浮世の苦楽は壁一重
「……怖いんです。今が、幸せ過ぎて」
春は、タンポポの指輪がついていた人差し指を見つめ、悲し気に目を伏せる。
『身に過ぎた果報は災いの基』
頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。
身に過ぎた幸せは、かえって破滅を招くことになってしまう。
相応の幸せに、満足していなければ。
だが、「それでも――」を望んでしまう自分がいる。
自身の浅ましさに、春は小さく唇を噛む。
先程までは、楽し気に笑みを浮かべていたのに、と一路は思った。
温かい空間から、雪山にでも放り出されたような気分になる。
「私のような――」
「よくない」
ぴしゃり、と一路に言葉を遮られ、春は無言で頷いた。
穏やかな風が、暗い顔をした彼女の髪を揺らす。
「……『幸せ』じゃなくて、『嬉しい』にしておいたら、いい」
少しの間の後、一路は春にそう言った。
「幸せって、言葉は、重いときが、ある。だから、『嬉しい』にしておいたら、いい。それで、『嬉しい』が、いっぱいになったら、『幸せだ』と、思えば、いい。その時は、きっと、重く、感じない。ちょうどよく、感じる」
優し気に菫色の眼を細めた一路に、春はもう一度頷いた。
弱々しさが少し消えた、(儚げではあるが)光を孕んだ笑みと共に。
「ありがとう、ございます」
頭を下げる春に、一路は静かに微笑んだ。
「手毬唄で、志るこを、食べるけど、春も、一緒に、どう?」
一路がそう言って首を傾げると、春は眼を瞬かせた。
暗い話をしてしまった手前、ご一緒していいのか迷っているようだった。
春の心中を察した一路は、彼女の細い手をそっと引いた。
◇◇◇
「あらあら、想像以上の華やかさですね!」
宿に吊るされたてるてる坊主を見上げながら、颪は尻尾を振った。
桜が終わりを告げる頃。涼多たちが蛍と『てるてる坊主群』を作ってから、十日ほどの時間が経過したときの話である。
軒先にずらりと吊るされた、てるてる坊主(計二十個)たち。
温かな風が吹く度、楽しそうに揺れている。
時刻は、正午を過ぎたところだ。
この後、颪から頼まれた『仕事』をする予定になっている。
「まるで、役目を待ちわびているようだね。程よく晴れにしてくれそうだ」
縁側に腰かけていた薄氷は、傍らに置かれている蓮の実を口に放った。
ぽりぽり、とした食感が癖になる、スナックのような菓子だ。
玉虫花が描かれている皿に、丁寧に盛られている。
(……蓮の花、というと、葬歌さんたちのことを思い出すな)
雲一つない空の下、叶望は、颪と同じように顔を上げた。
犬や猫の耳がつけられ、紫陽花の刺繍が施されたてるてる坊主。
そのうちの四つには、ピアノと音符のボタンがつけられている。
どれも、奏が作ったものだ。
この宿で保管されている、ピアノの中身に向けたものらしい。
花冷図書館で、出水たちの家になっているあのピアノだ。
ちなみに、花冷図書館の軒先にも、同様のてるてる坊主が吊るされている。
いつも間に、ボタンを購入したのかは分からないが、奏らしい、と叶望は思った。ピアノと母親の重圧に悩んでいるのに、バネにできてすごい、と。
(……私は、どうしてこうもウジウジしてしまうんだろう。色んな人の思いや言葉を、何度も踏みにじってまで)
《それがいいのに》
草木が擦れる音よりも小さなそれは、叶望の耳には届かなかった。
代わりに、薄氷と颪が「ん?」と反応した。
二人して顔を見合わせ、同時に首を傾げる。
「薄氷さん、颪さん、どうしたんですか?」
涼多の問いに、薄氷は難しい顔をすると、数回頭を振った。
「いや、今、声が聞こえたような気がしたのだけれど……」
目と目の間につめを当てた薄氷に、涼多は不安げな表情を浮かべる。
「結界守を交代して直ぐなので、お疲れなんじゃないですか?……私も一昨日、永久山にある茶屋の掃除をしてきた疲れが残っていますし」
自身の腰を、トントン、と叩き、颪は苦笑いと共にそう言った。
同時に、どこかから、笑い声が風に乗って運ばれてくる。
「……もう、桜も見納めなので、花見をしている者たちが、あっちゃこっちゃにいますからねぇ。きっと、その声でしょう」
その言葉に、薄氷も「そうだね」と納得の意を示した。
颪は、すいと小皿に盛られている蓮の実に視線を向ける。
「……ずっと昔、ある旅人さんから聞いたんですけど、タツノオトシゴ(仮)さんの腹の中にある町には、大層美しい蓮池があるそうですね」
「みたいだね。……何度か、腹の中の町に行ったことはあるけれど、『町の者以外が、蓮池に立ち入ってはいけない』と言われてお終いだったから」
町の者が絵を描いて誰かに渡すことも、何らかの道具を使って撮影することも禁じられている、と薄氷は言った。
「……言い方はよろしくないけど、結界台を『餌』に見せてもらうこともできない。あの町は、結界台を必要としていない町だからね」
薄氷の言葉に、颪は「そんな、悪代官みたいな」と苦笑いを浮かべる。
続けて、「今頃、どこにいるんでしょうね」と茶を飲み干した。
「うう~ん、かなり遠く、としか言いようがないね。……ただ、澱や穢れが溜まっている場所を、巡っていることは確かだ」
「そうですね。まったくないのも問題ですが、溜まりすぎるとろくなことがない。……不思議ですよね。誰かから、そうしろ、と言われた訳ではないのに」
「ああ、彼らのように、穢れを喰らう種族にとっては『普通』のことなのだろうけど、本当に不思議だよね。そして、その謎を解き明かそうと思う者も、今のところ現れていない。……俺を含めて」
「ええ。心のどこかで『停止』のようなものが……いえ、興味深くはあるのですが、『そういうものなんだな』以上の思いが湧いてこないんですよね」
薄氷と颪は、二人して顔を見合わせる。
そして、「今更なことを――」と揃って乾いた息を吐き出す。
「…………知識欲がない訳ではないのだけれどね。そういった方向には、まったくもって舵を切れない」
「まぁ、全て知ることが、必ずしも幸せとは限りません。……それはきっと、時に『愚かな無知』であり時に『幸せ』なことなのでしょうね」
「ははは、なんだか難しい話になってきてしまったね」
「いやはや、まったく」
薄氷と颪は、縁側を「ぽん」と叩いて笑い合う。
だがしかし、夢はかなり不満があるようで――。
「言い方はよろしくないですけど、『ケチ』ですね。薄氷さん、前にタツノオトシゴ(仮)さんの町のトラブルを、解決したこともあるのに」
頬を膨らます夢に、薄氷も苦笑いを浮かべた。
彼は「それとこれとは、というやつかな」と夢に笑いかける。
「君たちの世界にだって、国内外問わず、そういった掟……『身内』以外が立ち入れない決まりのある場所は、数多くあるだろう?それと同じさ」
「……まぁ、そう言われると」
釈然としない表情を浮かべながらも、夢は納得した。
「ささ、それでは仕事をお願いします!玉虫花の肥料作りが終わる頃には、笛さんたちも来られるでしょうし!!」
颪は、ポンッ、と両手を合わせると、木の根の足をぞろぞろ動かして、「こちらから参りましょう!」と裏口の戸を開けた。




