みんなゴミ箱へ
流れ出た涙は、頬を伝い地面に落ちる。
目の下の血汚れだけが、洗い流されていく。
ぐすっ、ぐすっ……鼻をすする音が耳朶に届いた。
服も、元の色がわからないくらいに真っ赤に染まっている。
所々が破けたそれは、もはや服とは言えないのかもしれない。
俺はただ、何をするでもなく、じっと子供を見下ろしている。
駆け寄るべきなのはわかっているはずなのに、体が動かない。
いや、動けない。
石にでもなってしまったかのようだ。
ふと顔を上げると、お宿の玄関広間に戻ってきていた。
違うのは、空が真っ赤と言うことだろうか。
周囲にいた人影も消えていた。
ここに居るのは、俺とあの子の二人だけ。
白い砂利の敷かれた庭に、赤い川のような跡ができている。
這った所為でできたであろう川。
赤い液体が、ゆっくりと砂利に染みこんでいく。
作り手は言わずもがな、目の前にいるあの子だ。
もう式台までやってきていた。
ずいっと腕を伸ばしてくる。
ありえない方向に曲がった腕からなにかが飛び出していた。
白い『何か』。
それを骨だと認識するまで、そう時間はかからなかった。
骨と、それに押し出されるように破けた肉や皮。
何かわからない、黄色くて透明な汁。
きれいに結われていたであろう、子供特有の柔らかな髪は解け、血と絡まり、見るも無残に千切れ、ゴワゴワになっている。
子供の悲惨な姿とは裏腹に、なんとか落っこちないでいる、髪ゴムの白い犬だけがニッコリと笑っていた。
その犬だって、顔の半分ほどが赤くなっている。
笑っているのに、どこか悲しそうだ。
あたし……の…て……へんな……に……まが……ゃ……てる
……あ、ああ……あしも……はが……て…ぇ……みえて……る……よぉ……
とても怯え混乱した声。
『大丈夫だよね?』『何とかして』『どうしたらいいの?』と訴えている。
『当然だ』としか言いようがない。
大人であろうが子供であろうが、自分の体がこんな風になっているだなんて、恐怖でしかないだろう。
あともう少しで、足首を掴まれそうな距離だ。
目が合った時からずっと、俺を見つめている。
すいっと視線を逸らす。
ひゅうひゅうと、恨みの籠った呼吸が聞こえてきた。
名前は知らない。
それは逆も然り。
だから本当は、声も知らない。
俺が勝手に作った声。
本当は、もっと可愛らしい声だろう。
鈴がコロコロと転がるような可愛い声。
でも、俺にはそんな声は想像できないし、できたとしてもこの状態でその声が出せるか、と問われれば、答えは否だ。
お互いに、会ったことは一度としてない。
それでも、俺に助けを求めてくる。
そして俺には、助ける術がない。
あっ、はははははは!いっちょ前に泣いてる、ざまぁみろ!!
「ごめんなさい」
意味もない謝罪を口にする。
今の俺にできる、唯一の事だから。
……どぉ、し…て?
ど…………して、た、たす……て、くれ……のぉ……?
当然の報いよ!正義の鉄槌を下したまでよ!!ざまぁみろ!!
「……ごめんなさい」
意味もない謝罪を口にする。
今の俺にできる、唯一の事だから。
こ…………に、いた……い…………に
…ん………の……せい…な……のに……、ひ、ど、い
恨むんだったら、あなたの■■さんを恨んでね。ざまぁみろ!!
「…………ごめんなさい」
意味もない謝罪を口にする。
今の俺にできる、唯一の事だから。
ゆるさない。
ゆるさないゆるさない。
ゆるさないゆるさないゆるさない。
ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない。
ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない。
ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない。
ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない。
死んで償え。
それでも、許しはしないけど。
どこからか、トストスと足音が聞こえる。
同時に『きゃははは……』と声を抑えて誰かが笑っている。
「わかっているさ」
そう呟く自分の顔は、どれだけ虚しい顔をしているのだろうか?
足音は、どんどん大きくなってきた。
楽しそうに『ざまぁみろ。ざまぁみろ』とはしゃぐ、母の嗤い声。
ずっと聞こえているソレは、もはや雑音だ。
早く、地獄に落ち――。
「奏君、さっきの事、もう聞いたっスか?」
その瞬間、恨みの籠った声も耳障りな音もパチンと消えた。
声のする方に、ギギギ……と顔を向ける。
廊下の角から、蕉鹿がひょっこりと顔をだした。
そのまま、玄関広間の壺の前でしゃがみ込んでいた奏に話しかける。
いつもと変わらぬ彼の様子に、張り詰めていた緊張がふっと抜けた。
しゃがんでいなければ、そのまま畳に倒れ込んでしまいそうだ。
「さっきのって……、酒の話か?それなら、まだだけど」
「どうやら解決したみたいっス」
薄氷から聞かされた内容を説明する。
「郁子……、災難だな」
「そうっスね」
それ以外に言いようがない。
蕉鹿は、目の前にある壺を見つめながら奏に問う。
「生け花好きなんっスか?それとも壺に興味があるとか?」
「…………まあ、そんなところ。なかなか近くで見れる機会もないし」
家に壺は幾つもあったし、花がいけられている物もあった。
でも、こんな生け花然とした感じじゃない。
「……母さんが、気に入った花を適当にって感じだったな。『あなたに触られたくないの、だから絶対に触らないでね』って花が変わるたびに言われたよ」
「へえー、『花が変わるたび』ってことは、結構頻繁に変えているんスね」
「花が好きな人ではあったから。それに、(姑が存命の時に馬鹿にされた、自分の大好きな)花に囲まれていると、気持ちが安らぐって(弟に)言っていた」
『アナタに似て、貧乏くさい花ね』
『壺の色と花の配色が全く合っていないわ』
『それを玄関に飾るつもり?やめて頂戴、恥ずかしい……』
『この家で、私の息子も暮らしているのよ?自分本位もいい加減に――』
ガチャンッ!!と何かが割れる音。
『あー、もうっ!死んでからも私を苦しめやがって!!お前が選んだ壺と花の方が、よっぽどセンスないわよっ!ケバケバしい、古臭いっ!!ウザいウザいウザいウザいウザいウザいウザいウザいウザいウザいっ!!気色悪いっ!!!』
壺も花もゴミ箱へ。
まだ瑞々しい花が、苦しそうに覗いている。
壺の破片が互いに擦り合い、嫌な音をたてていた。
役目を果たせなかった無念の声。
今思えば、数少ない『よかれと思って母に送った品』だった気がする。
でも、火に油にしかならなかった。
『アイツ、わざと私にこんな物送ってきたのよ?こっちは一応の気を遣って、無難なものを送ってやったっていうのに!『義理の母』ってだけで』
数えるのも忘れてしまった、酔い潰れている時の母の愚痴。
いい匂いであるはずの香水が、何故か臭く感じた。
髪は乱れて眼は虚ろ。
まったく楽しくなさそうな母。
子供の頃は『大人はお酒を飲むと、楽しい気分になれるんじゃないの?』なんて疑問に思ったものだ。
『何見てんのよ!!』
破片の一つが飛んできた。




