火祭り七日前・果無寺
「涼多、元気ないわね。どうしたの?」
涼多の母が、お腹をさすりながら心配そうに尋ねる。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
母の隣で絵本を読んでいた妹の美月も、涼多と同じく母親譲りの黒くて丸い瞳を向けた。
「別に、何にもないよ」
「……本当に大丈夫?その、小学校の時みたいに」
悟られないように笑顔を作り、靴ひもを結ぶ。
「大丈夫だって。それに、あれは友達と階段で遊んでいて、僕が調子に乗って怪我しちゃっただけの話だし。……あんまり心配しすぎると、お腹の赤ちゃんに良くないんじゃないの?」
息子にそう言われ、涼多の母は「それは……」と口ごもった。
(赤ちゃんを理由にするなんて……)
罪悪感を覚えつつ、涼多はドアノブに手をかける。
「何かあったら、絶対に言うのよ」
「ありがとう。それじゃ、行ってくるね」
そう言うと、二人に手を振りバイトへと向かった。
熱い空気を含んだ風が、容赦なく涼多の肌を撫でた。
白蛇火祭り以外あまり特色のない後祭町だが、重要文化財に指定されている建造物がいくつかある。
涼多が拝観案内のバイトをしている果無寺もその一つだ。
戦国時代に覆水県で活躍した武将・落葉 飛花の菩提寺らしい。
言っては悪いが、知名度は殆どない人物だ。
地元民でも、知らない人の方が多いだろう。
そして涼多自身も、あまり歴史に詳しくはない。
精々、寺で渡された説明書と、先輩から聞いた話を知っている程度だ。
寺の周りは住宅が立ち並んでおり、奏の家『お城』が遠くに見えた。
屋上でパーティーでもしているのか数人の人影が動いている。
ぼんやりとそれを眺めながら、鬱々とした溜め息を吐く。
奏と『友達』になってから、出錆たちのいじめはかなりマシになった。
ただ、一緒に勉強をしたり、どこかに遊びに行ったり(あまり自分にもよくわかっていない)と『友達らしい』ことは全くしていない。
学校では常に女子生徒が近くにいて近寄りがたい、放課後も然り。
せいぜい挨拶を交わす程度だ。
だが昨日、『一緒に祭りに行かないか』と言われた。
嬉しさ半分、疑念が半分だ。
(僕が何も言ってこないから、逆に警戒しているのかなぁ……)
つい、そんな邪推をしてしまい、また深い溜息を吐く。
結局、奏がなぜ楽譜を踏みつけていたのか聞いていない。
周囲から羨望の眼差しを常に受け、『王子様』とあだ名されているキラキラした存在。
『なんで音律って、こんな普通の高校にいんだろうな?』
そう言われることも少なくない。
『ああいうのを勝ち組って言うんだろうな』とか『金持ちでイケメン、人生薔薇色だろうな』『いいよな、悩みなんかなさそうで……』と言われているのをよく耳にする。
でも――。
楽譜を踏みつけていた時の、あの姿。
見えない何かに追い立てられているような、何とも言えない表情。
(きっと、僕には想像もつかない悩みがあるんだろうな……)
常に様々な視線を向けられ、少しの綻びも許されないような生活。
それでも、笑顔でいないといけない。
それは、とてつもない重圧だろう。
あの日、それが爆発してしまったのかもしれない。
自分がすべきことは話を聞くことだった。
それなのに打算に巻き込んだ。
(……祭が終わったら、音律君を利用したこと、ちゃんと謝ろう)
涼多はそう決意した。