののように思えた。皮膚の表面に触れているはずなのに、その下の層に届かない。指の感覚が、少しだけ鈍くなっている。
風の冷たさも、どこか薄くなっていた。
それは痛みでも、熱でもない。言葉にできない微かなずれ。まるで、身体と心のあいだに、ほんの小さなすき間ができたような感覚だった。
私は手をそっと引き寄せ、ドレスの裾でなにげなく指を隠した。
気づかれてはいけない。誰にも、知られてはいけない。
とくに──リオには。
“時間を戻すたびに、寿命が削られる”
それが魔術師との契約の代償だった。
明確で、容赦がない。その代償が少しずつ表面に滲み出してきたということは、それだけ私が繰り返してきたという証でもある。
まだ戻れるのだろうか。
あと何回、時間を遡れるのだろう。
あと何回──彼を救えずに終わるのだろう。
噴水の水音だけが、静かに胸を打っていた。
石にぶつかって、跳ねて、また落ちる。規則的なその音が、どこか心臓の鼓動と重なっている気がして、不意に息を詰める。
音のない不安が、体の奥底から這い上がってくる。
焦りじゃない。
ただ、“消えてしまう”という実感が、少しだけ現実味を帯びてきた。
私はいま、確かに生きている。けれど、どこか少しずつ、抜け落ちている。
「アリア様、どうかなさいましたか?」
リオの声が背後から届いて、私ははっとした。
振り向きたくなかった。きっと、いまの私は“いつもの私”じゃない顔をしている。
けれど逃げることはできなかった。私はゆっくりと振り返り、無理に笑った。
「ごめんなさい、少しだけ……目眩がして」
「大丈夫ですか? どこかお休みになった方が」
「大丈夫よ。ただの寝不足だから」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
けれどリオの眉が、かすかに寄ったままだった。
優しさは、時に人を試す。
彼の言葉も、目も、沈黙も、そのすべてが“気づこうとしてくれている”優しさで、私はそれを拒むことが、ひどく苦しかった。
「もう少し、外にいたいの。……お願い」
そっと視線を逸らして頼むと、リオはそれ以上何も言わず、隣に立ってくれた。
何も言わない。それが彼の優しさだった。
でも、その沈黙がいちばんこたえる。
もし、次に戻れるとしても、きっとこの感覚はまた繰り返す。
自分がすり減っていくのを、誰にも知られずに、ただ受け入れていく。
私はいま、過去にいる。
でも、身体の奥では確かに“終わり”が進んでいる。
この命の、終着点へ向かって。
それでも。
それでも、彼の未来を変えるためなら──
この異変を抱えたままでも、私は、また繰り返すと決めていた。