血色の万華鏡
「大丈夫か!?」
晩稲の焦った声が聞こえ、奏は閉じていた目を開けた。
目の前には地面があり、左の耳からやけに大きな心音が聞こえる。
視線をずらすと、見覚えのある色が飛び込んできた。
晩稲が着ている、臙脂鼠の羽織。
僅かに顔を上げると、彼は空に両手を突きだすような姿勢で倒れていた。
どうやら自分は、その上に菊と二人して倒れ込んでしまっているようだ。
砂埃が薄っすらと立ち込めており、欠けた瓦や羽子板が地面に転がっている。
音波魚兎騒動時と似ているな、と奏は思った。
しかしどうして、自分はこうして倒れていたんだ?
直前の記憶を思い出そうと、片手を額に当てた。
(……っあ、そうか。蕉鹿に思いっきり突き飛ばされて、ちょうど家から出てきた晩稲さんにぶつかったんだっけ)
晩稲の驚いた声と、菊の悲鳴。
彼女を下敷きにしないように、体を捻ったところまでは覚えている。
(……で、その後すぐに何かが破裂するような音がして)
しかも一つや二つではない。
大きな『バァンッ!!』という破裂音が、四、五回は聞こえた。
そのあとは、少しの間、気を失っていたようだ。
その時に耳がやられたのだろうか。
「なんだ?」「どうした?」と聞こえてくる声がどこか遠い。
黙っている奏をどう思ったのか、再度「大丈夫?」と晩稲は声をかけた。
その声にハッとなり、奏は急いで声を出す。
「だ、大丈夫です」
「菊は?」
慌てて菊に視線を移すと、すうすうと寝息が聞こえてきた。
自分と同じく気を失っているだけらしい。
ホッと胸を撫でおろす。
そして「すみません、今どきます……」と彼女を抱えたまま上体を起こす。
「もう、大丈夫かな」
晩稲は、自分たちの周り(畳一帖分の広さ)に張っていた結界を解く。
いたた、と頭を押さえながら起き上がる。
奏が礼を言うと、「いいってことよ」と笑った。
「しっかし、一体全体なにがどうなって――」
晩稲の笑顔が一転して、無表情に近い驚きの表情になる。
彼の視線は、自分の後ろに向けられているようだった。
どうしたのか、と奏も後ろに視線を向けようと――。
ガシッと頭を押さえられ「見るなっ!!」と鋭い声が飛ぶ。
だが、少し遅かった。
視界の端に、血のついた蹄が見えたのだから。
菊を地面に寝かせ、力任せに晩稲の手を振りほどき、後ろを振り返る。
鹿の肢が一本、ゴロリと転がっていた。
口が空気をひゅっと吸い込み、そのまま固まってしまう。
油の切れた機械のように、ギギギと顔を上げる。
砂埃の晴れた視界。その半分以上が赤に染まっていた。
自分たちの転がっていた(結界を張られていた場所)だけが、長方形に切り取られたかのように綺麗だった。
肢、鞍の残骸、茶、赤、赤、赤……
血色の万華鏡のように、あちらこちらに血が飛び散っている。
その中心に、彼はいた。
倒れた体は動く気配がなく、右腕はおかしな方向に曲がっている。
顔は見えないが、髪にもべっとりと血が付いているのは分かった。
破れた風船のように、吹き飛んだ肢の付け根の皮が揺れている。
それ以上に奏の目を引いたのは、胴体だった。
まるで、熟れすぎた柿が、地面に落ちた時のように――。
「……あ、しっ、しょ、うろ、く」
声なのか空気なのか判別のつかない音で、奏は蕉鹿を呼んだ。
しかし、返事はない。
放心したまま動けずにいると「蕉鹿さんっ!」と焼野の声が聞こえた。
その声に、奏は弾かれたように立ち上がり、蕉鹿に駆け寄る。
焼野も負傷した腕を押さえながら、よろよろと近づく。
傍にしゃがみ込むと、不規則な息が聞こえてきた。
ごひゅー……かひゅっ……、と、今にも消えそうなか細い息。
目は閉じられていて、いつもの若草色は見えない。
ごふっと咳をしたら、口から赤黒い血が出てきて奏の手に飛ぶ。
生きていた安堵と、こんな状態になっても生きている事への恐怖を感じた。
普通だったら、死んでいてもおかしくはない怪我なのに。
彼の首には、瓦の破片が犬の牙のように刺さっており、鹿の胴体からは剝き出しの肉や骨、臓物が見え、ドクドクと夥しい量の血が流れている。
胃の奥から、なにかがせり上がってくるのを感じた。
しかし、今はそんな場合ではない、と必死に唾を飲みこんだ。
「き、綺麗な布を持ってきます。それと、病院に連絡を――」
言い終わらないうちに、焼野は「痛っ!」と自身の手の甲を押さえた。
抑えた手の隙間から、ポタポタと血が地面に落ちていく。
傷口は、鋭利な刃物で切られたかのようになっていた。
どうして、と思う暇もなく、奏の頬にピリッとした痛みが走る。
何かが、物凄い速さで通り過ぎて行ったようだ。
飛んできた方向は、蕉鹿からだった。
焼野から彼へと視線を移す。
よく見ると、キラキラと光る赤い何かが蠢いているのが見えた。
テントウ虫を少し大きくした感じの、綺麗な赤色の虫。
奏はハッキリと見たことはなかったが、それは、花冷図書館で飼育されている鶸虫だった。
ブチ……ブチ……
小さく、なにかを引き千切るような嫌な音が耳朶に届く。
「…………食ってる」
脚を器用に動かし、鶸虫たちは蕉鹿の肉をクチャクチャと食らっていた。
「やっ、やめろっ!!」
我に返り、近くにいた一匹を掴もうと手を伸ばす――。
ひゅんっ
風を切るような音が聞こえたかと思うと、手の平がスパッと切られていた。
続いて、二の腕が外套越しにズバッと切られる。
幸い切り落とされることはなかったが、ブシュッと血が溢れ出た。
傷口の皮が、卵殻膜のようにベロンとなっている。
「…………っ!」
思わず手を引っ込めそうになるが、グッと堪えた。
再度伸ばそうとする奏の腕を、晩稲がガシッと掴んだ。
先程よりも強い、万力のような強さだ。
「そちらは生身の人間、これ以上は危険だ!焼野さんたちと一緒に、人を呼んで、役に立ちそうな物を探してきて!!」
終わったら何処かの家にでも入ってて、と強い口調で言われる。
確かに、自分ではかえって足手まといになってしまう。
「早くっ!出来ることをやるっ!!」
「っ!は、はいっ!!」
奏の返事を聞くと、晩稲は菊を家に運びに行った時に持ってきたのであろう厚手の手袋をして、威嚇の態勢をとっていた鶸虫を捕まえる。
脚に肉片が絡まり付いており、晩稲は少しの間肉片を見つめた。
その後、慎重に札の張られた壺の中へと入れる。
何処か見覚えがある、と思ったその壺は沼の神の物だった。
遺品整理をした、あの神様の。
誰かいないか、と奏は周囲を見渡すが、人っ子一人いない。
叫び声は、至る所から聞こえてくるのに。
「もしかして、ここだけじゃないのか……?」
「……そう、みたいです」
焼野が朝顔電話を手に、迷子のような声を出す。
しかしすぐにキッと目に光を宿し、使えそうな物を探しに向かう。
「奏さんは、これを先に蕉鹿さんの所へ……!」
包帯やら布やらを渡され外に出ると、ヤツデが晩稲から手袋を受け取っていた。
「後は私に任せてください!晩稲さんは、何処か安全な場所に……」
「うっ、お、お願いします……」
ヤツデの声につられて彼を見ると、右目に深い切り傷が走っていた。
左目も、鶸虫が目蓋を掠りでもしたのか、開きにくそうだ。
奏から布と包帯を受け取ったヤツデは、「早く、晩稲さんと一緒に……」と額に汗を滲ませながら言った。
「で、でも、ヤツデさんだって、手や顔に――」
「私、幽霊にしては傷の治りは早い方なので、大丈夫ですよ!」
無理矢理笑みを作り、元気づけるような口調で話す。
酷い火傷や切り傷があるのに……。
「……問題は、この虫ですね。捕ろうとしたら邪魔をしてくる。二十もいない筈なのに。しかも、動きが素早い」
傷の所為で上手く手が動かせないのか、苛立った口調でそう言った。
その時、長い舌が伸びてきて、ヤツデに切りかかろうとしていた鶸虫を掴む。
舌は、焼野の後頭部にある口から伸びていた。
そういえば二口女だったな、と奏は彼女を見る。
「……あまり見ないでください。人に見られるのは嫌なんです」
「あっ、すみません」
視線を逸らした瞬間、別の鶸虫が焼野の舌を切り裂いた。




