少し早い虎落笛
「お菊ーー!!」
「あっ、父ちゃん!!」
太陽が山の向こうに沈む少し前、おっとりとした顔の男性が屋上にやって来た。
茶色の着物には、見事な雉の刺繍が施されている。
「予定よりも早いけど、もう大丈夫なの?」
「ああ、父ちゃんの回復力は、お菊も知っているだろ?」
袖をまくり、ぐっと力こぶを作った。
ニッコリと笑う顔が、菊とそっくりだ。
「……よかった!!」
「ははは、心配かけたな」
菊が嬉しそうに駆け寄ると、おかっぱ頭を優しく撫でた。
撫でられた本人も、ギュッと父を抱きしめる。
『大丈夫』とは言っても、心配だったのだろう。
どことなく自分の父と雰囲気が似ていると涼多は思った。
「よかったね」
「うん」
叶望の言葉にコクリと頷く。
本当に、何事もなくて何よりだ。
「それにしても、なんであんな重い物を一人で持とうと思ったのよ!鬼さんや出水さんにお願いしたらよかったのに……」
「いや~、急に挑戦してみたい思いが湧いてきて、つい……」
この『重い物』というのは米俵のことらしく、一俵(約60kg)を持ち上げようとして腰を痛めた仕舞ったそうだ。
「そんな子供みたいなことしないでよ!自分の年を考えて!!」
「といっても、父ちゃんはまだ四十そこそこだぞ?できると思ったんだ……」
「まったく、まったく……!!」
バツが悪そうに目を逸らす父親を、ポカポカと叩く。
本気というわけではなく、じゃれ合い程度の威力だ。
父親は苦笑いを浮かべつつも、「ごめんごめん」と更に菊の頭を撫でる。
二人して、微笑ましい親子の様子を眺めていると、父親と目が合った。
穏やかな笑みを、涼多達に向ける。
「今日は、ありがとうございました」
そう言って頭を下げたので、二人も姿勢を正す。
「いえ、僕達も、滅多にできない経験ができたので」
「はい、それに――」
志るこの礼を言おうとして、叶望はハッと口を噤み菊を見る。
理由は、『菊の独断だとしたら咎められるのでは?』と思ったからだ。
優しい人でも『全く怒らない』というわけではないだろう。
初対面の人に対して、失礼な考えかもしれないが。
迂闊なことを言って『菊!!これは売り物だろう!まったく、勝手なことをしてっ!!これだから――』と怒られでもしたら申し訳ない。
「それに?」
「あ、いえ、楽しかった……です」
首を傾げる父親に、作り笑いを浮かべ曖昧な返答をする。
「菊さんに志るこを食べさせてもらったんですけど、とっても美味しかったです!凄い、料理がお上手なんですね!!」
叶望の心情を知るはずもなく、涼多は父親に昼過ぎの出来事を話だす。
ビクッと体が強張るのと同時に、それを表に出さないように力を籠める。
恐る恐る父親を見ると、彼はぱぁっと破顔していた。
そのまま、照れ隠しのように自身の頬を掻く。
「そ、そうですか。そう面と向かって言われると照れますね……」
「もう!父ちゃんったら!!」
菊が、腰に手を当て父を見上げる。
まるで、自分のことのように嬉しそうな表情だ。
その時、びゅううっと強い風が吹いた。
柵を吹き抜ける風は冷たく、ぴゅうぴゅうと笛のような音を立てている。
「………………情けないなぁ」
勝手に決めつけて、勝手にオドオドして、勝手にホッとして――。
少し早い虎落笛のお陰で、彼女の呟きは誰にも聞こえることはなかった。
「郁子さん、どうしたの?」
「なんでもないよ」
強いて言うのなら、勝手な想像をした自分を叱責していただけだ。
「ずっと、風に当たっていたから冷えたんじゃない?大丈夫?」
「心配してくれてありがとう。大丈夫だよ」
差し出された湯呑を受け取りながら、礼を言う。
「兎火君こそ大丈夫?その、風がモロに当たっていたから……」
奏たちと交替してから、今の今までずっと涼多は風上に立っていた。
叶望に風が直で当たらないように、壁になってくれていたのだ。
申し訳なくて、何度か交代を申し出たのだが――。
「気にしないでよ。僕は結構、暑がりだから、今がちょうどいいんだ」
そう言われてしまっては、何も言えない。
(もしかしたら、お母さんが妊婦さんだから、『冷え』を凄く気にしているのかも。そういう情報が入ってきそうだし……)
きっと将来『いいパパ』になるなと思う反面、少し不安になる。
異性の味方をし過ぎるところがあるから――。
◇◇◇
いつだったか、父がテレビの前に置いてあったガラステーブルを砕いたことがある。
正確には、何度も拳を叩きつけられて限界がきたと言うのが正しい。
とどめを刺した原因が、(ブツブツと呟いていた言葉から、断片的に読み取っただけだが)涼多のような人の言動だったのだ。
発言主は、父の元教え子。
駅で偶然再会し、近くの喫茶店に入る運びとなった。
「先生が俺の両親を説得してくれたおかげで、自分の望んだ道を歩けています!今はとある小説のコミカライズをやっているんです!」
「いやいや、俺は何もしてないよ。……お前が中学生だった頃はまだまだ偏見があったからな。親御さんの気持ちもわからなくはなかったんだが、でも、一番大切なのは『本人の意思の尊重』だ。俺はそれをしたに過ぎない」
それから話は弾み、教え子の妻の話になった。
「本当、『子供ができた』って言われた時は、嬉しくって涙が出ました。ああ、自分ってこんなに涙出るんだって驚くぐらいで」
「……そうか」
「ただ、妻がしんどそうにしているのを見るのは辛いですね。起き上がれない時なんか『ごめんね』って謝ってくるんですよ。何もできない自分が歯痒くって……」
できる限りサポートしているのだが、如何せん『妊娠』と言うものがよくわからない。
やったことが裏目に出て、かえって手間を取らせてしまうこともあった。
妻の母親が来てくれてはいるが、ずっとじゃない。
本やスノドロで得たりした情報を使って何とかやっているのだが。
結局『あなただって仕事で疲れているのに、ごめんなさい』と申し訳ない顔をさせてしまう。
あっちだって、別の疲れが圧し掛かっていると言うのに――。
「うーん、でも、それは仕方ないんじゃないのか?産むのなんて、おん……女性にしかできないんだし、理解できるものじゃない。逆にお前が気を遣い過ぎると、つけあがるぞ?」
「……………………え?」
「女って言うのは子供を産むと、変なところで強くなるからな。『しんどいしんどい』言っている時こそ『甘えるな!!』って渇を入れてやらないと」
「せ、先生?」
叶望の父の頭に、元妻と娘の顔がよぎる。
娘――いや、あんな奴は俺の娘じゃない。
法だなんだに守られて強くなった気でいる馬鹿だ。
『アンタは、間接的な人殺しだっ!!!!!』
ふざけるな。
生物の役目を放棄して、挙句それを俺の所為にしやがって!!
ああ、もっと押さえつけておくべきだった。
弱くて、他責思考で、子供を産むくらいしかできない癖に偉そうに。
そういや、こいつがコミカライズしているって話していた漫画(正直、底辺過ぎて困る内容だ)は『魔力のある世界で、少女が怪物と戦う話』だったか?
はっ、そういった力がないと何もできない癖に。
何が『強い女』『戦う女』だ。くだらない。
こういった馬鹿な漫画が世に出るから、やれ『平等』だ『対等』だと勘違いする馬鹿が出るんだよ。
「兎に角な、甘やかすな。上下関係を叩き込め。優しいお前には酷かもしれんが、これは大切な事なんだ。生まれてきた子供が女だったら、小さいうちから『正して』おけ」
俺は失敗したが、こいつはまだ間に合う。
ああ、本当、もっと厳しく躾けておくんだった。
それこそ、男女平等なのだから、痣の一つや二つできるくらい殴り飛ばしておけば、もう少しマシな考えが持てるようになったはずだ。
あまり『娘』と言うモノに興味がわかず、怒鳴りつける程度で済ませてやったのが間違いだった。
一応は『一姫』という言いつけが守れたから、甘くなっていたのかもしれない。
残ったあいつにはもっと躾が必要だ。
ただでさえ、当てつけのようにいつも俯いて、陰気な顔をして。
言いたいことがあるなら、ハッキリ言えばいいんだっ!
それなのに、『察せ』とばかりに黙っている。
これだから、馬鹿だって言うんだよっ!!
内心、俺のことを(馬鹿なりに)見下しているに決まっている。
その癖、俺の質問には何一つまともに答えられない馬鹿。
郁子家の恥だ。実際、何度か言ってやったのに何も変わらない。
形だけ、申し訳なさそうな顔をするだけだ。
言われないように『努力』をするのが筋ってものだろうがっ!
ああ、思い出すだけで腹が立ってきた。
はあ、今の『殴ったら虐待』という風潮に唾を吐きかけたい気分だ。
そんなだから、弱い奴しか育たないんだよっ!!
『殴らない』『蹴らない』『叱らない』『外に締め出さない』『反省するまで正座させる』『飯抜き』それらを引っこ抜いたらこの様だ。
目の前の、元教え子は黙って俯いている。
きっと、俺の話に感動し、今までの自分が、いかに甘ちゃんだったか馬鹿だったかを反省しているのだろう。
良かった。
『元』とはいえ教え子だ、ちゃんと道を示さなければ。
「……残念です」
「は?」
ポツリと呟かれた言葉に、叶望の父は固まった。




