記憶の蓋の蓋
彼の言うことは、ルテにはピンとこなかった。
きっと、蛍が春の弟だからこそ感じることなのだろう。
「もしかしたら、お父さんもお母さんも『優しく』なかったんじゃないかなって。……ただ、僕がショックを受けないように、そう言っているのかなって」
そうして、話しているうちに春自身もそれを信じ込むようになった。
自分だって、本当は優しくされたかったから。
「なんか、春お姉ちゃんを見ていると、そう思っちゃう時がよくあるんです。……僕の勘だし、あまりあてにはできないけど」
かといって、根掘り葉掘り春を質問攻めにするのも躊躇われる。
そう思いたいのなら、それでいいと思う。
「ただ、もし僕の思っていることが本当なら、ちょっとでもいいから、寄り掛かって欲しいなって思うんです。……一人で、抱え込まないでって」
「……蛍さんは、私よりもずっと大人ですね」
ルテがそう言うと、蛍は「ええっ!?」と驚きの声を上げた。
「そ、そりゃあ、六百年は生きていますけど、でも、いつまで経ってもこんな感じですし、大人だなんて、お世辞でも……」
「お世辞ではありません。心から、そう思います」
ルテは座ったまま体を反転させると、蛍を見上げ微笑んだ。
「あ、ありがとう、ございます……」
先程とは打って変わり、年相応の子供の表情になる。
照れ隠しのつもりか「つ、次は髪を纏めます……」と蛍は三つ編みにされたルテの髪を手に取り、黙々と作業を再開した。
ルテも鏡に向き直り、少し手持ち無沙汰気味に下を向く。
髪形雑誌と比べると、多少歪ではあるが、かなり形になっている。
あと数回も練習すれば、完璧なものになるだろう。
蛍が最後の仕上げに入った時、「蛍君~」とヤツデの穏やかな声がした。
「なんだろう?ちょっと行ってきます」
ルテが「分かりました」というよりも早く、蛍は玄関へと向かう。
中途半端に挿さった歩揺簪をすっと抜き取り、鏡台に置く。
一人になった空間に冷たい風が吹き、ルテの前髪が揺れる。
「……嘘を、本当だと信じ込む」
先程、蛍が言った言葉。それが妙に引っかかる。
胸の奥がざわつくような、頭がツキリと痛むような。
(でも、どうしてそう感じてしまうのでしょう?)
納得のいく答えが見つけられず、ルテは首を傾げる。
同時に『これ以上考えるのは良くない』と己の勘が警告を鳴らす。
しかし、それもどうしてか分からない。
ただ『思い出すな、思い出すな。思い出してはいけない』と記憶の蓋が、ほかならぬ自分自身によって押さえつけられている。
(はあ、折角、肩が軽くなって気分が良かったのに……)
楽しい時間に、水を差された気分だ。
ルテは大きな溜息を吐き、鏡の中の自分と目を合わせた。
黄金色の瞳の中に、横一文字の瞳孔がある。
周囲からは『山羊みたい』と評されている瞳孔。
蕉鹿に『なんか関係あるんスか?』と、百年程前に聞かれたこともある。
彼は鹿と縁(?)があるだけに、そう思ってしまったのだろう。
しかし、答えは否だ。
(……なぜなのでしょうね)
ルテ自身、何度も疑問に思った事ではある。
考えたはいいものの、結局答えは出なかった。
ただ言えることは、ずっとずっと昔はこうじゃなかった、という事だけ。
(そう昔は……昔は、よくある鳶色で、瞳孔もこうではなく、……ああ、何度も考えているのに、なにも分からない。どうして――)
コトン
何かが倒れたような音が聞こえ、視線を向けると、蛍が持ってきた二体の人形が、折り重なるように倒れていた。
風で倒れてしまったかと思い、再度置き直そうと立ち上がる。
ザーッと頭の中に、不明瞭な映像が流れ込んできた。
「………………っ!?」
頭がズキズキと痛み、ルテは思わず片手で額を押さえる。
一人の……蛍と同い年くらいの子供が、倒れている両親らしき人たちの体を、必死に揺すっているのが見えた。
声は聞こえないが、きっと父と母を呼んでいるのだろう。
三人とも顔がぼやけていて、ハッキリとしない。
(……私は、この方たちを、知って、い、る?)
それだけではない。
二人の名を呼んでいる子供の末路も、自分は分かっている。
(いや、違う。あれは私から「はい」と言ったんだ。禁を破った両親の罪を贖う為に。そして、両親のもとへと行く為に。……優しかった、村の人たちの為に)
だから、目の前の彼らは全くの別人だ。
自分は望んで、ああなったのだから。
(違う、違う。二人の最後なんて、見ていない……。父も母も、山に入って……帰ってこなくて、それで、……それ、で、それっきりだった、はず……)
ぬるりとした何かを感じ、自身の手の平を見る。
手が、二人の血で真っ赤に染まっていた。
どこからか、別の人の声が聞こえてくる。
一人や二人ではない、かなりの人数だ。
『ちょっと前に、この二人があの山に入るのを見たんだ!』
『なんてこと!あそこは入ってはいけない場所なのに』
違う。二人はあの山に入ったりなんてしていない……!
そう言いたいのに、恐怖で口が開かない。
『余所者が!しきたりを甘く見やがって!!』
『雨が止まねぇのは、こいつらが神さんを怒らせたからだ!!』
確かに、自分たち一家は余所者だ。
でも、今まで村の掟を破ったことなどない。
それ以外の問題を起こすこともなく、村に馴染んでいた筈だ。
信じたくない、そんな思いが頭を駆け巡る。
『償いを、させなければ――』
無理矢理、腕や髪を引っ張られ、二人から引き離される。
逃げようとしたが縛り上げられ、形ばかりの飾りつけをされた。
(いや、これは嘘だ。私は、私は本当に、自分から……!!)
穴に落とされ、上からぬかるんだ土をかけられる。
痛みに呻きながら顔を上げた瞬間、落ちてきた土が目に入った。
ああ、どうしてこんな事に。
こんな状況になって尚、信じられなかった。
(…………私は村が、前みたいに、平和に、なる、ように、と)
雨が降り続く前は、あんなにみんな仲良しだったのに。
いつも向けてくれていた笑顔の面影は、もう見当たらない。
笑顔だけじゃない。
黄金色に輝く稲穂の海も、青空も作物を照らす太陽もこの村には無いのだ。
体が震えているのは、雨の所為だろうか?
嫌だ嫌だ嫌だ、死にたくない……!
父と母を呼び、痩せ細った喉を懸命に震わせて泣き叫んだが、無駄だった。
だって、もう彼らはこの世にいないのだから。
偶然なのだろうが、雨の勢いがマシになった。
ああ、どうして今なんだ?
村人たちの『これで良かったんだ!』という喜びの声が聞こえてきた。
皆『これで、村は自分たちは助かるんだ!』そう言って狂喜乱舞している。
助けなんてこない。
本当にそんなモノがあるのなら、そもそもこうなってはいないのだ。
口の中に土が入り、激しく咽る。
その間にも、体はどんどん埋もれていく。
痛む目を開け、空を見上げるが、鈍色の雲と村人の顔しか見えない。
神様らしき何かが、やってくる気配もない。
それでも、いないと分かっていても、願わずにはいられない。
自分目掛けて降ってくる土も雨雲も、何もかもを吹き飛ばしてください、と。
雨の勢いこそ弱まったが、まだ空は雲に覆われているのだ。
このままでは、全ての死が無駄になってしまう。
しかし、もう何も届かない。
無性に父と母に会いたくなった。
亡骸をこの目で見たというのに、早く来て、と願っていた。
無駄なことだと、分かっているのに。
最後に見た二人の首には、横一文字に切られた傷が――。




